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フィクションとしてのヤンキー

広島カープのバリントンが「広島はヤンキースよりも強い」と言ったということで、某サイトにスレッドが立っていたが、次のコメントに思わず笑ってしまった。なるほどねえ。何しろ、載ったのが東スポだし。
それで思い出したのが、前々からヤンキーについて何か書こうと思っていたことである。もちろん、暇人の雑談だ。
というのは、最近ネットテレビでずっと『スラムダンク』のアニメを見ているのだが、これはヤンキー漫画だよなあ、と内心思っていたからだ。原作の漫画も読んだはずだが、そっちの記憶はまったく無いので、アニメと原作の相違は知らない。主人公の青田赤道、じゃない、桜木花道は、髪の毛を赤く染めたまったくのヤンキーで、その仲間も皆ヤンキーだから、『スラムダンク』はヤンキー漫画だと言って不思議は無いと思うのだが、この漫画をそう見ている人はあまりいないようで、スポーツ漫画だとカテゴライズされている気がする。いや、もちろんスポーツ漫画なんだが、ヤンキー漫画でもあるのではないか、ということだ。
で、ヤンキーとは何か、ということを考えたのだが、現実のヤンキーは、昔なら不良と呼ばれたただの品性下劣なクズどもだとは思うが、漫画やアニメのヤンキーは、その理想化、あるいはかなりの美化が行われているのではないか。
私の定義では、その理想化されたヤンキーとはこんなものだ。

1)学業では劣等生(あるいは勉強には興味無し。先生や大人の受けは悪い)
2)でも、根は善良。(ここにかなりの美化がある。)
3)喧嘩が強く、筋の通らないことが大嫌い。(ここもかなり美化。ヤクザの美化と同じ。)
4)無意味な規則を頭から馬鹿にして、従わない。(これはある意味では若者の理想像。社会的権力に従わないだけの力を持っている、ということだから。だが、実際にはヤクザなどにはぺこぺこしているのが現実だろう。)
5)仲間や恋人のためには命を懸けて戦う。(これもかなり美化)

つまり、漫画などでのヤンキーは、規律に従うことで自分の居場所を確保せざるを得ない、無力な若者たちにとってはヒーローたりうる存在である、ということだ。
まあ、現実にはそんなヤンキーなどいないだろう、と私は思うのだが、フィクションとしてのヤンキーとは、実は「任侠の徒」の一変形なのである。どちらも、社会の爪弾き者でありながら、純情と義侠心を心の中に秘め、愛する人々のために悪と戦って死んでいく。
そういう「侠」の一字が社会から失われた現代だから、ヤンキー漫画の需要も結構あるのではないだろうか。ということは、「任侠漫画」や「仁侠映画」の需要も本当はある、ということである。
アニメの『スラムダンク』については書けることはまだあるが、長くなったのでここまでとする。



30: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2014/05/19(月) 11:49:55.06 ID:k1EAP0s+.net
バリ「カープは若いヤンキーたちがいて強い」 
東スポ「カープはヤンキースよりも強い」





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