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福島へいらっしゃい

副島隆彦の「学問道場」から、副島の現地レポートである。かなり支離滅裂なところもあるが、それは彼の文章の個性だから仕方がない。飯山老人にはドンキホーテの基地外と言われてもいるが、まあ、彼が基地外じみているのは昔からである。しかし、「誠心誠意で行動している」ということと、自分の体で危険な現場に行って現地報告をしているという点は認めたい。ただし、原発周辺が安全であるという彼の判断には何の根拠もないと思う。それを信じて住人が自分の家に戻ったら、大変なことになるだろう。もっとも、老人は別である。今さら惜しい命でもないという年齢の人間なら自分の家に戻って暮らしたほうが、避難所生活よりはずっとましだろう。避難所ではそれこそ病気になり、早死にする可能性が高い。「すぐには健康に害はない」放射能汚染のほうがましである。
私自身、福島に移住して死の大地を蘇らす仕事に余生を使おうかと考慮中なのである。


(以下引用)


私と弟子たちは、第一原発を離れて、南に向かった。10キロ南に第二原発がある。ここは富岡町(とみおかまち)である。ここの正面ゲートにも、ずけずけと車で入って行って、制止する門番職員に、「すぐに立ち去りますから」と言いながら、線量を測定した。ここの原発は、すでに安全に冷温停止している。 だから、放射線も、10マイクロシーベルトぐらいしか出ない。全く安全である。 こっちの原発の中の施設に、もしかしたら、東電の幹部たちまでがやってきて、ここの秘密の指令本部を置いているのではないかと、私は感じた。

 それから、第二原発に行く前に、すぐ隣の、波打ち際にある JR常磐線(じょうばんせん)の富岡の駅に入った。この駅とその前の商店街、小さな旅館街は、文字通り、全滅していた。きっと多くの人が逃げ遅れて死んだだろう。駅は、富岡町の商店街とは、3キロぐらい離れている海のすぐ傍(そば)だから、きっと風光明媚な駅として名高ったたのだろう。

 私は、この駅のあたりの瓦礫の脇にいた、一匹の猫の餌をやって、もう一匹いたのだが、こっちは、近寄って来なかったので、餌だけおいて、そして、一匹の方だけを、連れてきた。今、私のPCの前で、邪魔をしながら、寝込んでいる。メス猫で、雉(きじ)と三毛(みけ)の雑種で、一歳ぐらいだろう。きっと飼い主は死んだだろう。私は、タマと名前を付けた。以後、この「富岡タマ」は、私が死ぬまで一緒に暮らすだろう。 

 第一原発から、18キロぐらい南に、Jヴィレッジがある。このプロ・サッカー選手たちの大きな合宿施設の中に、私たちは、堂々と車で入り込んでいったが、誰も制止しない。

 50台ぐらいの、防衛省(自衛隊)と書いた、大型の朱塗りの電源車とポンプ車がずらりと並んでいた。28日の陽気の中で、自衛隊員たちが、くつろいだ感じで、防護服のまま、練習場の一部で、放射線量の測定をやっていた。あとで、聞いたら、この宿泊施設の部屋には、自衛隊員たちを泊めないで、通路とかに、雑魚寝をさせえているという。どうせ、東電のカネで、出来た大きな施設だろうが、こういう緊急事態の、国民の英雄たちに、対しても、スポーツ業界と言う威張り腐った、人間たちは、芸能人化して、自衛隊を、見下すことをする。Jヴィレッジの経営者どもは、自衛隊員に、きれいな部屋を汚されるのがいやだから、と、はっきり思っただろう。覚えておけよ。Jヴィレッジ、許さん。

 そこから、5キロ下ると、久ノ浜で、ここに警察の検問が有って、30キロ地点だ。前回の19日の、決死の突入の時は、ここで阻止されて、原発の南側からは、それ以上は近づけなかった。28日には、逆方向から、私たちが、出てきたのだから、「出るのは自由」だから、警察官たちがいまいましそうな顔をして、車両の中から、私たちは見られていた。おそらく私たちの動きは原発の周辺の警察に見張られている。そんなことは構わない。

 久ノ浜から、5キロも下(くだ)ると、目的地の四ッ倉海岸に着いた。この四ッ倉の海岸沿いの家を、私たちの活動拠点として提供してくださる人がいて、それで、この家を探し出した。しかし、6号線の海側で、無残に、津波に襲われていて、とても人が住めるような家ではなかった。ずっと向こうの、さらに海沿いの破壊された家の家財道具と瓦礫(がれき)が、あたり一面に流れ込んでいて、全壊(ぜんかい)地区にすぐに指定されるだろう。だから、私たちの四ッ倉支部の建設と、残留、常駐の計画は、打ち砕かれた。

この四ッ倉は、大きな、広域合併した、いわき市の北のはずれで、海に面している。いわき市は、大きな市だから、さすがに、ようやく道路の瓦礫の撤去作業が始まっていた。ブルドーザーとクレーン車が動き出していた。

 私は、学問道場の 活動拠点は、やはり、原発から、5キロ以内の、双葉町(ふたばまち)か、大熊町(おおくまち)か、富岡町(とみおかまち)でなければ、用をたせないと、考えるようになった。 35キロも離れた処から現場の報告は出来ない。

 だから、私のこの文を読んでくださる人で、双葉町か大熊町から、避難してきた人で、ご自分の家を使っていい、と言ってくださる人がいたら、お願いします。私たち学問道場に使わせてください。

 例の、双葉厚生病院前にも言った。双葉町の役場の前には、翌日の、29日にも言ったので、前回の19日、20日と合わせると、私は、もうなじみの町だ。誰もいない、ゴーストタウンのままだ。「原子力 明るい未来の エネルギー」という大きな鉄製の横断幕がメインストリートにある。「正しい理解で 豊かなくらし」 という 道路を横断している大きな看板もある。

 駅のそばだ。きっと、浪江町(なみえまち)と双葉町と、大熊町と、富岡町と、楢葉町(ならはまち)と、広野町(ひろのまち)は、原発から、10キロ、20キロ圏だから、全員が退避してしている。他県に散り散りバラバラになって、あるいは、親戚の家に避難しているのだろう。原発御殿(げんぱつごてん)と呼べそうな立派な家もある。東邦銀行というのが、この原発の町々では、やたらと威張っていて、東電とグルで、原発推進をして来たのだろう。

 だから、原発推進で、どっぷりつかったこれらの、町の人々には、いくら避難者だと言っても、内心は、相当に複雑なはずである。私は、これらの町に住みたい。 120から、多くても250マイクロシーベルトマ毎時ぐらいの このあたりの放射能の値には、私は動じない。これぐらいは、毎日、ずっと喰らっても、もう、何ともない。 こう書くと、私は、東電の手先、回し者ように言われるだろう。しかし、そんなことは、構わない。言いたい人が、遠くから言っていればいい。
 
 放射能さえ、やたらと怖がらなければ、実にのどかで、いい所だ。誰―れもいない、というのもいい。何をそんなに恐(こわ)がることがあるだろうか。40歳も越して、もう、余生は、ここでいい、という人は、どんどん、この双葉町、大熊町に棲(す)み付けばいいのだ。 誰か、家を私に貸してくれませんか。原発までは、あとひとつ林をこした向うだ。

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酔生夢人
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仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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