「長周新聞」所載の「広島『原爆と戦争展』」記事の一部である。
太平洋戦争に関する記事の中でも私がいつも怒りを禁じえないのが、戦争末期の日本兵たちの置かれた悲惨な状況を描いたものである。彼らは米国や連合軍に殺されたのではない。日本政府によって殺されたのである。
この戦争への真の総括、つまり、戦争犯罪者を国民の手で裁くことが行われなかったことが、今の政治の腐敗の根底にある。戦争犯罪者を裁くどころか、岸信介や辻正信など「自国民を大量に殺した人間」が総理大臣や国会議員になっている。日本人の政治意識はその程度のものだ。岸の孫が今の総理大臣であるという状況は、さまざまな戦争慰霊式典を空しく思わせる。
戦争犯罪とは他国民への犯罪ではない。(兵士が他国民を殺すのは命令による不可避のものである以上、兵士は犯罪者ではない。)何よりもそれは自国民への犯罪である。
(以下引用)赤字部分は夢人による強調。
会場には、開幕と同時に保育士に引率された保育園児たちが集団で来場したのをはじめ、
戦争体験者、親子連れ、主婦、会社員、教師、学生、高校生、小学生など
幅広い市民が来場。青森、東京、埼玉、愛知、福井、長野など県外からの旅行者や
外国人も訪れている。受付や屋外でのチラシ配りなどの宣伝活動は
広島市内の大学生や被爆2世、下関原爆展事務局スタッフが担い、
会場内では数人の被爆者が常駐して体験を語り、参観者との交流を深めている。
戦争情勢に対して各世代の大きな意識の転換を反映し、熱のこもった交流となっている。
昨年に続いて訪れた元海軍陸戦隊の男性(93歳)は、
戦争末期に南西太平洋のソロモン諸島を転戦して生還したことを語り、
「陸海軍あわせて1万5000人から2万人がいたがほとんど壊滅した。
戦争は勝っても負けてもろくなものではない。
加害者にもなり、被害者ともなる悲惨なものだった」と話し、
これまで書きためてきた戦争体験記や写真などの資料を提供した。
県北で農家の3男坊として生まれたが、「兵隊に入れば食べていける」と
活路を求めて海軍に志願し、呉海兵団に入隊。
そして昭和17年、米軍に奪われた飛行場奪還を至上命令として日本軍が総力を投入し、
「日米戦の天王山」といわれたガダルカナル島に送られた。
だが、20隻の船団を組んで横須賀港を出港し、ラバウルからショートランド島に行くため
弾薬を積んだ輸送船に乗り込んだが、
「驚いたことにその船には、対空火器の備えが全くなく、全くの丸腰。
しかも兵員は五人だけで、あとは全て戦闘経験の全くない徴用船員ばかりだった」。
なんの反撃もできぬまま米軍のB17爆撃機の攻撃を受けて船は傾いて炎上し、
甲板は飛散した肉片と血糊で足の踏み場もないほどだったといった。
「すでに制空権も制海権もなく、完全に孤立無援の状態でとり残され、
武器弾薬、医薬品どころか食料の補給もなかった。
そこにマラリア、熱帯性潰瘍などの病気と飢餓に襲われ、
兵隊はジャングルを伐採して必要最小限の耕地を作るために開墾作業に明け暮れた。
その途上で多くの兵士が力尽きてバタバタと死んでいった。敵は病気と飢えだった。
マラリアに冒されながら食料を求めて湿地帯の蟹をとりにいったが、
そこでも米軍機に機銃掃射を受けて多くが殺された。
350人の隊員もジャングルの中で分散し、生き残ったのは20人くらいだった。
あのとき一握りの米が、一服の薬があればどれだけの人が助かったか
と思うとやりきれない」と話した。
戦後は、戦友会で呉海軍墓地に慰霊碑を建立し、亡き戦友の遺骨を納骨して
毎年慰霊法要を続けてきたという。
「いまは生き残った戦友たちとの連絡も途絶えたが、私たちに代わって
このように戦地の真実を立派に展示してくれることに心から感謝したい。
平和を守るのは簡単ではなく、命をかけて心血を注がなくては守れない。
集団的自衛権の問題も解釈で済まされる問題ではない。
イスラエルのガザ侵攻の惨状を見ていると、これから日本がどのように進んでいくのか
自分たちの問題として真剣に考えなければいけないときだ」とのべ、
再来することを約束した。
賛同者として、職場の同僚たちを誘った男性被爆者は、夫人とともに会場で
同僚たちや学生に初めて当時の体験を語った。
当時は修道中学2年生で陸軍兵器廠に動員され、宮島の鼓が浦で
弾薬輸送の業務に従事していたとき原爆が投下された。
蒲刈島のミカン農家だった父親が41歳で軍に召集され、
爆心直下の西部第2部隊(基町)に配属されていたため、
父の行方を探して各地の救護所を転転としたという。
「市内では人が連なるように焼け焦げていたり、悲惨そのものだった。
大野町の学校の講堂で自分の名前を呼ぶ人がいたのでよく見ると父だった。
額は割れて顔は膨れ、髪も抜けて、だれかもわからないほど変貌していた。
田舎だったので新鮮な魚や野菜を送ってもらって奇跡的に回復したが、
最後は肝臓が石のようになって亡くなった」と話した。
また、当時通っていた修道中学は、校長は陸軍中将で教師もほとんどが陸軍将校で、
授業の3分の2が軍事教練だったこと、
呉一中がもっとも海軍士官学校合格者が全国で多かったのに対して、
修道中学は陸軍兵学校への入学者が全国最大で、
その多くが戦地で亡くなったことを明かし、
「修道中は陸軍士官の養成校だった。戦争は教育からはじまり、
学校は人殺しをなんとも思わない人間を育てる。核兵器や戦争という
大きな流れを食い止めるには、そのような残虐行為を憎む
強い人間を育てなければいけないし、皆が力を合わせて政治を縛らなければいけない」
と熱を込めて語った。
「これまでは平和のための犠牲だったと自分を納得させてきたが、
最近の動きを見ると日本はアメリカと一緒に再び戦争をやろうとしている。
まったく認識が違ったと思い直した。
会社勤めのしがらみの中で胸の内に秘めて語ってこなかったが、
これからは体験を語り継がなければいけない」と思いを語った。
太平洋戦争に関する記事の中でも私がいつも怒りを禁じえないのが、戦争末期の日本兵たちの置かれた悲惨な状況を描いたものである。彼らは米国や連合軍に殺されたのではない。日本政府によって殺されたのである。
この戦争への真の総括、つまり、戦争犯罪者を国民の手で裁くことが行われなかったことが、今の政治の腐敗の根底にある。戦争犯罪者を裁くどころか、岸信介や辻正信など「自国民を大量に殺した人間」が総理大臣や国会議員になっている。日本人の政治意識はその程度のものだ。岸の孫が今の総理大臣であるという状況は、さまざまな戦争慰霊式典を空しく思わせる。
戦争犯罪とは他国民への犯罪ではない。(兵士が他国民を殺すのは命令による不可避のものである以上、兵士は犯罪者ではない。)何よりもそれは自国民への犯罪である。
(以下引用)赤字部分は夢人による強調。
会場には、開幕と同時に保育士に引率された保育園児たちが集団で来場したのをはじめ、
戦争体験者、親子連れ、主婦、会社員、教師、学生、高校生、小学生など
幅広い市民が来場。青森、東京、埼玉、愛知、福井、長野など県外からの旅行者や
外国人も訪れている。受付や屋外でのチラシ配りなどの宣伝活動は
広島市内の大学生や被爆2世、下関原爆展事務局スタッフが担い、
会場内では数人の被爆者が常駐して体験を語り、参観者との交流を深めている。
戦争情勢に対して各世代の大きな意識の転換を反映し、熱のこもった交流となっている。
昨年に続いて訪れた元海軍陸戦隊の男性(93歳)は、
戦争末期に南西太平洋のソロモン諸島を転戦して生還したことを語り、
「陸海軍あわせて1万5000人から2万人がいたがほとんど壊滅した。
戦争は勝っても負けてもろくなものではない。
加害者にもなり、被害者ともなる悲惨なものだった」と話し、
これまで書きためてきた戦争体験記や写真などの資料を提供した。
県北で農家の3男坊として生まれたが、「兵隊に入れば食べていける」と
活路を求めて海軍に志願し、呉海兵団に入隊。
そして昭和17年、米軍に奪われた飛行場奪還を至上命令として日本軍が総力を投入し、
「日米戦の天王山」といわれたガダルカナル島に送られた。
だが、20隻の船団を組んで横須賀港を出港し、ラバウルからショートランド島に行くため
弾薬を積んだ輸送船に乗り込んだが、
「驚いたことにその船には、対空火器の備えが全くなく、全くの丸腰。
しかも兵員は五人だけで、あとは全て戦闘経験の全くない徴用船員ばかりだった」。
なんの反撃もできぬまま米軍のB17爆撃機の攻撃を受けて船は傾いて炎上し、
甲板は飛散した肉片と血糊で足の踏み場もないほどだったといった。
「すでに制空権も制海権もなく、完全に孤立無援の状態でとり残され、
武器弾薬、医薬品どころか食料の補給もなかった。
そこにマラリア、熱帯性潰瘍などの病気と飢餓に襲われ、
兵隊はジャングルを伐採して必要最小限の耕地を作るために開墾作業に明け暮れた。
その途上で多くの兵士が力尽きてバタバタと死んでいった。敵は病気と飢えだった。
マラリアに冒されながら食料を求めて湿地帯の蟹をとりにいったが、
そこでも米軍機に機銃掃射を受けて多くが殺された。
350人の隊員もジャングルの中で分散し、生き残ったのは20人くらいだった。
あのとき一握りの米が、一服の薬があればどれだけの人が助かったか
と思うとやりきれない」と話した。
戦後は、戦友会で呉海軍墓地に慰霊碑を建立し、亡き戦友の遺骨を納骨して
毎年慰霊法要を続けてきたという。
「いまは生き残った戦友たちとの連絡も途絶えたが、私たちに代わって
このように戦地の真実を立派に展示してくれることに心から感謝したい。
平和を守るのは簡単ではなく、命をかけて心血を注がなくては守れない。
集団的自衛権の問題も解釈で済まされる問題ではない。
イスラエルのガザ侵攻の惨状を見ていると、これから日本がどのように進んでいくのか
自分たちの問題として真剣に考えなければいけないときだ」とのべ、
再来することを約束した。
賛同者として、職場の同僚たちを誘った男性被爆者は、夫人とともに会場で
同僚たちや学生に初めて当時の体験を語った。
当時は修道中学2年生で陸軍兵器廠に動員され、宮島の鼓が浦で
弾薬輸送の業務に従事していたとき原爆が投下された。
蒲刈島のミカン農家だった父親が41歳で軍に召集され、
爆心直下の西部第2部隊(基町)に配属されていたため、
父の行方を探して各地の救護所を転転としたという。
「市内では人が連なるように焼け焦げていたり、悲惨そのものだった。
大野町の学校の講堂で自分の名前を呼ぶ人がいたのでよく見ると父だった。
額は割れて顔は膨れ、髪も抜けて、だれかもわからないほど変貌していた。
田舎だったので新鮮な魚や野菜を送ってもらって奇跡的に回復したが、
最後は肝臓が石のようになって亡くなった」と話した。
また、当時通っていた修道中学は、校長は陸軍中将で教師もほとんどが陸軍将校で、
授業の3分の2が軍事教練だったこと、
呉一中がもっとも海軍士官学校合格者が全国で多かったのに対して、
修道中学は陸軍兵学校への入学者が全国最大で、
その多くが戦地で亡くなったことを明かし、
「修道中は陸軍士官の養成校だった。戦争は教育からはじまり、
学校は人殺しをなんとも思わない人間を育てる。核兵器や戦争という
大きな流れを食い止めるには、そのような残虐行為を憎む
強い人間を育てなければいけないし、皆が力を合わせて政治を縛らなければいけない」
と熱を込めて語った。
「これまでは平和のための犠牲だったと自分を納得させてきたが、
最近の動きを見ると日本はアメリカと一緒に再び戦争をやろうとしている。
まったく認識が違ったと思い直した。
会社勤めのしがらみの中で胸の内に秘めて語ってこなかったが、
これからは体験を語り継がなければいけない」と思いを語った。
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