リモート読書会は、川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』を取り上げた。
この本についてはすでに2005年に書評を書いている。
例えば写真は、今年11月28日付の西日本新聞夕刊の記事であるが、柔道の1984年五輪における山下・ラシュワン戦を振り返り、怪我をしていた山下の「右足は狙わないと決めていた」とするラシュワンの言葉を載せ、「その高潔な精神は世界で評価され、国際フェアプレー賞を受賞した」とする。1面のほとんどを使って、相手の弱点を狙わないことを「フェアプレー」として称揚している。
川谷は、この山下・ラシュワン戦を冒頭に題材にとり、「相手の弱点を狙わないことはスポーツマンシップに悖るのか」という問いを立てている。
川谷は、勝敗の決着こそがスポーツの内在的目的であり、それがスポーツのエトスだとする。少なくとも対戦型競技では弱点を攻めることが勝利のためには絶対に必要なことであり、弱点を攻めてはいけないというのは、スポーツの外側から持ち込まれたものに過ぎないことを明らかにしていく。
したがってスポーツはもともと勝利至上主義たらざるをえず、敗北という害悪を相手に与えようとする意味で本質的に暴力的であるとする。
このようなスポーツは元来勝利至上主義という本質を持っていることを暴くことは、例えば「しんぶん赤旗」のような左派的良識からすれば、驚くべき結論になってしまう。同紙で川口智久(一橋大名誉教授・スポーツ社会論)は日大アメフトの規則違反などの問題を次のように説明する。
元来、スポーツにおける競争が、相手を尊重し、習得した技術の交流によって互いに人間としての豊かな高まり、人間らしい生き方を追求することが目的であることからすると、起こってはならない非合理な事態が生じたことになる。/そして、その根本的な原因は勝利至上主義の思想にあり、今回のケースはそれを当然視する指導者と受け入れざるを得ない競技者の主従関係が最大の問題であったといえよう。(川口/しんぶん赤旗2018年6月5日付、強調は引用者)
川谷のスポーツ観とは正反対のものが見て取れるだろう。ぼくも左翼としてはどちらかといえば、川口のような論理に日常接している。
しかし、川谷が緻密な論理によって、スポーツがどのような論理構造を持っているかを暴く様は実に見事で、その時ぼくは、この本をスポーツ論という以上に「哲学をすることの愉悦」として捉えのであるた。
当時の記事でぼくはこの本について次のように書いた。
ぼくらの思考はふつうは常識のなかにどっぷりと浸かっていて、それをいったんぬぐってみたとしても常識や日常道徳は思考にふかくこびりついているものである。いや、こびりついているなどという程度のものではなく、それから逃れることはなかなかできない。
ところが、哲学という装置を使い、物事を徹底的につきつめていったとき、バキバキバキバキと大きな音をたてて固まったドロのようにこびりついていた常識が割れて剥がれ落ちていくのがわかる。あるいは常識という小さくて排除できない害虫が哲学という薬品を噴霧して残らず殺すような残酷な徹底性がある。また、常識をあざやかに反転させる爽快感は、徹底した思考をしたものだけが得られる特典だ。
これは、哲学をするということの愉悦である。川谷のこの本を読んでいると、哲学をすることの楽しさが伝わってくる。
今もこの点がぼくにとっては本書評価の基本である。
川谷は、哲学の議論に、常識、道徳、民主主義的多数感覚を持ち込もうとする企てを厳しく批判する。「本書を読み進めるにあたって、倫理学/哲学の素養は特に必要ない」(まえがき)のである。
また哲学上の碩学の言葉を借りて議論する態度についても厳しく批判する。
ボクシングが暴力的かどうかを、J.S.ミルを味方につけて論じようとする学者の態度を「おもしろくない」と川谷は言う。
それでは、どうすればおもしろくなるでしょうか。簡単なことです。事柄そのもの(Sacheselbst)を、もっと突き詰めて考えればよいのです。「事柄そのもの」とはこの場合、ボクシングです。先ほどの論争は、ボクシングの周辺をぐるぐる回っているだけで、ボクシングそのものについて何も明らかにしていない。だから、つまらないのです。(川谷p.111-112)
読書会では、参加者の一人が、川谷の議論に反発した。
その参加者Aは、ソチ・オリンピックでのスケートの浅田真央の態度を例に出していた。
同冬季五輪スケート1日目のショートプログラムでボロボロだった浅田を見て、Aは「もう浅田は2日目(フリープログラム)を棄権するのではないか」と思ったという。もはや優勝はおろか、何らかのメダルさえ絶望的であり、常人から見ればこれ以上出ることは、自分の経歴やプライドを傷つけるものでしかない状況だったからである。しかし、それでも出場し、しかも見事な演技を披露した浅田を見て、見ていた自分(A)も涙を流して深く感動したし、浅田自身も泣いていた。
「勝利だけがスポーツの目的であればあんな光景はあり得なかったし、あの感動もなかったはずだ」
というのがAの言い分である。
川谷はこうした議論を予想しており、競技概念を超えた絶対的な強さの追求を競技者がやることがあるという指摘をする。例えば試合の勝敗などどうでもよくなり、時速250kmのボールを投げられるかどうかだけを追求する野球選手のようなものだ。別の箇所では、「求道者」としての広島カープの前田智徳をあげ、彼が「一番の思い出の打球」としてあげたのが「ファウル」であったことを紹介する。チームの勝敗も、個人のタイトルすらもなく、自分の惚れた打球を、試合にとっては無意味な「ファウル」に求めるのであるから、その瞬間、確かに前田は勝利至上主義を超えているのである。
小山ゆう『スプリンター』のラストも、読みようによっては競技概念を超え、記録さえも超えた、何か「神の領域」に入ったかのように思わせる展開になっている。
しかし、川谷の本を読んだ後では、それはやはり競技による勝敗をめざすというスポーツのエトスの上に成り立つ、あくまで「派生的」なものである。
ごく稀に生まれる「勝利を超越した求道」ではなく、勝負事ゆえの常軌を逸した熱さ、そして勝者と敗者のコントラスト、敗者に敗北を与えるという暴力こそがスポーツの本質であるという川谷の主張でこそ、世の中に蔓延するスポーツ界における暴力・体罰・支配をよく説明できるし、「企業社会では体育会系が重宝される」という神話がはびこるのも、スポーツの本質に根ざすものであると考えれば理解しやすい。
これに対して「いや、それは特殊日本的な現象だろ?」という批判がある。
例えばサンドラ・ヘフェリン『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)では
私が育ったドイツではスポーツは体罰と全く結びつきません。(同書p.64)
という。ドイツのスポーツ事情が実際にどうなのかは別として、問題はスポーツがいつでもどこでも暴力的であるということではなく、スポーツが本質的暴力性を抱えた危険なものであるという自覚でスポーツと付き合うのか、ということなのだ。
スポーツは本質的に勝負事(agon)であり、人間は勝負事になると簡単に常軌を逸します。……勝負事は私たちに大いなる娯楽を提供してくれますが、同時に扱い方を誤ると大変危険な代物でもあります。時にその暴力的本性をむき出しにするスポーツと、穏健で最大公約数的な常識道徳との間には、常に緊張関係が存在します。……ですから、子供の教育の場面にスポーツを導入するのは、本来よほど慎重な配慮が求められるべきでしょう。そのことも含めて私たちにできることは、スポーツのこの本質的な危険性を熟知し、それといかにうまく付き合うか知恵をしぼることなのではないでしょうか。(川谷p.172-173)
川谷の本でもしばしば引用される永井洋一は、『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』の中で次のように書いている。
N・エリアスとE・ダニングは『スポーツと文明化』の中で、近代スポーツは前近代社会にあった非科学性、暴力性からの脱却という大命題のもとに成立した、としています。近代スポーツが成立する一九世紀以前のイギリスで行われていたスポーツ的な活動は、怪我人、時には死者さえも出る粗暴なイベントであったフットボール(サッカー)、あるいは素手で相手をとことん打ちのめすまで闘われたボクシング、さらには動物の殺し合いの行方を楽しむ賭けなど、血なまぐささを残す野蛮なものでした。そうした前近代的な要素を改め、スポーツを近代社会を具現する合理的、科学的なものとして整備するために、統括団体の組織、統一ルールの作成、公式大会の開催などが推進されました。その結果、現在、私たちが親しんでいる近代スポーツの形態が整ったのです。その意味では、近代スポーツにはもともと暴力性の抑止が使命づけられているのです。
私たちがスポーツに潜む暴力性、あるいは指導者、選手、愛好者に潜む支配性、攻撃性をいかに巧みにコントロールするかという部分に、エリアスらの言う「文明化」の程度が示されているといえるかもしれません。(永井洋一『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』朝日新聞出版、KindleNo.290-300)
つまり、もともと暴力的本質を持っているスポーツの、その暴力性を自覚して抑制とコントロールをすることこそが近代スポーツの使命であるのだから、その自覚と管理に成功している文化と成功していない文化がある、ということになるだろう。
これは「スポーツの本来の性格から逸脱した勝利至上主義」という把握とは正反対のものである。危険なものであるという厳しい覚悟に立ってスポーツと付き合うことが求められているのである。