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制度も社会の資本である

「神州の泉」から転載。
「社会的共通資本」の概念は、今後の考察のための「思考素」になるかと思うので、備忘的に保存しておく。特に、「制度資本」という言葉は興味深い。つまり、制度は社会の貴重な財産なのだ。
何かが少し古くなれば壊して、新しいものを売る、というのが現行資本主義(資本をカネや物の類とだけする考え方)の基本パターンだが、古くなっても壊すべきでないものもある。それが伝統であり、古典であり、不朽の名作というものだ。憲法9条なども、その一つと考えるべきだろう。(アメリカの雑誌か何かで、世界一の人気観光都市に京都が選ばれたというニュースが最近あったが、「古いものは壊せ」という思考法の馬鹿馬鹿しさがこのことからも分かるだろう。逆に、古くても残るものには大きな価値があるということだ。)
制度も資本である、という考え方、あるいは無形のものも資本である、という考え方は、これからの社会を考察する場合に重要になってくる可能性がある。


(以下引用)

2014年7月 6日 (日)

規制は重要な「社会的共通資本」なのであって、決して打ち壊すべき岩盤ではない


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神州の泉は、東京大学名誉教授で日本学士院会員の宇沢弘文氏が提唱された、「社会的共通資本」という概念が重要だと思っているので、ときどき宇沢氏が書かれた『社会的共通資本』(岩波新書)を好んで読む。


宇沢弘文氏は、これまで一般均衡論、均衡の安定性、二部門成長モデル、最適成長理論、消費・投資関数など理論経済学の分野で先導的な研究者として数多くの卓越した業績を残され、また日米では主要な学会の会長を務めるなど多くの要職を歴任されたそうである。


宇沢弘文氏は世界的に卓越した経済学者なのだが、マスコミは彼をいっさい取り上げないために、彼の存在はほとんど日本国民に知られていない。その理由は、宇沢氏が「日本は属国どころか、米国に搾取されている植民地である」と公然と主張されているからだ。


マスコミが取り上げずに押し隠す有識者だからこそ、宇沢弘文氏は日本国民にとって偉大な力となる人物なのである。一般に日本のマスコミがもてはやし、頻繁にテレビやラジオなどに出している有識者は、対米隷属や周辺外国の犬と化した有害な人間が多い。

このような似非(えせ)経済学者・評論家たちが跋扈する中にあって、内橋克人氏、紺谷典子氏、植草一秀氏、東谷暁氏など、ごくわずかな人たちだけが本当のことを言っている。マスコミは彼らを登場させないので国民は彼らの意見を知る機会がなかなかない。企業や米国に都合のよい有識者しか登場させないことが慣例化している。


今の日本で、マスコミ報道から経済や政治の真実を知ろうとすることほど無益で有害なことはない。東京新聞を除けば日本のマスメディアはアメリカやそこに巣食うコーポラティズム、あるいは敵対的(反日的)な周辺諸国の傀儡的報道機関となっている。NHKも例外ではない。


宇沢弘文氏が提唱する社会的共通資本(Social Overhead Capital又はSocial Common Capital)の中で、とくに自然環境、インフラストラクチャー、金融・医療・教育などの制度資本の側面は、非常に重要な考え方だと思うようになった。


日本に限らず、我々の社会は人間がそれなりに健全に生活できて、社会の秩序が安定し、そこに住む者たちを囲む自然環境が破壊されないように心掛けていくことは当然だというか、人間の社会的責務である。


これは強いて考えるようなことではなく、近代文明の社会的な装置群を維持発展させていく場合の基本である。ところが、新自由主義が世界に伝播してから、この常識が片っ端から崩れ、ワシントン・コンセンサスが政策指針のデファクト・スタンダードになってしまった国々は大変な思いをしているのではないだろうか。


日本で言えば、小泉構造改革で人々は生活が一気に不安定化・破壊されてしまったと感じている人間は多い。新自由主義は人間生活にとって大事なものを破壊してしまう性質がある。ミルトン・フリードマンは政府からの自由や選択の自由を連呼しているが、その自由の本質は人間ではなく、企業(資本)の自由なのである。


つまり、ミルトン・フリードマンに連なる政治思想では、社会保障や最低賃金体系など、人間の生存を担保し、社会の安定を維持するという方向性が制度的に棄損されてしまうのである。その最大の事例がワシントン・コンセンサスによる規制緩和の同調圧力である。


今述べた制度資本と呼ばれる、これらの分野は、商業主義になじまない非営利領域なのであり、人間や他の生物、自然環境にとって望ましい社会条件を形成し、維持させていく重要な概念体系である。


ところが、シカゴボーイズと言われるミルトン・フリードマンの弟子たちが、1973年に南米チリの経済体制を新自由主義(フリードマン主義)に置き換えてから、世界の経済史は、今述べた重要な制度資本が破壊される方向に進んだ。


1980年代にはイギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミクスがフリードマン主義を政策的に実行し、わが国では中曽根政権がレーガンに影響を受けてこの政策を採用している。


当時、中曽根康弘がレーガン大統領をどこかの山荘に招き、大統領夫妻にちゃんちゃんこを着せ、自らは得意げにほら貝を吹いていた。ほとんど政治に興味のなかったその当時でも、中曽根のその得意満面な顔を見たとき、「パフォーマンスだけの幇間野郎が!」と思ったことを覚えている。


思えば、このパフォーマンスが後に小泉純一郎がブッシュJr大統領夫妻の前で行った、恥知らずなプレスリー・エアギターの先駆けだった。


今から思えば、中曽根のこのわざとらしいパフォーマンスが、その後の日米関係、日本と米国コーポラティズムとの主従関係をよく象徴していた。このような伏線があって、日本は1989年の日米構造協議から、表に裏に米国からの圧倒的な圧力によって規制緩和を強要されていたのである。


規制は確かに既得権益が群がる性質を持っているが、その本質はガードシステムなのであるから、経済効率や利便性(=経済合理性)だけでむやみに緩和したり撤廃するべきではない。とくに企業や外国資本の便益だけで規制を緩和することは、国民や社会にとって非常に危険なことなのである。


この観点から、企業投資だけを規制緩和の理由にしている国家戦略特区がどれほど危険なことか、国民はもっと考えるべきだ。宇沢弘文氏の社会的共通資本の充実や維持という観点から言えば、規制そのものはまちがいなく重大な社会的共通資本の一部なのである。


なぜなら規制は、国民生活や社会を資本強者のレッセ・フェール(自由放任主義)から守る大事な制度だからである。政権側やマスメディアは、この大事な点を完全に無視し、国民に対して規制悪玉論をこれでもかと吹聴する。


テレビのゲテモノ番組に頭をやられた多くの連中は、規制悪玉論を聞いて「そうだ、そうだ、岩盤規制をぶっ壊せ!」と、頭の悪さ全開で同調しているのが現実なのである。


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