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新興宗教と伝統宗教

私自身の別ブログに書いた記事の一部で、引用記事はウィキペディアによる。一番馬鹿馬鹿しい部分を転載した。ブッダは悟りに至ることで輪廻を解脱したのだから、その「生まれ変わり(笑)」が存在するはずがない。つまり、幸福の科学の信者の知的レベルはそういうレベルだということである。、
私は伝統宗教を全肯定する者ではないが、その教えの大部分は社会道徳(広義の「通俗道徳」と言ってもいい)の基盤となり、社会の安定と幸福にも寄与してきたと思っている。ただし、私は仏教などは「哲学」と位置づけている。そのぶん害悪は少ない。宗教は、その宗教の存立基盤の真実性が「論証(反証)不可能」であることが本質なだけに、より厄介である。
「不合理ゆえに我信ず」という言葉こそ、宗教の本質である。合理的なもの、証明されたものは信ずる信じないの問題ではなくなる。ただの「事実」になるのであるから。つまり、「2+2は4」は宗教の問題ではない。しかし、どこかの詐欺師が「自分はキリストの生まれ変わりだ」と言うと、それを信じる人がかなり出て来る。それは、論証(反証)が不可能だからだ。キリストだって、悪魔が「この石ころをパンに変えてみろ」、と言うと「人はパンのみに生くる者にあらず」と詐欺師的答弁をしている。
だが、宗教を全否定できないのは、たとえばキリスト教社会がキリスト教を廃棄した時、そこに残ったのは「神の処罰はない」つまり、「どのような悪も可能である」という無道徳社会であったことだ。そこが、日本のように、社会道徳の基盤に宗教が必ずしも必須でなかった社会との違いだ。
だが、昔は(庶民が自分たちの貧しさへ不満から自分を精神的に守る方便だったかもしれないが)物欲の強さを恥じる社会だったことが日本社会を清潔に保っていたが、物欲完全肯定社会になったこれからはどうなるか。広義の「通俗道徳」が無くなったら、無道徳社会になる、と私は思っている。(いちいち「広義の通俗道徳」と書くのは、道徳とは基本的に通俗なもの、つまり一般社会に広まっているものだからだ。通俗でない、つまり一般人のものでない「高尚な」道徳など「趣味」の類である。狭義の道徳なら、殺人者にもある。テロリストは道徳の塊だろう。我が身を犠牲にして世界を救う意思の体現者なのだから。)


(以下引用)

「幸福の科学」については、詐欺的新興宗教だとしか思っていないが、土台が仏教にあるらしく、自分をブッダの生まれかわりだとか宇宙の至高神だとか称するトンデモな部分はあるが、教義自体はまともな部分が多いようだ。以下、ウィキペディアから一部転載。
しかし、信者たちは、こんな品の無い顔をしたブッダや至高神がいると、よく信じたものである。

(以下引用)

教義

大川隆法は、地球神「エル・カンターレ」として、古今東西の宗教や思想を統合し、新しい心の教えを広めることでユートピアを創り、人々を救済する救世主として自己の存在を位置づけた[48]。教義には、仏教キリスト教スピリチュアリズム神智学、光明思想などとの類似もあるが、この3千年間の地球上の文明での偉人たちを霊天上界世界から地球神として地上に遣わし人類を導いてきていたとしている[49]


宗教法人「幸福の科学」では、大川隆法が多数の法話で説いた「仏法真理」を教義とし、この仏法真理の「探究・学習・伝道」を通じての「この世とあの世を貫く幸福」と地上ユートピアの建設を目指しているとする[5]

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