前に、たぶんこのブログで「淫詞邪教」と書いて、「淫詞」は卑猥な表現のことだと頭から思い込んでいたのだが、「ネットゲリラ」の積雲氏のコメントの中に「詞」ではなく「祠」である「淫祠邪教」という成句が書かれていて、あっ、どじった、と分かった。しかし「淫祠」とは何か、この言葉を知った頃には何のイメージもなかったので頭の中で「淫詞邪教」と変換していたのだろう。
何かをきちんと覚えるのは難しいものだ。ちなみに「祠」は「ほこら」で神をまつった場所。
今考えれば、インド系宗教の中には性的要素の強い表現を好む一派があり、男女交合図などが寺院に堂々と飾られていたりするらしい。日本の祭りでも男根をでかい張り子にして担ぎまわるものもあり、世界の神話にもエロ話は多い。まあ、生殖と性交は庶民の生活の根幹でもあるから、それが宗教や土着信仰の一部であっても不思議ではないが、儒教はそれを嫌ったから「淫祠邪教」という言葉も生まれたのだろう。つまり、エロは隠れてやれ、それが文明であり「礼」である、ということだろう。もちろん「淫」の字の意味を広く取って、エロ以外のものも含むのかもしれない。負け惜しみだが「教」に対比されるのは言葉である「詞」のほうが建物である「祠」よりはふさわしい気もする。
下の積雲氏のコメントは、内容自体もなかなかいい。国家はどこまで宗教を許容できるか、その宗教がどこからカルトと判定されるか、というのは大きな問題である。下手をしたら、宗教は法律の上位にある、とされて近代社会の根幹である「法治主義」の否定になるからだ。ユダヤ教もイスラム教も本来は「政治より上位」とされていたはずである。つまり、近代化とは宗教支配の終わりでもあったわけだ。(言うまでもないが、私は宗教というか、「宗教の精神」を愛している。キリストもブッダも大好きである。しかし、キリスト「教」や仏「教」は教祖の精神を正しく伝えているかどうかは心の底から疑っている。ちなみに儒教は宗教ではない。経国の哲学だ。孔子自身が「怪力乱神を語らず」と言っている。その「徳治主義」が有効だとはあまり思わないが、理想としては素晴らしいと思っている。現実には「法治主義」しか社会秩序を確立する手段は無いだろう。しかし、為政者が「徳」のある人間でないと、社会全体が腐敗するのである。安倍時代の日本がまさにそれだった。或る国際会議で、広島への原爆投下の動画を見て原爆投下国米国のオバマを含む西側諸国の首脳たちが大笑いして拍手していた時に、プーチンひとりが顔をうつむけて、そっと十字を切った、あれが為政者の「徳」の有無を示すものだ。)
(以下引用)
積雲 | 2022年7月14日 21:44 | 返信
Sujātā といふ娘がゐたのである。釋迦に乳粥を與へ命を救つたといふアレだ。乞食坊主の集團は自前で生産手段を保有することもなければ生産勞働に從事することもない。喜捨と呼ぶなり托鉢と呼ぶなり地域や信者の寄付行爲に頼らねば餓死して仕舞ふのである。僧侶 = 出家者の命も、僧侶の集團である教團の存續もまゝならないのである。教團 = 教會自體が社會的な再分配の機能なり目的なり有してゐる場合もある。出家者の爲、教團の爲、貧民の爲に教會が寄附を募ることはあつたゞらう。食料の現物であるのか、財貨であるのか、また財貨であるにしても財産の一部であるのか全てであるのか。身もこゝろも全て教團にさゝぐといふならば、財産全ても、と飛躍するのは容易なことではある。
生産に從事しない宗教者の存在は文明社會の證しであり、存在數の人口比はあるいは文明化の尺度であるのかも知れないが、社會に寄生して生きる以上、寄生蟲であることに變はりはなく、數が増えすぎ、また搾取が過ぎれば社會が疲弊して仕舞ふ。さうした意味では社會と僧侶・教團の關係性は役人・國家の夫れと相似である。後宮の存在は兎も角も、去勢して宦官にするのはある意味合理的だつたのである。増殖を抑へる效果がある譯だ。志願者に對するハードルであり、生殖による數の増加を抑制する效果があるのである。
死者を弔ふ行爲こそ、人類と畜生とを分かつものと考へれば葬儀も葬儀の爲の宗教も、其の爲の教團も必要かも知れないが、弔ひには花を手向けるダケで十分との考へもある。僧侶や教團の爲に財産の多くを喜捨すべし、といふのは矢張り淫祠邪教の類ひである。五公五民を超える税を平氣で徴收する國家同樣に廢絶すべしと思ふのである。まあ趣旨は出家者の今日の命を繋ぐ食料と財貨とは違ふのであり、財貨も一部と全ては違ふのであり、社會に寄生し財貨を奪ふ點で宗教も國家も變はらないのであり、五公五民を超える搾取は社會の惡と看做して殲滅の對象に統べし、といふあたりである。宗教ならば五割ではなく一割だらう。ユダヤあたりもさうだつたらうと。
何かをきちんと覚えるのは難しいものだ。ちなみに「祠」は「ほこら」で神をまつった場所。
今考えれば、インド系宗教の中には性的要素の強い表現を好む一派があり、男女交合図などが寺院に堂々と飾られていたりするらしい。日本の祭りでも男根をでかい張り子にして担ぎまわるものもあり、世界の神話にもエロ話は多い。まあ、生殖と性交は庶民の生活の根幹でもあるから、それが宗教や土着信仰の一部であっても不思議ではないが、儒教はそれを嫌ったから「淫祠邪教」という言葉も生まれたのだろう。つまり、エロは隠れてやれ、それが文明であり「礼」である、ということだろう。もちろん「淫」の字の意味を広く取って、エロ以外のものも含むのかもしれない。負け惜しみだが「教」に対比されるのは言葉である「詞」のほうが建物である「祠」よりはふさわしい気もする。
下の積雲氏のコメントは、内容自体もなかなかいい。国家はどこまで宗教を許容できるか、その宗教がどこからカルトと判定されるか、というのは大きな問題である。下手をしたら、宗教は法律の上位にある、とされて近代社会の根幹である「法治主義」の否定になるからだ。ユダヤ教もイスラム教も本来は「政治より上位」とされていたはずである。つまり、近代化とは宗教支配の終わりでもあったわけだ。(言うまでもないが、私は宗教というか、「宗教の精神」を愛している。キリストもブッダも大好きである。しかし、キリスト「教」や仏「教」は教祖の精神を正しく伝えているかどうかは心の底から疑っている。ちなみに儒教は宗教ではない。経国の哲学だ。孔子自身が「怪力乱神を語らず」と言っている。その「徳治主義」が有効だとはあまり思わないが、理想としては素晴らしいと思っている。現実には「法治主義」しか社会秩序を確立する手段は無いだろう。しかし、為政者が「徳」のある人間でないと、社会全体が腐敗するのである。安倍時代の日本がまさにそれだった。或る国際会議で、広島への原爆投下の動画を見て原爆投下国米国のオバマを含む西側諸国の首脳たちが大笑いして拍手していた時に、プーチンひとりが顔をうつむけて、そっと十字を切った、あれが為政者の「徳」の有無を示すものだ。)
(以下引用)
積雲 | 2022年7月14日 21:44 | 返信
Sujātā といふ娘がゐたのである。釋迦に乳粥を與へ命を救つたといふアレだ。乞食坊主の集團は自前で生産手段を保有することもなければ生産勞働に從事することもない。喜捨と呼ぶなり托鉢と呼ぶなり地域や信者の寄付行爲に頼らねば餓死して仕舞ふのである。僧侶 = 出家者の命も、僧侶の集團である教團の存續もまゝならないのである。教團 = 教會自體が社會的な再分配の機能なり目的なり有してゐる場合もある。出家者の爲、教團の爲、貧民の爲に教會が寄附を募ることはあつたゞらう。食料の現物であるのか、財貨であるのか、また財貨であるにしても財産の一部であるのか全てであるのか。身もこゝろも全て教團にさゝぐといふならば、財産全ても、と飛躍するのは容易なことではある。
生産に從事しない宗教者の存在は文明社會の證しであり、存在數の人口比はあるいは文明化の尺度であるのかも知れないが、社會に寄生して生きる以上、寄生蟲であることに變はりはなく、數が増えすぎ、また搾取が過ぎれば社會が疲弊して仕舞ふ。さうした意味では社會と僧侶・教團の關係性は役人・國家の夫れと相似である。後宮の存在は兎も角も、去勢して宦官にするのはある意味合理的だつたのである。増殖を抑へる效果がある譯だ。志願者に對するハードルであり、生殖による數の増加を抑制する效果があるのである。
死者を弔ふ行爲こそ、人類と畜生とを分かつものと考へれば葬儀も葬儀の爲の宗教も、其の爲の教團も必要かも知れないが、弔ひには花を手向けるダケで十分との考へもある。僧侶や教團の爲に財産の多くを喜捨すべし、といふのは矢張り淫祠邪教の類ひである。五公五民を超える税を平氣で徴收する國家同樣に廢絶すべしと思ふのである。まあ趣旨は出家者の今日の命を繋ぐ食料と財貨とは違ふのであり、財貨も一部と全ては違ふのであり、社會に寄生し財貨を奪ふ點で宗教も國家も變はらないのであり、五公五民を超える搾取は社會の惡と看做して殲滅の對象に統べし、といふあたりである。宗教ならば五割ではなく一割だらう。ユダヤあたりもさうだつたらうと。
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