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「反知性主義」ではなく「反主知主義」という言葉を使おう

定義の曖昧な言葉ほど、完全な誤用も含めて拡散しがちだ、という印象が私にはあるが、「反知性主義」という言葉もそのひとつだろう。もともと、定義があるのか無いのか分からない言葉だし、定義があるとしても辞書には載っていない言葉だろうと思う。(追記:これは私の誤解だった。)
先に、少し前にネットで見た、その定義(用法と言うべきか)のひとつを載せてから考察する。


反知性主義 象牙の塔に籠る研究者を批判する言葉なのに知識を否定する連中に対して使われがち

上の定義自体が怪し気であるが、もともと、「反知性主義」という言葉が良くないと思う。
先に、ネットでのその「定義」らしきものを載せておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

反知性主義(はんちせいしゅぎ、英語anti-intellectualism)または主知主義(はんしゅちしゅぎ)[1][2]とは、英語辞典によれば、知識人と知的理論に向けられる反対敵意を指す言葉[3][注 1]1904年に「反~ + 知性主義主知主義〕」と「反知性〔反主知〕 + ~主義」から発生した言葉として、語源辞典に掲載されている[4][注 2]。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によると、反知性主義的哲学19世紀末にニーチェなどの思想として現れ、結束主義〔ファシズム〕運動へ繋がったとされる[1]。反知性主義・反主知主義という言葉は、知識人および知的活動への敵対的で嫌悪的な感覚を指し[5][注 3]、また、実際的解決現実理解において知力理由は重要でないという信念教義をも指す[3]

成る程、「反主知主義」ならまったく問題は無い。ニーチェあたりの主張しそうなことである。これも意味が取りにくい「ロマン主義」も、反主知主義のひとつだと言えそうだ。つまり、近代合理主義への反発と「感情の重視」である。実際、我々の生活や対人関係は合理主義ではなく、感情に支配されているのが大半だろう。にも拘わらず、なぜか合理主義絶対思想が世界を蔽っているのである。
で、その「合理主義」の「理」が、実は「利」でしかない、というのが近代資本主義の特徴だ、と私は思っている。「理は利なり」というのは中国の古い言葉にもあるのだが、近代資本主義ではその「利」の部分が隠蔽されて、「理」はすべてに正しい、という宗教化が行われているのではないか。確か、フランス革命でも「理性の宗教化」が行われていたはずだ。

エルビス・プレスリーの歌「I have lost you」の一節に

But,reason can’t stand in for feeling (理屈は感情を説明できない)

とある。


(追記)その歌の、上記部分を含む一節を、記憶によって書いておく。

Oh, I have lost you,yes,I've lost you
I can't reach you anymore
we ought to talk it over now 
But, reason can't stand in for feeling…
nnnnnn

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