先に引用からしておく。「日々平安録」というブログから転載。
(以下引用)
共同体の正義は進化論的には「なわばり」から生じる。「なわばり」を守ることは進化のうえでのきわめて強力な生存戦略である。当然人の脳のなかにも「なわばり感情」は埋め込まれている。「正義」とは「自分たちのなわばりを守ること」、「悪」とは「なわばりを奪いにくる敵のことである。ヒトは集団を「俺たち」=味方と「奴ら」=敵とにわけて、殺し合ってきた。これは人間の本性で、カール・シュミットは「奴らは敵だ、敵を殺せ」が政治の本質だと述べたのだそうである(埴谷雄高かと思っていた・・恥)。
(引用終わり)
なぜ、先に引用をしたのかというと、ご想像通り、「奴らは敵だ。敵を殺せ」というフレーズについて考えたいからだ。
これが政治の本質だ、と言われると私などには理解しがたい。政治とは、個人(私人)間の矛盾や軋轢を社会的に、あるいは集団秩序に基づいて調整するものだ、というのが私の政治認識だ。それに対して、カール・シュミットの言う政治は、最初から調整ではなく権力闘争として捉えられているわけで、そのハードボイルド的な苛烈さが一部の人々には「ウケル」のだろう。だが、私はそれが政治の本質だとはどうも思えないのだ。まあ、チェーザレ・ボルジア的政治はそうだろうし、現代の政治も水面下では同じかもしれないが、現実政治は「大義名分」を常に必要とするし、そこに理性の出番もある。いきなり「奴は敵だ。敵を殺せ」とはなりえないのである。
さて、ここまでは前置きである。
実は、「奴らは敵だ。敵を殺せ」という言葉は、二つの大きな深淵を一気に飛び越えている。
まず、「奴らは敵だ。」という判断。相手を「敵」だと看做すのは、大きなジャンプである。ところが、イスラエル人はパレスチナ人を、相手がパレスチナ人である、というだけで即座に「敵」と看做すだろう。ここに一つの狂気がある。あまりにもありふれていて、狂気とは看做されない狂気が。
次に、「敵を殺せ」にも大きな深淵と飛躍があるのは分かるだろう。なぜ「敵」を殺さねばならないのか。「汝の敵を愛せよ」とまではいかなくても、「和解する」という道は容易に考えられるはずだ。そもそも、相手を「殺す」ことは相手から自分が殺されることを当然のこととして受け入れねばなるまい。これは狂気ではないか? しかし、戦争ではこの狂気が日常となる。
実は、ここで、レディー・ガガという歌手が、なぜ悪魔主義的ファッションをし、彼女がなぜ女性たちの支持を得ているのか、という考察をしようか、と思っていた。というのは、「女性にとって男性は敵ではないのか」、ということを思いついたからだ。(もちろん、個人個人としては味方にもなりうるが、社会的には敵だ、ということだ。)そして、世界の「正義」や「秩序」から抑圧されている女性は、同様に抑圧された「悪魔」を自らのシンボルとして選んだレディー・ガガに無意識的な共感を覚えているのではないか、という推論をしたのだが、まあ、単なる思い付きだ。しかし、「敵」と「味方」の間に「奴隷(手駒)」という層を置けば、ジェンダー論に限らず、様々な社会学的考察のヒントになりそうである。
(以下引用)
共同体の正義は進化論的には「なわばり」から生じる。「なわばり」を守ることは進化のうえでのきわめて強力な生存戦略である。当然人の脳のなかにも「なわばり感情」は埋め込まれている。「正義」とは「自分たちのなわばりを守ること」、「悪」とは「なわばりを奪いにくる敵のことである。ヒトは集団を「俺たち」=味方と「奴ら」=敵とにわけて、殺し合ってきた。これは人間の本性で、カール・シュミットは「奴らは敵だ、敵を殺せ」が政治の本質だと述べたのだそうである(埴谷雄高かと思っていた・・恥)。
(引用終わり)
なぜ、先に引用をしたのかというと、ご想像通り、「奴らは敵だ。敵を殺せ」というフレーズについて考えたいからだ。
これが政治の本質だ、と言われると私などには理解しがたい。政治とは、個人(私人)間の矛盾や軋轢を社会的に、あるいは集団秩序に基づいて調整するものだ、というのが私の政治認識だ。それに対して、カール・シュミットの言う政治は、最初から調整ではなく権力闘争として捉えられているわけで、そのハードボイルド的な苛烈さが一部の人々には「ウケル」のだろう。だが、私はそれが政治の本質だとはどうも思えないのだ。まあ、チェーザレ・ボルジア的政治はそうだろうし、現代の政治も水面下では同じかもしれないが、現実政治は「大義名分」を常に必要とするし、そこに理性の出番もある。いきなり「奴は敵だ。敵を殺せ」とはなりえないのである。
さて、ここまでは前置きである。
実は、「奴らは敵だ。敵を殺せ」という言葉は、二つの大きな深淵を一気に飛び越えている。
まず、「奴らは敵だ。」という判断。相手を「敵」だと看做すのは、大きなジャンプである。ところが、イスラエル人はパレスチナ人を、相手がパレスチナ人である、というだけで即座に「敵」と看做すだろう。ここに一つの狂気がある。あまりにもありふれていて、狂気とは看做されない狂気が。
次に、「敵を殺せ」にも大きな深淵と飛躍があるのは分かるだろう。なぜ「敵」を殺さねばならないのか。「汝の敵を愛せよ」とまではいかなくても、「和解する」という道は容易に考えられるはずだ。そもそも、相手を「殺す」ことは相手から自分が殺されることを当然のこととして受け入れねばなるまい。これは狂気ではないか? しかし、戦争ではこの狂気が日常となる。
実は、ここで、レディー・ガガという歌手が、なぜ悪魔主義的ファッションをし、彼女がなぜ女性たちの支持を得ているのか、という考察をしようか、と思っていた。というのは、「女性にとって男性は敵ではないのか」、ということを思いついたからだ。(もちろん、個人個人としては味方にもなりうるが、社会的には敵だ、ということだ。)そして、世界の「正義」や「秩序」から抑圧されている女性は、同様に抑圧された「悪魔」を自らのシンボルとして選んだレディー・ガガに無意識的な共感を覚えているのではないか、という推論をしたのだが、まあ、単なる思い付きだ。しかし、「敵」と「味方」の間に「奴隷(手駒)」という層を置けば、ジェンダー論に限らず、様々な社会学的考察のヒントになりそうである。
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