「混沌堂主人雑記」から一部転載。
面白い問題提起をしていると思うから引用するのであって、内容は「尊皇主義者」である私とは当然対立する思想である。
私も「幻想水滸伝」は大好きだし、2は、あるいはすべてのRPGの中で1,2に好きであるかもしれない。しかし、元ネタの「水滸伝」も「幻想水滸伝」も革命の話ではまったくない。確かに「武装集団」みたいなのも出て来るが、それは「国家に対する闘争」ではなかったと思う。である以上、革命ではまったくないわけだ。現体制(小さな田舎の県や都市でもいい)から「犯罪者」と見られている連中が集まって武力集団を作っただけで、つまり、ギャングやヤクザと同じであり、それが「革命」であるには、「どのような社会を作りたい」と言う明確な思想とプランが存在しなければならない。その思想が「民主主義」でも「社会主義」でも、当時の政権にとっては(いや、今のほとんどの国家で)犯罪だったのである。民主主義と社会主義こそ、欧米や日本という国での政権(「見えない貴族」が支配している)の憎悪の対象ではないか? www
そして私は現政権を倒せばそれで何とかなるといういい加減な武力闘争が大嫌いである。それは、あらゆる野心家たちが歴史上数えられないほど繰り返し、多くの惨禍の元となった暴力闘争でしかない。
である以上、可視的な「政治責任を負う立場」にいる人間を、私は安易に批判したくない。彼らはその大きな犠牲をも負う立場なのである。広い意味では天皇などもそれだ。今のように何の政治権力も無い「象徴天皇」でさえ、昭和天皇の戦争責任を、その子孫だというので負わされ続けている。これこそ大きな人権無視ではないか。彼らは天皇をやめる権利すら無いのである。
ちなみに、私は「革命」にも懐疑的(可能か不可能かではなく、意義の問題として。)である。革命とは、現実には埴谷雄高の言葉のように「あいつは敵だ。敵は殺せ」にしかならないと思っている。つまり、最大に上手くいっても「今の社会の上半分と下半分が入れ替わるだけ」になると思っている。(次の世代ではまた反対になるわけだ。)下手をしたら、上半分を全員殺すことになる。
真の国家改造は「思想」によってしか行えない、というのが私の考えだ。そういう意味では統一教会のような愚劣そのものの思想が、今や日本政治を喉元まで侵食している事例を真剣に見るべきだろう。あるいは西洋中世の「キリスト教支配」社会も同様だ。社会の8割は馬鹿だと仮定したら、その8割を洗脳すれば社会は支配できるwww それがテレビの役割だった。
(以下引用)
面白い問題提起をしていると思うから引用するのであって、内容は「尊皇主義者」である私とは当然対立する思想である。
私も「幻想水滸伝」は大好きだし、2は、あるいはすべてのRPGの中で1,2に好きであるかもしれない。しかし、元ネタの「水滸伝」も「幻想水滸伝」も革命の話ではまったくない。確かに「武装集団」みたいなのも出て来るが、それは「国家に対する闘争」ではなかったと思う。である以上、革命ではまったくないわけだ。現体制(小さな田舎の県や都市でもいい)から「犯罪者」と見られている連中が集まって武力集団を作っただけで、つまり、ギャングやヤクザと同じであり、それが「革命」であるには、「どのような社会を作りたい」と言う明確な思想とプランが存在しなければならない。その思想が「民主主義」でも「社会主義」でも、当時の政権にとっては(いや、今のほとんどの国家で)犯罪だったのである。民主主義と社会主義こそ、欧米や日本という国での政権(「見えない貴族」が支配している)の憎悪の対象ではないか? www
そして私は現政権を倒せばそれで何とかなるといういい加減な武力闘争が大嫌いである。それは、あらゆる野心家たちが歴史上数えられないほど繰り返し、多くの惨禍の元となった暴力闘争でしかない。
である以上、可視的な「政治責任を負う立場」にいる人間を、私は安易に批判したくない。彼らはその大きな犠牲をも負う立場なのである。広い意味では天皇などもそれだ。今のように何の政治権力も無い「象徴天皇」でさえ、昭和天皇の戦争責任を、その子孫だというので負わされ続けている。これこそ大きな人権無視ではないか。彼らは天皇をやめる権利すら無いのである。
ちなみに、私は「革命」にも懐疑的(可能か不可能かではなく、意義の問題として。)である。革命とは、現実には埴谷雄高の言葉のように「あいつは敵だ。敵は殺せ」にしかならないと思っている。つまり、最大に上手くいっても「今の社会の上半分と下半分が入れ替わるだけ」になると思っている。(次の世代ではまた反対になるわけだ。)下手をしたら、上半分を全員殺すことになる。
真の国家改造は「思想」によってしか行えない、というのが私の考えだ。そういう意味では統一教会のような愚劣そのものの思想が、今や日本政治を喉元まで侵食している事例を真剣に見るべきだろう。あるいは西洋中世の「キリスト教支配」社会も同様だ。社会の8割は馬鹿だと仮定したら、その8割を洗脳すれば社会は支配できるwww それがテレビの役割だった。
(以下引用)
「幻想水滸伝の物語は、巨大権力の理不尽な暴力に対し、弱き立場の者達が、勇気を振り絞って結束しそれに立ち向かう姿を描いてます。」
日本ってそういう話が、実はあまりない・・・ガンダムなど「超人オリンピック」だしな・・ヤンキーモノも「弱い立場の者が結束して立ち向かう」なのではない。
未だに「天皇」が存在している、、、日本では「革命」が無い・・・社会が社会全体が変革した記憶が無い。。
それは、結局「殿様任せ」「天皇崇拝」で「考えない日本人」の大きな要因だと思う。
「革命」が無いってことは、その「社会」が外や自らの問題に、向こう切って対応したことが無かったってことに思える。「革命」ってのは、為政者やその住民が、自分で自分の生活・幸福に責任をもって生きた・動いた・・てことの証拠の一つだと思う。
それが無いのは「社会の事は他人任せ」ってこと。
天皇も、統治は外資や官僚任せ。
官僚・政治家も、米軍と天皇任せ。
金持は外資と天皇任せ。
庶民は金持と「偉い人」任せ。。
自分で「社会」に対して責任と利益・幸福を求めると、まあつぶされますは・・。
日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。
それはみんなが「責任」を自分で背負いたくないので、そういう「志ある人」に責任をおっかぶせて逃げるから、、
・・・逃げても「社会の・金持ちの・権力者の・外資の 奴隷」であるのは、戦うなり対峙して自分で幸福と責任をつかもうとしない限りに、奴隷なのだけど・・。
日本は、社会の存続のために「天皇・帝王を斬る・変える」をすることが無くても、敵に滅ぼされない「ガラパゴス」の幸運だっただろうが、もうその「ボーナスタイム」は、完全に終わったのだろうね。
きっと「日本人」は消え失せます・・・
でも・・好運ならば、せめて「命と自分の命運」を、国家や権威や天皇に丸投げしない、、程度の「責任」を取る程度の「戦い」「葛藤」を厭わない人たちは、きっと生き延びて栄光をつかめる・幸いに成れる・・・「天皇」とその一族が死滅しようが日本国が絶滅しようが。。。
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