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安倍政府という「反日的存在」

「イランラジオ」から転載。
自民党の政権奪取以降の日本政府の軍国主義・好戦主義への転化は近隣にも影響を与えているようだ。
下の記事タイトルでは「反日デモ」と書いているが、これは不正確な言い方で、「反安倍デモ」と言うべきだろう。韓国や中国での日本政府に抗議するデモを何でも「反日」デモだと言う傾向が内外問わずあるが、それだと、総理官邸前で日本国民が行っている戦争反対デモも「反日デモ」だということになる。
「政府=日本」ではないのである。むしろ、今の政府そのものが国民の生命を脅かし、国民の利益に反する「反日的存在」であることは明らかだろう。


(以下引用)


2014/07/01(火曜) 18:37

駐韓日本大使館前で、反日デモ実施


韓国・ソウルにある日本大使館前で、数百人の人々が、日本の安倍内閣による集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更に抗議するデモを行いました。



IRIBが1日火曜、報じたところによりますと、このデモの参加者は、日本の自衛隊の役割を強化するという安倍政権の新しい法案に抗議したということです。
これらの人々はまた、「安倍首相は、軍国主義と好戦主義を追求している」としました。
1945年に、日本が第2次世界大戦で敗戦して以来、日本の自衛隊は戦争や紛争には全く参加していません。
しかし、安倍首相は日本国憲法の中の、自衛隊の戦闘行為への参加を禁止する条項を見直し、これに関する憲法の解釈を変更しようとしています。
最近の世論調査でも、日本国民の過半数が、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更に反対していることが分かっています。





(追記)「日々坦々」資料ブログに、いい記事があったので、これも転載しておく。




澤藤統一郎の憲法日記

t改憲への危機感から毎日書き続けています

立憲主義と平和主義がないがしろにされた日に

集団的自衛権行使を容認する閣議決定が成立した。このことで、安倍晋三は歴史に大きな汚点を刻した。憲法をないがしろにした自・公両党の責任はあまりに重い。


大きな問題点は二つある。一つは、手続における決定的な瑕疵である。安倍内閣は、安定していた憲法解釈を閣議決定によって強引に変更した。憲法によって縛られる立ち場にある内閣が、憲法の縛りを甘受しがたいとして、解釈の名目で憲法の禁止命令を敢えて無視したのである。驕慢な権力者による法の支配への野蛮な挑戦というほかはない。


これまでの「自衛のための最小限度の実力は、憲法9条2項が禁ずる戦力に当たらない」という政府解釈も果たして可能なものか大いに異論のあるところ。可能な解釈としても、拡大解釈として許容される限界ギリギリのものであった。それは、国外における武力行使を絶対に容認しないことの強調において成り立っている解釈である。集団的自衛権行使容認は、解釈許容の限界を明らかに超えるものと指摘せざるを得ない。


これまで自衛隊は、専守防衛に徹するものであればこそ憲法適合性を獲得してきた。集団的自衛権行使を容認するとなれば、自衛隊そのものの基本性格が質的に転換することになる。外国で戦争のできる自衛隊を日本国憲法の平和主義が容認するとは到底考えがたい。


本来、憲法の存在意義は、立法・行政・司法の三権に越えてはならない一線を示し、この矩を越えることのないよう、厳重な縛りをかけることにある。この縛りを不当と考える者があれば、96条の改憲手続きを踏むしかない。各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会がこれを発議し、国民に提案して国民投票における過半数の賛成を得なければならない。国民の信任を得る自信がないからといって、この手続を省略することは許されない。解釈改憲という手法は、立憲主義否定の暴挙である。


もう一つの大きな問題は、ねじ曲げた憲法解釈の内容にある。憲法の平和主義に真っ向から挑戦する危険な安全保障政策の大転換といわざるを得ない。


集団的自衛権とは、本来の意味の「自衛」の権利ではない。どんなに限定を付したところで、自国が攻撃された場合でなくても武力行使を正当化する権利である。集団的自衛権行使容認とは、「日本を攻撃していない他国への武力行使を容認する」ということにほかならない。これは、他国の紛争に加担する権利である。「戦争を仕掛ける権利」であり、「先制攻撃をする権利」である。戦争を自衛戦争と侵略戦争に2分するとすれば、自衛戦争ではなく、侵略の戦争をする権利である。


「限定的な武力の行使だから」、「歯止めが利いているから」などということは、武力攻撃を受けた国の側に通じる議論ではない。武力攻撃を受けた側の立場に立てば、自国に外国(日本)の武力攻撃が現在する事態となったのである。当然に、自衛権を行使して日本と交戦することになる。日本が全面的に攻撃されるリスクを引き受けざるを得ない。本当にそれでよいのか。


安倍首相の記者会見は、驚くべき無内容のものだった。まったく説得力がない。彼は集団的自衛権行使容認に踏み切るリスクについて率直に語るべきであったのに、一切触れなかった。歴代の内閣が、集団的自衛権行使容認の危険な側面を意識しておればこそこれを認めなかったことの説明を省いた。原発事故を過小に評価する説明、再稼動を安全という説明とよく似ている。恐るべき傲岸、あるいは無神経といわざるを得ない。


安倍は、徹頭徹尾「抑止力論」を語った。「集団的自衛権行使容認とは、万全の備えをすることであり、それ自体が抑止力となる。だから、今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」とのみいう。寒気がする。こんなあさはかな男が日本と国民を引き回しているのだ。


安倍流抑止論では、「武力の備えをすればするほど抑止力がはたらき、戦争に巻き込まれるおそれはなくなる」ということになる。先の大戦で反省したのは、このような考え方ではなかったか。「備えあれば憂いなし」とは自然災害についてあてはまること。軍備に関しては、「備えることが憂いを呼び込む」ことにもなるのだ。備えが十分であるか否かは、相手国との関係で相対的に決まること。「相手国より優越した備えがなければ憂いなしとはならない」のが必定だが、お互いが「相手国よりも優越した備え」を望めば、際限のない負のスパイラルに陥ることになる。抑止論の行きつくところである。


これまでの専守防衛の路線を敢えて集団的自衛権行使容認に転換することは、当然のことながら、近隣諸国への敵対的メッセージを発することである。近隣諸国は、これに刺激されて、自らの国の抑止力を高める算段をしなければならないと思うだろう。負のスパイラルの始まりとなりかねない。集団的自衛権行使容認は、国の平和と国民の平和に生きる権利を侵害するものとなろう。日本国憲法の平和主義への逆行である。


本日の閣議決定を具体化するために、防衛関係諸法の改正案が国会上程となってくる。新規の立法提案もあるだろう。一つ一つの法案審議の中で、立憲主義と平和主義を擁護する国民世論を形成していこう。そして、今日閣議決定の暴挙を敢えてした安倍政権と自公両党の衰退を見届けよう。
(2014年7月1日)










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