「播州武侯祠遍照院」という難しい名前のブログから転載。このブログには私の記事(徽宗皇帝や酔生夢人)を引用していただいたこともあって、(それは偶然知ったのだが)親近感を持っている。易に興味をお持ちのところも私と少し似ているようだ。で、この管理人氏が易で未来の党を占った結果が、あきれるほどそのものズバリなので、紹介する。易の解説(解釈)部分は別の人のブログのようだが、占ってこの卦を出したこと自体が凄い。
最初の卦は「地天泰」で、本来なら「安泰」を意味する卦だが、その4爻と5爻を変じた変卦(今後の進展)が、まさしく未来の党の状況にぴったりなのである。二つの爻を変じるというやり方は、おそらく私がコインでやる安直な易とは違う本格的なものなのだろう。私が言ったりやったりするのは、だいたいそういうレベルであることを今のうちにお断りしておこう。だから私はいつも自分は中学生レベルだと言うのである。
下の記事において、今にも除かれようとしている、トップにいる小人が嘉田由紀子一派であることは明らかだろう。クーデターを起こす「五人の君子」の「五人」にはべつに拘ることはない。ただの象徴的なものだ。つまり、この場合は、クーデターを起こす側が君子、つまり道理の側であり、しかも組織のメンバーのほとんどがそちらに属しているのである。まさしく未来の党そのままである。
そして、面白いことに、
「そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。」
の「(九四の)執政大臣」は、まさに小沢一郎そのままではないか、と感じられる。
かの剛腕イメージとはうらはらに、小沢が実にジェントルマンであり、謙虚であり、むしろ自信不足なほどであり、周りとの協調を重んじる人間であることは、知る人ぞ知ることだ。見かけがあれだからふてぶてしく見えるが、内面はナイーブすぎるほどであり、何かあると世捨て人的に隠れる癖がある。だからこそ、多くの人に好かれもするのだが、本人の志向が常に作戦参謀や実務責任者の立場を好み、神輿になりたがらないのだから、実は「一兵卒」という気楽な立場に逃げられたら彼は本当は幸せなのだろう。
だが、時代と社会はそれを彼に許さない。彼は自分の志向をあきらめて、仲間たち(あるいは国民)に担がれるべきなのである。であるから、彼のそういう本質、愛すべき点を今後は世間に知らせていくことが、案外大きな意味を持つのではないだろうか。
小沢が卦の中の表現のように「臆病者」だと言うと、怒る小沢ファンもいるかもしれないが、思慮深い人間で臆病でない者はいない。なぜなら、前途の困難や危険を予測できる思慮があればこそ臆病になるのであり、臆病でない人間はリーダーにしてはいけないくらいだ。もちろん、戦いの場では勇敢になるべきだが、ただの猪武者は将にはなれない。
元の記事は長いが、普通の人には意味不明なところが多いと思うので、読者の便宜のために、私が勝手に編集したものを引用させて貰う。
なお、「九」は陽、「六」は陰を表すので、たとえば「九四」は下から四番目の爻が陽であることを表し、「上六」は一番上の爻が陰であることを示す。陰と陽はそれ自体では吉も不吉もないが、置かれた位置(地位)や他との関係で吉不吉が生じる。(まあ、このあたりはうろ覚えで書いているが、易をまったく知らない人にはこの程度の理解で十分だろう。)
下の記事を読むのが面倒臭いという人のために結論部分だけ引いておく。
「しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬(さ)くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。」
夬は「除き去る」こと。
(以下引用)
易で未来の党の騒動を見る。 2
変卦は、沢天カイの 4・5です。
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-48.html
上記文抜粋
・・・・・・・・
43 沢天夬(たくてんかい)
夬は、決(さ)く、決壊、決断といった意。
決くとは、堤を切断して水を導くこと。
十二消長で言えば、五本にまで成長した陽がさらに進み長じて一陰を決し去ろうとするとき、また五人の君子が一人の小人を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾の至って剛強な者を以って、兌の至って弱き者を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾を健やかとし、兌を悦ぶとして、健やかにして悦ぶ様子。
人は、健やかにしてその道を悦ぶときは、決断して選んだその道をひたすら進むものである。
だから夬と名付けられた。
また、兌沢が乾天の上に上る様子である。
そもそも沢は低い場所に在るべきものだが、今、上って天の上に在る。
これでは物事は上手く行かず、必ず決壊し、潰え下る。
だから夬と名付けられた。
卦辞
夬、揚于王庭、孚号、有、告自邑、不利即戎、利有攸往、
夬は、王庭(おうてい)に揚(あ)げよ、孚(まこと)に号(さけ)ぶ、(あやう)きこと有り、告ぐること邑(ゆう)よりすとも、戎(じゅう)に即(つ)くに利(よ)ろしからず、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、
この卦は十二消長のひとつにして、五陽をもって一陰を決し去る様子である。
だから、五人の君子が一人の小人を決し去るときとする。
五陽の君子を以って、僅かに一陰の小人を決し去ることは、数で優っているわけだから簡単なことのように思えるが、実際は意外にも、そういうものではない。
なぜなら、この一陰の小人は、たったひとつの陰であり小人でありながら、最も高い上爻に位置しているのである。
これは、巧言令色をもって深く固く九五の君に密比して取り入って、よく君の心腹を得て、ことさらの寵愛を受けているのに他ならず、言うなれば社鼠城狐なる者にして、容易く除き去ることは難しい。
なおかつこの上六の陰は、上卦兌の主爻である。
兌は人体では口とする卦である。
したがってこの一陰の小人は、口が巧く、白を黒と言いくるめるなど容易くやってのける者であり、この一陰の小人を取り除こうとするのなら、まず、その小人の罪状、取り除かれるべき理由をつぶさに王庭に揚げて公開し、その罪の次第を遍く公明にしなければいけない。
だから、王庭に揚げよ、という。
このとき、決去しようとする君子は、孚の忠誠を以って号び合って同志として団結して、事に当たるべきである。
さもなければ、その一陰の小人にまんまとしてやられる可能性がある。
だから、孚に号ぶ、きこと有り、という。
さて、その一陰の小人は、君寵されているのをよいことに、威厳を弄び、君命と偽って自分の邑(領地)より告命を出すという暴挙に至っても、それを武力(戎)で制圧しようとしてはいけない。
そんなことをすれば、却って反逆者の汚名を着せられてしまう。
だから、告ぐるに邑よりすとも、戎に即くに利ろしからず、と戒める。
それだけこの小人は手強いのである。
だからこそ、公明正大にこの小人の罪状を明らかにし、正しい手続きで決去するのが利ろしいのである。
往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所ではなく、この公明正大な方法を指す。
・・・・・・中略・・・・・・・
九四、臀无膚、其行次且、牽羊悔亡、聞言不信、
九四(きゅうし)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たり、羊(ひつじ)を牽(ひ)けば悔(く)い亡(ほろ)ぶ、言(げん)を聞(き)いても信(しん)ぜられず、
臀は尻、膚は肌肉=皮のすぐ下の部分のことである。
今、五陽を以って一陰柔を決り去ろうとする時に当たって、九四は陽爻だが陰位に居るので、才徳は有るが志が弱い者である。
したがって、進み行くことを怖れて、止り退こうとも欲する。
しかし内卦の三陽爻が上り進んで、すぐ後ろに逼っているので、九四は怖気づいて退くことはおろか、止り居ることもできない。
例えれば、臀(尻)に膚肉がなく、座ると痛いので、立って歩くしかないような様子である。
とは言っても、進み行こうとしても、志が弱いので、敵を怖れることが甚だしく、足が前に出ない。
だから、臀に膚无し、其の行くこと次且たり、という。
次且とは、行きたくても進めない様子。
そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。
・・・・・・・・・中略・・・・・・
九五、*莫陸、夬夬、中行无咎、
九五(きゅうご)、陸(おか)に*莫(かん)あり、夬(さ)くべきを夬(さ)くれよ、中行(ちゅうこう)なれば咎(とが)无(な)し、 (夢人注:「*莫」の字の説明略)
*莫は山羊の細い角のうちの、形が大きいものである。
山羊は、外質(見た目)は柔弱で、内性(性格)は悪賢くひねくれているが、食べるとその味は美味い。
これは、上六が、兌の口の主にして佞弁甘語を以って人主の九五の気に入られ、その内性が陰邪にして甚だ悪賢いことに喩えているのである。
陸とは高い原にして、上爻の象である。
今、上六は、陰柔不中にして九五の君に密比し、兌口の主であるを以って、甘言美語を以って君に媚び諂う姦人である。
それでも、君よりも上位に居て君辺に近侍し、君意をよく得ている。
だから、陸に*莫あり、という。
さて、この卦中に、ただ、一陰爻のみ、九五に密比する。
もとより九五も、兌の和悦の卦の一体に在るので、一旦は上六と陰陽親比し、その甘言を信じ、絶大な寵恩を与えてしまう。
そのために国家の勢いが危険になるところだが、幸いに九五の君は、剛健中正の徳が有るを以って、やがてはかの上六の佞邪姦曲なことを悟って反省し、これを斥け、その佞人の語を聞き入れず、ついにはこれに害比して、決り去るのである。
しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
うまくこの「未来の党の人事」をこなさないと、嘉田さんも小沢さんも大きな傷がつく。
「党首」は嘉田さんだが、実質は「国民の生活が第一」のお客さんでもある。
その辺を双方特に嘉田さんの認識がないと、結局は「そして誰もいなくなった」
でしょうな。
再見!
最初の卦は「地天泰」で、本来なら「安泰」を意味する卦だが、その4爻と5爻を変じた変卦(今後の進展)が、まさしく未来の党の状況にぴったりなのである。二つの爻を変じるというやり方は、おそらく私がコインでやる安直な易とは違う本格的なものなのだろう。私が言ったりやったりするのは、だいたいそういうレベルであることを今のうちにお断りしておこう。だから私はいつも自分は中学生レベルだと言うのである。
下の記事において、今にも除かれようとしている、トップにいる小人が嘉田由紀子一派であることは明らかだろう。クーデターを起こす「五人の君子」の「五人」にはべつに拘ることはない。ただの象徴的なものだ。つまり、この場合は、クーデターを起こす側が君子、つまり道理の側であり、しかも組織のメンバーのほとんどがそちらに属しているのである。まさしく未来の党そのままである。
そして、面白いことに、
「そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。」
の「(九四の)執政大臣」は、まさに小沢一郎そのままではないか、と感じられる。
かの剛腕イメージとはうらはらに、小沢が実にジェントルマンであり、謙虚であり、むしろ自信不足なほどであり、周りとの協調を重んじる人間であることは、知る人ぞ知ることだ。見かけがあれだからふてぶてしく見えるが、内面はナイーブすぎるほどであり、何かあると世捨て人的に隠れる癖がある。だからこそ、多くの人に好かれもするのだが、本人の志向が常に作戦参謀や実務責任者の立場を好み、神輿になりたがらないのだから、実は「一兵卒」という気楽な立場に逃げられたら彼は本当は幸せなのだろう。
だが、時代と社会はそれを彼に許さない。彼は自分の志向をあきらめて、仲間たち(あるいは国民)に担がれるべきなのである。であるから、彼のそういう本質、愛すべき点を今後は世間に知らせていくことが、案外大きな意味を持つのではないだろうか。
小沢が卦の中の表現のように「臆病者」だと言うと、怒る小沢ファンもいるかもしれないが、思慮深い人間で臆病でない者はいない。なぜなら、前途の困難や危険を予測できる思慮があればこそ臆病になるのであり、臆病でない人間はリーダーにしてはいけないくらいだ。もちろん、戦いの場では勇敢になるべきだが、ただの猪武者は将にはなれない。
元の記事は長いが、普通の人には意味不明なところが多いと思うので、読者の便宜のために、私が勝手に編集したものを引用させて貰う。
なお、「九」は陽、「六」は陰を表すので、たとえば「九四」は下から四番目の爻が陽であることを表し、「上六」は一番上の爻が陰であることを示す。陰と陽はそれ自体では吉も不吉もないが、置かれた位置(地位)や他との関係で吉不吉が生じる。(まあ、このあたりはうろ覚えで書いているが、易をまったく知らない人にはこの程度の理解で十分だろう。)
下の記事を読むのが面倒臭いという人のために結論部分だけ引いておく。
「しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬(さ)くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。」
夬は「除き去る」こと。
(以下引用)
易で未来の党の騒動を見る。 2
変卦は、沢天カイの 4・5です。
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-48.html
上記文抜粋
・・・・・・・・
43 沢天夬(たくてんかい)
夬は、決(さ)く、決壊、決断といった意。
決くとは、堤を切断して水を導くこと。
十二消長で言えば、五本にまで成長した陽がさらに進み長じて一陰を決し去ろうとするとき、また五人の君子が一人の小人を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾の至って剛強な者を以って、兌の至って弱き者を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾を健やかとし、兌を悦ぶとして、健やかにして悦ぶ様子。
人は、健やかにしてその道を悦ぶときは、決断して選んだその道をひたすら進むものである。
だから夬と名付けられた。
また、兌沢が乾天の上に上る様子である。
そもそも沢は低い場所に在るべきものだが、今、上って天の上に在る。
これでは物事は上手く行かず、必ず決壊し、潰え下る。
だから夬と名付けられた。
卦辞
夬、揚于王庭、孚号、有、告自邑、不利即戎、利有攸往、
夬は、王庭(おうてい)に揚(あ)げよ、孚(まこと)に号(さけ)ぶ、(あやう)きこと有り、告ぐること邑(ゆう)よりすとも、戎(じゅう)に即(つ)くに利(よ)ろしからず、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、
この卦は十二消長のひとつにして、五陽をもって一陰を決し去る様子である。
だから、五人の君子が一人の小人を決し去るときとする。
五陽の君子を以って、僅かに一陰の小人を決し去ることは、数で優っているわけだから簡単なことのように思えるが、実際は意外にも、そういうものではない。
なぜなら、この一陰の小人は、たったひとつの陰であり小人でありながら、最も高い上爻に位置しているのである。
これは、巧言令色をもって深く固く九五の君に密比して取り入って、よく君の心腹を得て、ことさらの寵愛を受けているのに他ならず、言うなれば社鼠城狐なる者にして、容易く除き去ることは難しい。
なおかつこの上六の陰は、上卦兌の主爻である。
兌は人体では口とする卦である。
したがってこの一陰の小人は、口が巧く、白を黒と言いくるめるなど容易くやってのける者であり、この一陰の小人を取り除こうとするのなら、まず、その小人の罪状、取り除かれるべき理由をつぶさに王庭に揚げて公開し、その罪の次第を遍く公明にしなければいけない。
だから、王庭に揚げよ、という。
このとき、決去しようとする君子は、孚の忠誠を以って号び合って同志として団結して、事に当たるべきである。
さもなければ、その一陰の小人にまんまとしてやられる可能性がある。
だから、孚に号ぶ、きこと有り、という。
さて、その一陰の小人は、君寵されているのをよいことに、威厳を弄び、君命と偽って自分の邑(領地)より告命を出すという暴挙に至っても、それを武力(戎)で制圧しようとしてはいけない。
そんなことをすれば、却って反逆者の汚名を着せられてしまう。
だから、告ぐるに邑よりすとも、戎に即くに利ろしからず、と戒める。
それだけこの小人は手強いのである。
だからこそ、公明正大にこの小人の罪状を明らかにし、正しい手続きで決去するのが利ろしいのである。
往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所ではなく、この公明正大な方法を指す。
・・・・・・中略・・・・・・・
九四、臀无膚、其行次且、牽羊悔亡、聞言不信、
九四(きゅうし)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たり、羊(ひつじ)を牽(ひ)けば悔(く)い亡(ほろ)ぶ、言(げん)を聞(き)いても信(しん)ぜられず、
臀は尻、膚は肌肉=皮のすぐ下の部分のことである。
今、五陽を以って一陰柔を決り去ろうとする時に当たって、九四は陽爻だが陰位に居るので、才徳は有るが志が弱い者である。
したがって、進み行くことを怖れて、止り退こうとも欲する。
しかし内卦の三陽爻が上り進んで、すぐ後ろに逼っているので、九四は怖気づいて退くことはおろか、止り居ることもできない。
例えれば、臀(尻)に膚肉がなく、座ると痛いので、立って歩くしかないような様子である。
とは言っても、進み行こうとしても、志が弱いので、敵を怖れることが甚だしく、足が前に出ない。
だから、臀に膚无し、其の行くこと次且たり、という。
次且とは、行きたくても進めない様子。
そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。
・・・・・・・・・中略・・・・・・
九五、*莫陸、夬夬、中行无咎、
九五(きゅうご)、陸(おか)に*莫(かん)あり、夬(さ)くべきを夬(さ)くれよ、中行(ちゅうこう)なれば咎(とが)无(な)し、 (夢人注:「*莫」の字の説明略)
*莫は山羊の細い角のうちの、形が大きいものである。
山羊は、外質(見た目)は柔弱で、内性(性格)は悪賢くひねくれているが、食べるとその味は美味い。
これは、上六が、兌の口の主にして佞弁甘語を以って人主の九五の気に入られ、その内性が陰邪にして甚だ悪賢いことに喩えているのである。
陸とは高い原にして、上爻の象である。
今、上六は、陰柔不中にして九五の君に密比し、兌口の主であるを以って、甘言美語を以って君に媚び諂う姦人である。
それでも、君よりも上位に居て君辺に近侍し、君意をよく得ている。
だから、陸に*莫あり、という。
さて、この卦中に、ただ、一陰爻のみ、九五に密比する。
もとより九五も、兌の和悦の卦の一体に在るので、一旦は上六と陰陽親比し、その甘言を信じ、絶大な寵恩を与えてしまう。
そのために国家の勢いが危険になるところだが、幸いに九五の君は、剛健中正の徳が有るを以って、やがてはかの上六の佞邪姦曲なことを悟って反省し、これを斥け、その佞人の語を聞き入れず、ついにはこれに害比して、決り去るのである。
しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
うまくこの「未来の党の人事」をこなさないと、嘉田さんも小沢さんも大きな傷がつく。
「党首」は嘉田さんだが、実質は「国民の生活が第一」のお客さんでもある。
その辺を双方特に嘉田さんの認識がないと、結局は「そして誰もいなくなった」
でしょうな。
再見!
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