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差別と区別を区別することの必要性

少し前に書いた、「美は差別が原則(土台)である」ということを言った人はこれまで私は見たことが無いのだが、それは「差別があるのが当たり前」というのが世界の大原則であったからだろう。だから、美の基本は差別にある、という当たり前の事実が水面上に出てこなかったわけだ。

これは「ミスコン」などが批判される前に、美そのものが差別が前提にある、という視点で論じるべきものだろう。とすれば、最初に結論を言えば、「差別が存在しない社会では美も存在しない」。つまり、みんな平等に美しいか、みんな平等に醜い社会になる、ということだ。まあ、美醜の観念が無くなる、と言うのが正確だろう。ということは、芸術も存在しなくなる、ということだ。あるいは善悪も存在しなくなるかもしれない。善悪も善と悪の差別に基づくからである。
いや、それは極論で、どんな社会でも善悪の「区別」が無いことはありえないだろう、と言うかもしれないが、それは「区別」があるだけで「差別」ではない。

ちなみに、差別と区別の違いを簡単に言えば、「差別は上下に分けること」で「区別は横に並べて分けること」と思えばいい。つまり、区別自体には「価値の優劣の判断」は無いわけだ。
とすれば、男女差別は許されないが、男女の区別はあるべきだ、というのは至極当たり前の論になるだろう。つまり、「自分は自分を女性だと自己認識している」と主張する男が、女子運動の大会に出たり、女性更衣室や女子浴場に入ることはおかしい、と見るのが当然なのだが、今はそういうキチガイ行為がLGBTとか何とかいう名目で行われたりするわけである。
この話は長くなりそうなので、いったんここで切る。




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