「阿修羅」経由で、「晴れのち曇り ときどきパリ」といういいブログを見つけたので、そこから気に入った部分を紹介する。まだあまり読んでいないが、非常にいい「社会感覚」を持った人だと思う。どんなに偉い人でも、どんなに有名人でも社会感覚がダメな人間はたくさんいる。ここで言う社会感覚はべつに「社会遊泳術」のことではない。社会の実相を正しく見抜きながら、その正と不正を厳しく判断できる力のことである。
下記記事中にある
「昭和の10年代に、将来を嘱望された筈の、優良な日本人の層を皆殺しにして、その責任を負うべき当事者たる『滓』だけが生き残った。
そして、そのカスどもが、古くから伝わっていた「良き日本」を葬り去り、つまらない虚栄を餌に、弱肉強食の社会を造り上げ、声無き優良なる部分を貶め、醜き売国の徒のみが、大きな顔をしてのさばる国を、造り上げてしまった。」
という言葉は、まさにその通りだと思う。その代表が辻正信や岸信介だろう。そして、そういう人間を選挙で担ぎ、選挙で投票した人々が現在の日本を作ったのである。
ある意味では、日本は(少なくともその最良の部分は)とっくに滅びた国であったのだ。
(以下引用)
家族全員が、お互いを愛し、お互いを尊敬し、お互いを必要としあっている事を、お互いが理解し合っている。
親が、子の「最良」の手本であり、社会が家庭の規範であった。
そんな家庭が、そんな人間関係が、そんな社会が、かっての日本にはごく普通に有ったのだ。
それが、普通の人間の在り方であった。
そして、そのような「普通の」良き日本人が、先頭を切って死んで行った。
戦前の、疑う事を知らず、純真に「愛する家族」の為に、自らを犠牲にする事を厭わない精神。
「愛する家族」を守る事が、祖国を守る事であり、祖国を守る事が、愛する家族を守る事であった。
そして、そのような「純真な」人々が、「お国の為」に、死んで行った。
死なざるを得ない、そんな社会になって行った。
死ななくても良かった人々であった。
先の大戦で、日本は「貴重」な人的資源を失ってしまった様に思える。
残った者共は、そのような「アノニマス」な良き日本人の犠牲の上に、胡座をかいて平和を貪っていたのでは無かろうか。
そんな思いに、心が沈んでしまう昨今の出来事である。
企業は、あくまで利益のみを追求する。
資本主義社会体制の基に合って、当たり前の事では有る。
しかし、そこに国と国民とに対する愛情が、感じられるだろうか。
企業として、国に如何に貢献出来るか。
企業として、国民の幸せにどのような役割を果たせるか。
そのような「哲学」は、無い。
官僚達は、『公僕』たる立場を失念し、『選良』として振る舞い、仕えるべき日本国家と国民とに利益とならない事柄を、官僚としての「プロトコール」のみで実行して恥じない。
公務員としての『公務』が、まるで『上意』ででも有る如く。
おのれ等が、国家そのものででも有るかの如く。
ただひたすら「驕り高ぶって」エリート意識に凝り固まり、先例を踏襲する事にのみ腐心しながら、おのれ等の省益と、退官後の安寧にして贅沢な暮らしの為にのみ、時間を割く。
そこに、国に尽くす発想は、微塵も感じられない。
彼等の言動に、国民の幸せと平和の為に何を為すか、などという姿勢も意気込みも、毛筋程も見る事が出来ない。
政治家は、お国の為に、国民の為に、と言う「スローガン」に、本来の意味を見失って、単に地位と名誉を追い求める「自己満足」の極みに徹している。
ただただ、権謀術数に走り、駆け引きと、裏切りと、見せかけの言動とによって、「権力基盤」を固める事のみに腐心している。
有る数の国民に選ばれ、その国民の声を代表し、その国民の代表者として、自治体に、都道府県に、国にどのように「声」を伝え、それを持って貢献出来るか、などという姿勢等、何処にも感じられない。
そんな風に見えて仕方がない。
▶国民新党・亀井代表「防護服姿の岡田幹事長にあぜんとした」(産経見出し)
>亀井氏は民主党の岡田克也幹事長が福島第1原発から半径20キロ圏内の警戒区域を視察したことに触れ、「自分だけ防護服を着て、(相手の)工場長が防護服も何もなしで会う姿を見て大変あぜんとした。心の通いあう政治をやらなくてはダメだ」と批判した。
【産經新聞/5月11日(水)0時32分配信】
私も、写真を見て『唖然』とした。
この写真を見て、「唖然としない」人が居るだろうか?
防護服の「手袋」もとらず、平伏で頭を下げる工場長と、傲岸なる表情で握手する。
こんな政治家は、決して、絶対に、国民の気持ち等理解出来ない。
「マツリゴト」など、出来よう筈も無い。
これが、現実政府与党の「幹事長「である。
▶菅首相、原発事故収束まで6月から歳費返上(讀賣見出し)
>東京電力福島第一原子力発電所の事故に関して「事故を防げなかったことをおわび申し上げたい」とした上で、「事故の収束のめどがつくまでの間、6月から首相としての歳費を返上したい」と述べた
【讀賣新聞/5月10日(火)18時13分配信配信】
この報に接して、感動した人が居るだろうか?
バカバカしい、と思うしか無い。
とことん「スタンドプレー」に徹し、とことん地位を守る事に専心する姿しか、見て取れない。
未だに11万人を超える「避難所暮らし」の被災者の、最も火急の必要に応じる政策を実行しているとは、毛頭思えない。
これば、現実の「日本国総理大臣」である。
そして、そのソーリダイジンが本部長を務める「震災対策本部」のやる事が。
▶<東日本大震災>わずか2時間の我が家 川内村一時帰宅(毎日見出し)
>東京電力福島第1原発事故で、立ち入りが規制されている警戒区域(原発から半径20キロ圏内)内の住民の一時帰宅が10日、福島県川内村で初めて実施された。54世帯92人が参加し、2時間の滞在時間中、事前に配布された70センチ四方のビニール袋に持ち帰る物を入れ、ペットや家畜の安否を確認するなどした。
>自宅周辺を1時間ほど歩き、牛を探した。朝方までの雨のせいか、湿気が多い。近くの道路には、牛らしき足跡が点々と続き、道路脇の草を食べたあともあった。「群れになって生きているのは間違いねえ」
>疲れ切った様子で牛舎に戻った秋元さんは、牛がいつ戻ってもいいように餌場に草を置いた。「胸をさすってやると、本当にうれしそうな目をするんだから。国や東電は殺処分とか補償とか言うけど、そう簡単にあきらめつかねえんだ。家族と同じなんだから」
【毎日新聞/5月10日(火)21時26分配信】
たった、2時間。
70センチ四方のビニール袋。
これが、政府が「強制的」に立ち退かせた住民に、2ヶ月後に与えた「家庭の歴史」の回復のチャンスである。
馬鹿にするのも程が有る。
非人道的。
人としての情愛も無い。
国民に対する敬意も無い。
人造人間の如き総理大臣の政治である。
人間のやる事では無い。
▶東電社長、政府に支援要請…追加燃料費1兆円(讀賣見出し)
>東京電力の清水正孝社長は10日午前、首相官邸を訪れ、福島第一原子力発電所事故の被害者への損害賠償策について、政府に支援を要請した。
>要請書では、今年度、火力発電への依存度が高まって燃料費が追加で1兆円近くかかるうえ、社債や借入金の償還・返済でも約7500億円が必要となることなどを説明。「資金面で早晩立ちゆかなくなり、補償に影響を与える恐れがあるばかりでなく、電気の安定供給に支障を来す恐れがある」として、政府に対し、支援の枠組みを早急に策定してもらうよう求めた。
【讀賣新聞/5月10日(火)14時31分配信】
あくまでも、たわけた経営者である。
「私財を投げ打って責任を果たす」等と言う姿勢は、微塵も感じない。
「国策で原発推進して来た以上、国の責任だ。支援してくれ」
これが、「準公務員」とまで言われ、肩で風切って闊歩して来た、天下の東電の経営感覚である。
社会に対する「企業の責任」という感覚等、何処にも無い。
▶原発交付金「従来通り」と経産相…御前崎市長(讀賣見出し)
>中部電力浜岡原子力発電所がある静岡県御前崎市の石原茂雄市長は9日、国から市に交付される電源立地地域対策交付金について、海江田経済産業相が「従来通りやらせてもらう」と全額交付を示唆したことを明らかにした。
【讀賣新聞/5月9日(月)20時53分配信】
結局、改めて再確認出来た事は、政財官のトライアングルは、しっかりと固い絆で結ばれている、と言う事。
そして、その三角形の中に、「国民」という要素はすっぽりと抜け落ちている、と言う事。
依って立つ基盤となるべき「クニ」という概念も無い、と言う事。
日本と言う国には、「政財官」という支配者と、「沈黙の羊の群れ」しか居なくなってしまった。
昭和の10年代に、将来を嘱望された筈の、優良な日本人の層を皆殺しにして、その責任を負うべき当事者たる『滓』だけが生き残った。
そして、そのカスどもが、古くから伝わっていた「良き日本」を葬り去り、つまらない虚栄を餌に、弱肉強食の社会を造り上げ、声無き優良なる部分を貶め、醜き売国の徒のみが、大きな顔をしてのさばる国を、造り上げてしまった。
もちろん、誠心誠意、国の為に身を粉にして働いている官僚氏も居る事だろう。
しかし、そう言う高い意識を持った公務員も、出世の階段を昇るに連れて、初心を忘れ去り、霞ヶ関の色に染まりきってゆく。
日本の為に、必死で尽くそうと努力して居られる政治家諸氏も、いらっしゃる。
しかし、「悪貨は良貨を駆逐する」原則は、生きている。
埋没しないまでも、腹黒い一味の陰謀(敢えて言う)の前に、なす術も無い事が多い。
正義は、通常は為されない物だ。
そんな日本になってしまった。
下記記事中にある
「昭和の10年代に、将来を嘱望された筈の、優良な日本人の層を皆殺しにして、その責任を負うべき当事者たる『滓』だけが生き残った。
そして、そのカスどもが、古くから伝わっていた「良き日本」を葬り去り、つまらない虚栄を餌に、弱肉強食の社会を造り上げ、声無き優良なる部分を貶め、醜き売国の徒のみが、大きな顔をしてのさばる国を、造り上げてしまった。」
という言葉は、まさにその通りだと思う。その代表が辻正信や岸信介だろう。そして、そういう人間を選挙で担ぎ、選挙で投票した人々が現在の日本を作ったのである。
ある意味では、日本は(少なくともその最良の部分は)とっくに滅びた国であったのだ。
(以下引用)
家族全員が、お互いを愛し、お互いを尊敬し、お互いを必要としあっている事を、お互いが理解し合っている。
親が、子の「最良」の手本であり、社会が家庭の規範であった。
そんな家庭が、そんな人間関係が、そんな社会が、かっての日本にはごく普通に有ったのだ。
それが、普通の人間の在り方であった。
そして、そのような「普通の」良き日本人が、先頭を切って死んで行った。
戦前の、疑う事を知らず、純真に「愛する家族」の為に、自らを犠牲にする事を厭わない精神。
「愛する家族」を守る事が、祖国を守る事であり、祖国を守る事が、愛する家族を守る事であった。
そして、そのような「純真な」人々が、「お国の為」に、死んで行った。
死なざるを得ない、そんな社会になって行った。
死ななくても良かった人々であった。
先の大戦で、日本は「貴重」な人的資源を失ってしまった様に思える。
残った者共は、そのような「アノニマス」な良き日本人の犠牲の上に、胡座をかいて平和を貪っていたのでは無かろうか。
そんな思いに、心が沈んでしまう昨今の出来事である。
企業は、あくまで利益のみを追求する。
資本主義社会体制の基に合って、当たり前の事では有る。
しかし、そこに国と国民とに対する愛情が、感じられるだろうか。
企業として、国に如何に貢献出来るか。
企業として、国民の幸せにどのような役割を果たせるか。
そのような「哲学」は、無い。
官僚達は、『公僕』たる立場を失念し、『選良』として振る舞い、仕えるべき日本国家と国民とに利益とならない事柄を、官僚としての「プロトコール」のみで実行して恥じない。
公務員としての『公務』が、まるで『上意』ででも有る如く。
おのれ等が、国家そのものででも有るかの如く。
ただひたすら「驕り高ぶって」エリート意識に凝り固まり、先例を踏襲する事にのみ腐心しながら、おのれ等の省益と、退官後の安寧にして贅沢な暮らしの為にのみ、時間を割く。
そこに、国に尽くす発想は、微塵も感じられない。
彼等の言動に、国民の幸せと平和の為に何を為すか、などという姿勢も意気込みも、毛筋程も見る事が出来ない。
政治家は、お国の為に、国民の為に、と言う「スローガン」に、本来の意味を見失って、単に地位と名誉を追い求める「自己満足」の極みに徹している。
ただただ、権謀術数に走り、駆け引きと、裏切りと、見せかけの言動とによって、「権力基盤」を固める事のみに腐心している。
有る数の国民に選ばれ、その国民の声を代表し、その国民の代表者として、自治体に、都道府県に、国にどのように「声」を伝え、それを持って貢献出来るか、などという姿勢等、何処にも感じられない。
そんな風に見えて仕方がない。
▶国民新党・亀井代表「防護服姿の岡田幹事長にあぜんとした」(産経見出し)
>亀井氏は民主党の岡田克也幹事長が福島第1原発から半径20キロ圏内の警戒区域を視察したことに触れ、「自分だけ防護服を着て、(相手の)工場長が防護服も何もなしで会う姿を見て大変あぜんとした。心の通いあう政治をやらなくてはダメだ」と批判した。
【産經新聞/5月11日(水)0時32分配信】
私も、写真を見て『唖然』とした。
この写真を見て、「唖然としない」人が居るだろうか?
防護服の「手袋」もとらず、平伏で頭を下げる工場長と、傲岸なる表情で握手する。
こんな政治家は、決して、絶対に、国民の気持ち等理解出来ない。
「マツリゴト」など、出来よう筈も無い。
これが、現実政府与党の「幹事長「である。
▶菅首相、原発事故収束まで6月から歳費返上(讀賣見出し)
>東京電力福島第一原子力発電所の事故に関して「事故を防げなかったことをおわび申し上げたい」とした上で、「事故の収束のめどがつくまでの間、6月から首相としての歳費を返上したい」と述べた
【讀賣新聞/5月10日(火)18時13分配信配信】
この報に接して、感動した人が居るだろうか?
バカバカしい、と思うしか無い。
とことん「スタンドプレー」に徹し、とことん地位を守る事に専心する姿しか、見て取れない。
未だに11万人を超える「避難所暮らし」の被災者の、最も火急の必要に応じる政策を実行しているとは、毛頭思えない。
これば、現実の「日本国総理大臣」である。
そして、そのソーリダイジンが本部長を務める「震災対策本部」のやる事が。
▶<東日本大震災>わずか2時間の我が家 川内村一時帰宅(毎日見出し)
>東京電力福島第1原発事故で、立ち入りが規制されている警戒区域(原発から半径20キロ圏内)内の住民の一時帰宅が10日、福島県川内村で初めて実施された。54世帯92人が参加し、2時間の滞在時間中、事前に配布された70センチ四方のビニール袋に持ち帰る物を入れ、ペットや家畜の安否を確認するなどした。
>自宅周辺を1時間ほど歩き、牛を探した。朝方までの雨のせいか、湿気が多い。近くの道路には、牛らしき足跡が点々と続き、道路脇の草を食べたあともあった。「群れになって生きているのは間違いねえ」
>疲れ切った様子で牛舎に戻った秋元さんは、牛がいつ戻ってもいいように餌場に草を置いた。「胸をさすってやると、本当にうれしそうな目をするんだから。国や東電は殺処分とか補償とか言うけど、そう簡単にあきらめつかねえんだ。家族と同じなんだから」
【毎日新聞/5月10日(火)21時26分配信】
たった、2時間。
70センチ四方のビニール袋。
これが、政府が「強制的」に立ち退かせた住民に、2ヶ月後に与えた「家庭の歴史」の回復のチャンスである。
馬鹿にするのも程が有る。
非人道的。
人としての情愛も無い。
国民に対する敬意も無い。
人造人間の如き総理大臣の政治である。
人間のやる事では無い。
▶東電社長、政府に支援要請…追加燃料費1兆円(讀賣見出し)
>東京電力の清水正孝社長は10日午前、首相官邸を訪れ、福島第一原子力発電所事故の被害者への損害賠償策について、政府に支援を要請した。
>要請書では、今年度、火力発電への依存度が高まって燃料費が追加で1兆円近くかかるうえ、社債や借入金の償還・返済でも約7500億円が必要となることなどを説明。「資金面で早晩立ちゆかなくなり、補償に影響を与える恐れがあるばかりでなく、電気の安定供給に支障を来す恐れがある」として、政府に対し、支援の枠組みを早急に策定してもらうよう求めた。
【讀賣新聞/5月10日(火)14時31分配信】
あくまでも、たわけた経営者である。
「私財を投げ打って責任を果たす」等と言う姿勢は、微塵も感じない。
「国策で原発推進して来た以上、国の責任だ。支援してくれ」
これが、「準公務員」とまで言われ、肩で風切って闊歩して来た、天下の東電の経営感覚である。
社会に対する「企業の責任」という感覚等、何処にも無い。
▶原発交付金「従来通り」と経産相…御前崎市長(讀賣見出し)
>中部電力浜岡原子力発電所がある静岡県御前崎市の石原茂雄市長は9日、国から市に交付される電源立地地域対策交付金について、海江田経済産業相が「従来通りやらせてもらう」と全額交付を示唆したことを明らかにした。
【讀賣新聞/5月9日(月)20時53分配信】
結局、改めて再確認出来た事は、政財官のトライアングルは、しっかりと固い絆で結ばれている、と言う事。
そして、その三角形の中に、「国民」という要素はすっぽりと抜け落ちている、と言う事。
依って立つ基盤となるべき「クニ」という概念も無い、と言う事。
日本と言う国には、「政財官」という支配者と、「沈黙の羊の群れ」しか居なくなってしまった。
昭和の10年代に、将来を嘱望された筈の、優良な日本人の層を皆殺しにして、その責任を負うべき当事者たる『滓』だけが生き残った。
そして、そのカスどもが、古くから伝わっていた「良き日本」を葬り去り、つまらない虚栄を餌に、弱肉強食の社会を造り上げ、声無き優良なる部分を貶め、醜き売国の徒のみが、大きな顔をしてのさばる国を、造り上げてしまった。
もちろん、誠心誠意、国の為に身を粉にして働いている官僚氏も居る事だろう。
しかし、そう言う高い意識を持った公務員も、出世の階段を昇るに連れて、初心を忘れ去り、霞ヶ関の色に染まりきってゆく。
日本の為に、必死で尽くそうと努力して居られる政治家諸氏も、いらっしゃる。
しかし、「悪貨は良貨を駆逐する」原則は、生きている。
埋没しないまでも、腹黒い一味の陰謀(敢えて言う)の前に、なす術も無い事が多い。
正義は、通常は為されない物だ。
そんな日本になってしまった。
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