小説・脚本界の大ベテラン某氏の「天使と悪魔」(わざと題名を変えてある)を読んで、「小説」のうまさに感心したのだが、残念なことに、この作品は「推理小説」で、推理小説というのは、どんなに優れた小説でも「トリック」部分がダメだと「推理小説としては」評価はほぼゼロになるのである。
まあ、読んでいる間は面白かったから「推理小説」ではなく「小説」として評価すればいいだけで、トリックのダメダメな推理小説はドイルだろうがクイーンだろうがカーだろうが・ヴァン・ダインだろうがたくさん書いている。で、それらのトリックが失敗するのは、だいたいにおいて「物理トリック」の場合である。これが「心理トリック」や「叙述トリック」だと成功することが多い。物理トリックだと、それこそ、「そりゃあ、物理的に無理だろ」という感想になるか、「成功する可能性のあるトリックだが、失敗する可能性のほうが大きく、そもそもそのトリックを使う意味がない」ということが多い。
ちなみに、「天使と悪魔」のトリックの場合だと、欠点は「そのトリックで人は殺せないだろう」というものである。少し間をあけて、そのトリックと、それがなぜダメかを説明する。
さて、それがどういうトリックかというと、子供が遊びに使うパチンコを木に取り付けて、ガラスペンを弾丸代わりにして発射して人を殺す(あるいは大怪我をさせる)、というものである。
なぜ、ダメか。
1:子供のパチンコでは何を発射しようと殺傷力はない。刺突武器を発射して、それが人体を刺す力は不十分で、刺殺の可能性は非常に少ない。
2:ガラスペンは、刺突武器にはならない。眼球以外にはほとんど刺さらないはずである。このペンの先端は(鋭いとすぐに欠けるため)やや丸みを帯びており、たとえば千枚通しのような鋭さがない。衣服の上からだと怪我すらしないだろう。*なぜガラスペンを使ったかというと、水に入れると凶器が発見されにくいという、昔からよくある「透明武器」「消失武器」トリックである。
ただ、戦時を舞台とした推理小説というのは素晴らしい着眼であり、この作品の背景描写、つまり戦時中の日本社会の描写は実体験者らしく素晴らしく、人物描写も素晴らしいので、これが「推理小説」でさえなければ、良かったのに、と残念である。推理小悦作家は、なぜか自分の作品のトリックの非現実性に不感症であるようだ。
まあ、読んでいる間は面白かったから「推理小説」ではなく「小説」として評価すればいいだけで、トリックのダメダメな推理小説はドイルだろうがクイーンだろうがカーだろうが・ヴァン・ダインだろうがたくさん書いている。で、それらのトリックが失敗するのは、だいたいにおいて「物理トリック」の場合である。これが「心理トリック」や「叙述トリック」だと成功することが多い。物理トリックだと、それこそ、「そりゃあ、物理的に無理だろ」という感想になるか、「成功する可能性のあるトリックだが、失敗する可能性のほうが大きく、そもそもそのトリックを使う意味がない」ということが多い。
ちなみに、「天使と悪魔」のトリックの場合だと、欠点は「そのトリックで人は殺せないだろう」というものである。少し間をあけて、そのトリックと、それがなぜダメかを説明する。
さて、それがどういうトリックかというと、子供が遊びに使うパチンコを木に取り付けて、ガラスペンを弾丸代わりにして発射して人を殺す(あるいは大怪我をさせる)、というものである。
なぜ、ダメか。
1:子供のパチンコでは何を発射しようと殺傷力はない。刺突武器を発射して、それが人体を刺す力は不十分で、刺殺の可能性は非常に少ない。
2:ガラスペンは、刺突武器にはならない。眼球以外にはほとんど刺さらないはずである。このペンの先端は(鋭いとすぐに欠けるため)やや丸みを帯びており、たとえば千枚通しのような鋭さがない。衣服の上からだと怪我すらしないだろう。*なぜガラスペンを使ったかというと、水に入れると凶器が発見されにくいという、昔からよくある「透明武器」「消失武器」トリックである。
ただ、戦時を舞台とした推理小説というのは素晴らしい着眼であり、この作品の背景描写、つまり戦時中の日本社会の描写は実体験者らしく素晴らしく、人物描写も素晴らしいので、これが「推理小説」でさえなければ、良かったのに、と残念である。推理小悦作家は、なぜか自分の作品のトリックの非現実性に不感症であるようだ。
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