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偽右翼の「偽尊皇主義」と私の「尊皇主義」

「播州武侯祠遍照院」から転載。
非常に面白い内容で、特に今上天皇の語録をこうして並べると、まさに日本国憲法と天皇は一心同体である、という感がある。その現行憲法を否定することは、今上天皇の人格を否定することではないか? つまり、安倍総理らの「主権回復の日」における「天皇陛下万歳!」は、彼らが目論む憲法改定(けっして「改正」ではない!)とまったく矛盾する、口先だけの言葉でしかない、ということだ。
昭和天皇の戦争への関与の仕方についても、ここに書かれた内容で、その大筋は分かる。非常に貴重な「要約」になっていると思う。
私が常々言っている「日本国憲法に規定された『象徴天皇』こそが日本の伝統的天皇制の本質に近い」という意見は、ここに書かれた両天皇の言葉からしても、正しいと言えるのではないか? そして、そういう意味での天皇という存在は、日本文化の伝統の土台でもあり、貴重な文化遺産、日本の財産だ、というのが私の考えだ。それが私の「尊皇主義」の意味であるというのは、これまで何度も書いてきたことだ。
偽「尊皇主義」の右翼は、実は経済界と米国(ジャパンハンドラーズ)の手足に過ぎないのである。彼らが天皇の意思を尊重しないのも当然だろう。歴史的に遡れば、明治維新以来そうだったとも言える。日本を操作する主体が英国から米国に変わっただけである。


(以下引用)


戦闘教師「ケン」 激闘永田町編  

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

天皇の言うことを聞かない右翼

古い友人と「日本の右翼ってなんで天皇の言うこと聞かないの?」という話になり、面白かったので少しまとめておこうと思う。
4月28日に開かれた日本政府主催の「主権回復の日」式典で、安倍晋三首相を始めとする政府要人や国会議員らが「天皇陛下万歳」と万歳三唱をした。一応表面上は、日本が連合国支配下から独立したこと(沖縄等を除く)を祝う式典であるはずなのに、「天皇陛下万歳」を叫ぶのは何故だろうか。
推察するに、結局のところ彼ら的に「独立した」のは「国民を主権者とする日本」ではなく、「敗戦によってGHQの隷属下に置かれた天皇」であったが故に、「日本国万歳」ではなく「天皇陛下万歳」になったのだろう。自民党などの議員たちが潜在的に国民主権を否定し、天皇主権へ復帰を憧憬していることが表面化してしまった瞬間だった。同席していた平成帝の戸惑いも同じ理由から説明される。

現行憲法で象徴天皇制が規定されて以降、天皇による政治的発言は少なくとも公式上は極めて少なくなっている。それでも昭和帝は戦後もずっと政治に関心を持ち続け(中曽根の総理就任時も政治動向の内奏を続けるよう求めている)、政府枢要などから内奏を受け、自らの意向を伝えていたことが知られている。中でも米軍の駐留や自衛力の確立、共産主義勢力への対抗などへの関心が強かったとされる。
一方、平成帝は現行憲法に対する思いが強いようで、憲法における天皇の地位を厳密に考え、行動や発言を戒めているように見受けられる。内奏は昭和期よりも減っているようだが、現在もなお政府枢要から内奏を受け、御下問されているという。また数は少ないものの、政治的な発言しており、数が少ないだけに重みを感じさせられる。

「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」(1989.1.9、即位後の朝見の儀にて)

(国旗、国歌について)「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」(2004.10.28、園遊会にて)

「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」(2004.12.23、誕生日に際しての文書発表)

「1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006.6.6、記者会見)

「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」(2008.12.23、誕生日に際しての文書発表)

ここから伺えるのは、平成帝が戦前期や戦中期あるいは日本が起こした戦争を否定的に捉える一方、戦後の歴史と現行憲法を肯定し前向きに受け入れている点だ。
ところが自民党・安倍内閣は改憲を志向し、その草案は天皇を元首とし「天皇を戴く国家」と規定、さらに「君が代」(君主讃歌)を国歌となして国民に尊重義務を課している。また、国民の自由を含む諸権利は「公の秩序に反しない限り」においてのみ保障されるとされるが、「公の秩序」が何を意味するのかは定義しておらず、政府に反対すると人権も認められなくなるという事態が危惧される。こうした改定事項は、どう考えても平成帝の勅旨に沿うものとは思われない。

実のところ日本の右翼が天皇の意に反した行動に出るケースは少なくない。
幕末がその最たる例で、孝明天皇の場合、外国嫌いが強く鎖国が伝統的な国法であると勘違いしていたこともあって、主体的に攘夷を唱え、諸外国との条約締結に勅許を与えなかった。とはいえ、幕権にとって代わり王政を復古させようなどというつもりはさらさらなく、むしろ公武合体によって幕権を強化し、幕府と一体になって攘夷を実行しようとの考えだった。にもかかわらず、尊皇派あるいは勤皇派と呼ばれる「志士」たちは次々と勅旨を偽造し、天皇を倒幕に利用した挙句、孝明帝の死後に幕府が倒壊して維新が成立した途端に攘夷を反故にして、開国してしまった。孝明帝の長州嫌いは今では有名なくらいだ。

次の明治天皇にしても、勅使を派遣して征韓論を戒め、日清あるいは日露開戦にも反対したものの、全て御内意に反する結果となっている。

昭和天皇の時も甚だしい。1928年に張作霖爆殺事件が起き、陸軍の関与について内々に知らされた時には、田中義一首相に責任者の厳罰を命じたものの、軍や閣内の反対で実現せず、うやむやにされている。
1935年に美濃部達吉による天皇機関説が政治問題化し、弾圧された時には、「美濃部説の通りではないか。天皇機関説の何が問題なのか」と侍従武官に話している。
翌36年の226事件では、反乱部隊に同情的な侍従武官や鎮圧に戸惑いを見せる陸軍に激怒し、「朕が股肱の老臣を殺戮す、かのごとき兇暴の将校等の精神において何ら許すべきものありや」と述べて、自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたると言いだしたため、ようやく陸軍が重い腰を上げて本格的に鎮圧に乗り出したとされている。
また、1941年の日米開戦に際しても、常に消極的姿勢を示し、日米交渉の継続を希望し続けたが、陸軍の東条首相の就任によって開戦のボタンが押されてしまった(近衛が逃げただけだが)。
さらには、46年11月3日の日本国憲法公布に際して、

「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

との上諭を発しているが、自民党議員を中心に「連合国(後の国連)によって押し付けられた憲法」との見解が大勢を占めている。そこには昭和帝の御意思は反映されていない。

こうして概観すると、日本の右翼が本当に「尊王」なのか甚だ怪しいことが分かろう。むしろ彼らは幕末の志士と同様、天皇を利用して自分たちの政治的主張を実現しようとしているようにしか見えない。日本における「尊王」は、「天皇を御輿に担いで好き勝手に利用する政治制度」を指すと言える。それは二次大戦でも福島原発事故でも見られるように、「誰も責任を取らない」社会システムの根幹をなしている。
大日本帝国憲法は、天皇に全能の権限を付与しておきながら、「行使せず」を慣例とし、しかも「神聖にして侵すべからず」であったため、権限を持つものが責任を取らない制度であり、閣僚や官僚が権能を代行するものの、天皇に対して責任を取るだけという仕組みだった。これほど権力を振るうものに都合の良いシステムは無いだろう。
だからこそ自民党や官僚などは「伝統」と称して帝政復古を目指しているのではなかろうか。

平成帝が高齢と病を抱えながら退位をほのめかすことすらしないのは、深刻な未来を予想しているからなのではないかと愚考する次第。



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