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「国民」≠「市民」

私は最近は「民主主義」に懐疑的だが、まさか「王政復古」を望むわけではないww
私の「尊皇主義」はあくまで「天皇機関説」であり、天皇は日本という国の独自性の重要な鍵だという思想である。つまり、「国家愛」の一部だ。(「愛国」というとかえってダーティな、血と腐敗の匂いのイメージになるので「国家愛」と言っておく。)
で、政治的には、民主主義の前提は「市民」という存在だろう、と思っている。しかし、国民なら誰でも「市民」というわけではない。市民とはあくまで政治の主体となりうる存在、政治の深層を理解している存在(中江兆民はシトワイヤンを「君子」と訳したらしい。)なのであり、全員が全員市民になれるとは私は思わない。だが、国民の6割が「市民」になった時、民主主義も機能するだろう。

まあ、とりあえず、親戚友人の間でも気軽にわだかまりなく政治談議ができる風土を作るのが最初の段階だ。小学生でも中学生でも政治談議をすればいい。大人がそれにあまり口出ししないことだ。ただ「簡単に結論を出すな」と言えばいい。「よく調べ、よく考えなさい」と言えばいい。「他人の言葉をあまり信じるな(鵜呑みにするな)」という忠告も大事だろう。懐疑主義こそ思想の安全弁なのである。

(以下引用)
フランス革命以後の政治的主体としての市民、citoyenシトワイヤン
シトワイヤンは階級性を排除した、抽象的な市民概念である。

アンシャン・レジーム(旧体制)では、「第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分は市民や農民」とされ、人口の大多数を占める市民や農民が ないがしろにされ、苦しめられていた。 フランス革命の革命歌であり、市民や農民が、王を打倒するために集い、はるばる南フランスから首都パリへと行進する時にも歌われ、現在のフランス(フランス共和国)の国歌でもある『ラ・マルセイエーズ』のリフレインは次のようなものである。


「武器を取れ 市民ら
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで! 」

現代フランス人も、子供のころから繰り返しこの歌を誇らしげに歌って成長する。こうして現代フランス人が「シトワイヤン (市民)」という言葉を聞いた時に、真っ先に思い出す概念はこうした文脈の「市民(=力を合わせ、横暴・残虐な王・王族を倒し、主体性や主権を取り戻し、幸福な共和国を作り、万人の人権を尊重する政治を行い、世界中の人々に手本となるような社会を示す存在)」である。 [注 6]

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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