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党派の「本質」と「真髄」

まあ、誰にも興味の無い話だろうが、せっかく考えたので書いておく。
翻訳の話である。ただし、言うまでもなく、私は外国語はまったく知らないので、ここでは原文は度外視しての二つの翻訳文の比較の話だ。どちらも古い翻訳で、訳者がご存命かどうかも知らない。
さて、問題の文章をふたつ挙げておく。文語的表記は現代文表記にしておく。

A:行動は党派たるものの本質である。
B:行動ということこそ党派の真髄ではなかろうか。

私は前者(A)を読んで違和感というか、疑問を感じて、別の翻訳であるBを見て納得したのだが、一応説明しておくと、Bの翻訳者が先にこの原作を翻訳し、Aがその後、その原作の改訳(新訳)をし、さらにそれを参考にしてBの翻訳者が自分の過去の訳を改訳したようだ。したがって、時系列的にはBの翻訳者に優位性があり、AよりBが翻訳者として優れているという話ではない。

さて、私はAの文になぜ違和感を持ったのかと言えば、その断定的口調による断言(命題)の内容が正しいとは思えなかったのだ。間違いとは言えなくても、「全肯定」はできない命題だろう。
そして、Bになぜ納得したかと言えば、同じ命題への「~ではなかろうか」という婉曲な口調とともに、「本質」が「真髄」になっている点も良しとしたのである。
「本質」と「真髄」に違いは無いだろうという大雑把な意見もあるだろうが、「本質」とは、その対象全体を包含するもので、「真髄」はその対象の中心部だけに該当するものだ。つまり、「党派」と「行動」に関して言えば、「(本質=)党派に属するメンバーは全員必然的に行動する」か「(真髄=)党派の中心層は行動する」かの違いだ。あなたが自民党(でも共産党でも何でもいいが)に同感するからと言って、自民党のために街頭に立って応援するか、しないか、という違いだ。もちろん、「投票」も行動ではあるが、それは自民党の「真髄」としての行動ではないだろう。(「本質」と「真髄」についてのもっと分かりやすい例を寝床の中で考えたのだが、もはや忘れたので書けない。)

なお、このふたつの翻訳はどちらもバルザックの「暗黒事件」の一文である。




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