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白蓮事件

柳原白蓮の人生は、すべてが小説的で、NHKの朝ドラにでもしたらいいと思うのだが、既にあるかもしれない。
ここでは白蓮事件の前半だけ載せる。ある意味では、「大正時代のフェミニズム闘争事件」である。
ちなみに白蓮は「大正三美人」のひとりだが、現代的感覚では、その中でナンバーワンの美人だろう。

「その行動には反対しても、結婚自体には同情する男性の意見があった一方、女性は燁子により厳しい批判を寄せた。」

というのが面白い。

(以下引用)

事件の経緯[編集]

白蓮失踪[編集]

1921年(大正10年)10月20日、伊藤伝右衛門は夫婦で滞在していた東京府日本橋の旅館「島屋」から、福岡へ帰るために車で東京駅へ向かい、妻・燁子は親族を訪問する予定で東京に残り、伝右衛門を見送った。しかし、燁子はそのまま日本橋の旅館に戻らず、行方をくらませた。


22日、大阪朝日新聞朝刊社会面に「『筑紫の女王』伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ませす 愛人宮崎法学士と新生活?」の見出しで失踪の第一報が伝えられる。失踪当日の様子、身辺の整理、宮崎龍介との出会いの経緯と唯一当事者である龍介の談話[1]を掲載し、一面を埋める扱いで伝えられる。大阪朝日の単独スクープであった。


同日の夕方、各紙一斉に報じ、地元福岡の九州日報では「伊藤燁子夫人が紛失した」と大見出しで記事をあげ、「一本の巻紙」に伊藤家を去る理由を綴り、それまでに与えられた調度品と共に送付された事を伝えた。朝日と競い合う立場の大阪毎日新聞は、夕刊9面に白蓮夫人と伊藤氏の別れ話が事実であるという関係者の証言を小さく取り上げるのみであった。大阪朝日は同日夕刊で、さらに単独スクープの燁子から伝右衛門に当てた「絶縁状」を全文公開する。

取材合戦[編集]

伝右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都の宿「伊里」で、22日朝刊の報道を知って驚愕する。たまたま京都に来ていた燁子の兄・柳原義光と連絡を取り合い、その日のうちに落ち合っている。宿に詰めかける記者に対し、一切の取材を拒否していた伝右衛門は、同日の夕刊で絶縁状が公開された事で、ようやく数社のインタビューに応じる。


その頃の燁子は東京府下中野の弁護士・山本安夫の元に、伊藤家から伴った女中と共に匿われていた。山本は龍介の父・宮崎滔天の友人であり、子供の頃から親しい龍介に相談を受け、燁子の身柄を預かっていた。22日夜、山本は新聞各社に燁子の居所を連絡し、記者が押し寄せて取材が行われ、23日朝刊には記者に対応する燁子の写真が掲載される。また22日夜には別の場所で龍介が萬朝報記者の訪問を受け、「すべては山本氏に一任している」と語る。


朝日のスクープは、姦通罪[2]を逃れるため、龍介が新人会の仲間で友人の赤松克麿や朝日新聞記者の早坂・中川らに相談し、マスコミを利用して世論に訴え、人権問題として出奔を正当化するために仕掛けられたものだった。当初の予定では、絶縁状を伝右衛門に郵送した後に失踪が記事になる予定であったが、新米記者の早坂・中川の動きから19日には事を察知した大阪朝日が、失踪翌日には記事を出そうとした事から、龍介側から掲載を1日伸ばす要請が入り、その代わりに絶縁状を渡す交換条件が出された。赤松の説得を受けた大阪朝日はその条件を呑み、スクープ記事掲載は1日延期された。絶縁状の文章は燁子の書いた原文に赤松・龍介らの手が入ったものであり、「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」という自由と人権を訴える大正デモクラシー当時の社会風潮が反映されたものだった[3]

反響[編集]

女から男に宛てて、新聞という公器を使って縁切りの宣言を行うという前代未聞の出来事に対し社会的反響は大きく、大阪朝日24日夕刊には、5百余通の投書が殺到した事が書かれ、世間を大いに揺るがす事件として受け止められた。柳原家や燁子が身を寄せた山本家には多くの賛否の手紙の他、脅迫まがいのものも届いた。


完全に出遅れた大阪毎日新聞には、福岡支局在籍時代に燁子と親しく交流があった記者・北尾鐐之助[4]がおり、失踪直前の19日にも連絡を取り合って会う約束をしていた事から、20日に龍介側から流れてきた伊藤夫妻離別の噂、21日午後に京都から入った燁子家出の情報も北尾によってデマであると打ち消されていた。2日間の空白の後、22日公開された朝日の絶縁状で事実を悟った北尾は京都に赴き、面目をかけて伝右衛門に食い下がり、3時間のインタビューを取りつけて巻き返しを図る。


10月24日、大阪毎日新聞で北尾の筆による[5]「絶縁状を読みて燁子に与ふ」という絶縁状への反論文の連載記事が始まる。手記の公開を渋る伝右衛門に対し、事後承諾の形での掲載となった。燁子を悲劇のヒロインとして取り扱った朝日に対し、毎日は女性評論家による燁子への批判コメントを掲載し明確に伝右衛門サイドに立った記事であった。「俺の一生の中に最も苦しかつた十年」と燁子との結婚生活での苦悩を語る伝右衛門のインタビューは、自分が受け取る前に新聞公開された憤りや屈辱感と、伊藤家の内情を詳細に語った生々しいものとなる。連載は3回目になって伊藤家からの中止要請が入り、4回で終了となった。


新聞での反響は、第一報では燁子の行動を止むを得ない、という同情する世論があったが、二報・三報と詳しい内容が伝わってくるにつれ、糾弾すべき行為とする割合が増えている。その行動には反対しても、結婚自体には同情する男性の意見があった一方、女性は燁子により厳しい批判を寄せた。


11月4日に時の首相である原敬暗殺事件が起きているが、その大事件の最中にも報道記事の勢いが衰える事はなく、白蓮事件の顛末が世間の関心を集めた。

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