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「ミカド」の作者はギルバート・オサリバンではない

私の別ブログから転載。

ところで、「ヤムヤム」は「美味い美味い」ではなかったか?

(以下引用)

ギルバートとサリバンのオペレッタ「ミカド」の粗筋が下のものだが、これを優れたナンセンスユーモア感覚のある作家に肉付けしてもらったら面白いものになりそうだ。(帝が、「近頃は死刑執行が少ない」と怒るあたり、面白い。)昔なら筒井康隆がベストだろうが、今は誰がいるか。女性漫画家には案外ナンセンスユーモアのセンスのいい人が多いのだが、現在の小説家や劇作家ならば、三谷幸喜とか宮藤官九郎あたりか。
「ミカド」が欧米で長い人気があるのには、何か大衆の心に訴えるものがこの作品にはあるからだろう。いわば、現代版「物語原型」的なものがあると考えれば、これをリメイクするのは、かなり成功する確率が高いのではないか。



(以下、引用)

ストーリー[編集]

日本の都ティティプーの死刑執行大臣ココの屋敷に一人の見知らぬ旅芸人がやってきた。彼の名はナンキ・プー。身分を隠しているが、実は日本の若くハンサムな皇太子である。彼は父の帝(みかど)が決めた年増で醜女のカティーシャとの結婚から逃れるため、家出して流しの旅芸人に身をやつしていたのだった。そこで皇太子は美しい娘ヤムヤムと出会い恋に落ちる。しかし、ヤムヤムは彼女の後見人であるココと婚約していることを知り、大いに落胆する。ココはもともと服の仕立て屋で身分が低かったのだが、貴族のピシュ・タッシュへの賄賂が功を奏し死刑執行大臣に昇進したばかりであった。




ここで事件が起きる。ココとヤムヤムが「いちゃつきの罪」で死刑を宣告されてしまう。しかしココは自身が死刑執行大臣であるため死刑執行は不可能である。この法律は代わりに死刑になる者が見つかれば助かるというものであった。そんな折、皇太子ナンキ・プーはあの美しいヤムヤムが死刑になると聞き、絶望のあまり自殺を考える。それを聞いたココは、しめたとばかりにナンキ・プーに死刑の代役を依頼する。ナンキ・プーが死刑の代役を引き受ければヤムヤムは命が助かるが、それでは同時にココも助かってしまう。そうなるとナンキ・プーとしては、自分の死後に二人が結婚するのが面白くない。そこでナンキ・プーはココに条件を一つ出す。「1ヶ月間はヤムヤムを自分の花嫁にすること」という条件である。ココは自分が助かるので大喜びで受諾する。




悲劇のヒロインとなったヤムヤムだが気を取り直し、ナンキ・プーとの1ヶ月間の新婚生活を徹底的に楽しむことにする。しかしその矢先、帝の定めた法律では「夫が死刑になった場合は妻は生きたまま埋葬される」という条項があることを知る。それだけは御免こうむりたいヤムヤムはナンキ・プーとの結婚に躊躇する。




一方、帝は近ごろ死刑執行が少ないと怒り、早く死刑を執行するようココ大臣に命じる。そこにナンキ・プーの許婚であるカティーシャが彼を追ってやってくる。カティーシャは死刑名簿の中にナンキ・プーの名前を見つけたので止めに入る。しかしヤムヤムとの色恋沙汰を知り憤慨したカティーシャは、今度は逆にナンキ・プーを死刑にしようと画策するが、ティティプーの民衆から追い出されてしまう。




プーバーとココは死刑をするのがいやなので、「既にナンキ・プーを死刑に処した」と嘘をつくことにした。そこへ帝がティティプーの街を来訪。ココ、プーバー、ピッティ・シングの三人は死刑執行の話をでっちあげて帝を納得させる。カティーシャから皇太子が街に来ていると聞いていた帝は皆に尋ねる。その皇太子の名がナンキ・プーであることを初めて知り、民衆は驚く。皇太子が死刑になったと聞いた帝は怒り心頭に発し、ティティプー市民全員を死刑にすると宣告する。街はパニックと化す。




ココはナンキ・プーに1ヶ月後に死ぬのはやめてほしいと頼む。しかしナンキ・プーはカティーシャと結婚するのがいやなので、生きることを躊躇する。するとピッティ・シングがココとカティーシャとの結婚を提案する。ココ以外が全員賛成する。しかしその後ココもカティーシャを好きになる。ココは帝にナンキ・プーの生存を報告し、自分とカティーシャの結婚のお伺いを立てて許可される。めでたし、めでたしのハッピーエンディング。


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英語の謎語と黒人語

英語では、誤字や造語の意味が判別しにくい例として、「鏡の国のアリス」の中の詩「ジャバウォッキー」の第一連を転載する。この詩が理解できた人、あるいは日本語に訳できる人は凄い能力である。


Twas brillig ,and the slithy toves
  Did gyre and gimble in the wabe:
All mimsy were the borogoves,
  And the mome raths outgrabe.

まあ、意図的に謎化を目的とした詩だが、英語民族にはある程度の雰囲気や状況は漠然と伝わるとしても、他国人にはほとんど無理だろう。なぜ「漠然と伝わる」かと言うと、文章の骨格を作る単語は普通だからだ。その部分以外の「謎語」だけ赤字にしてみる。(辞書は引いていないので、私が謎語扱いしている語が普通の単語である可能性もあるが。)




Twas brillig ,and the slithy toves
  Did gyre and gimble in the wabe:
All mimsy were the borogoves,
  And the mome raths outgrabe.

つまり、謎語のほとんどは名詞であり、二語を圧縮した造語で、これを後で出てくるハンプティダンプティは「鞄語」と命名している。
なお、冒頭の単語がたぶん「It was」の鞄語だろうとは推測できるが、このような短縮形は英語では普通なので、鞄語と言うほどでもない。(形容詞も「これは形容詞のようだ」と推定できるようだ。slithy やmimsyは形容詞だろう。)
黒人語にもTwasのような非正規短縮形があるようで、ラングストン・ヒューズの短編小説の題名に、こういうのがある。

「Tain't so」

これを訳者は「そんなこたないす」と訳しているので、最初の単語は「That ain't 」の短縮形で、ain'tはisn't(is not)の黒人的表現だろうと推測できる。(「そんなこたないす」は、図書館からたまたま借りていた本にあったので、私が記憶から引き出してきたものではない。当たり前だ。私はパソコンではない。)

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或るラブストーリー

細部のリアリティから見て、実話だと思われる。


(以下藤永茂博士のブログ「私の闇の奥」から転載)

愛について想うことども(4)

2025-02-26 19:54:33 | 日記
 誠に美しいお話を伺いましたので、ご当人の承諾を得て、私のブログの記事として、掲載させて頂きます。
***************
私は5歳まで高知の漁村で過ごしました。2歳になる前に母が37歳で亡くなりました。父は半狂乱になりました。
母をとても好きだった(と周りの人たちから後で聞きました)上、その前年に7つだった息子(私の兄)を亡くしていたので無理もない事でした。
父は母を火葬にすることをどうしても許さず、母が好きだった、鮮やかな赤い花模様の化繊のスカートを棺に入れ、土葬にしました。
 
それから8年して父が死に、それからまた10年して親代わりだった祖母も死にました。母の死後、一家で転々として、私だけ一人生き残った時、私は関東に住んでいました。
高知は遠く、たまにしか家族の墓参りに行けません。それで、自分の近くにみんなを呼び寄せることにしました。お墓を移すためには、高知にいって、お骨を掘り起こして、火葬し直して持ってくる必要がありました。
 暑い夏の日に、丘の斜面の墓所に小柄な、日焼けした中年男性が2人、スコップや箒をもってやってきました。片方の男性の手首に数珠がかかっていました。地元にいて、いろいろ手配をしてくれた親戚のおばさんが「○○から来てもらったから」と言いました。○○は近くの村の名前です。「墓に関わる仕事は、○○の人がやると決まっちゅうきに」と言いながらおばさんはそっと、数字の四を表す手の形をしてみせました。私はその意味を知っていました。いわゆる「部落」の人を表す表現です。
 
男性たちは首筋を汗で光らせながら、墓石をどかし、骨壺を取り出していきました。最後に残ったのは母の墓です。骨壺ではなく、棺を取り出す作業になります。
真上からの照り付ける太陽の下、男性たちはスコップで黙々と土を掘ります。1メートルほどの深さまで行ったところで、棺が現れました。さらに深広く掘ると、数珠をした男性が穴の中に入りました。
「ではお棺をあけますよ」と言われたとき、私は怖かったです。亡くなった時はあまりに幼かったので、母の記憶がありませんでした。棺を開ければ、私は母と初対面になります。母には違いありませんが、20年近く土の下で眠っていた骸です。いったいどんな姿なのだろうという恐怖がありました。でも、とにかく「はい」と言いました。
地面の湿気を吸って重そうな、棺のふたがゆっくり空いたとき、そこに現れたのは、鮮やかな赤い花模様のスカートをまとった人骨でした。照り付ける太陽の光も相まってか、私は眼下の光景が夢か現実かわからなくなり、一瞬息が止まって、そのまま棺に吸い込まれそうになりました。その時、棺の傍らにいた男性が私を見上げて、良く通る声で言いました。「きれいなお母さんやのう!」私はふらつく足を踏み留めました。
「このきれいなスカートがよう似合うちょる。化繊でよかった。ちっとも傷んじょらん。昨日買うてきたみたいに。わしらこういう仕事をしゆうから、ようわかる。お骨になっても美人は美人や。あんたのお母さん、これがよう似合う人やったはずよ」そう言って男性は、数珠をはめた右手に左手を合わせ、短いお経を唱えました。
その後の顛末はよく覚えていません。きっとその方たちが母のも含めすべてのお骨をもう一度火葬するために、然るべき場所へもっていってくれたのでしょう。ただ、私が初めて会う母を「きれいだ」と言ってくれる人がいたことで、私たちの対面が怖いものでも異様なものでもなく、どことなく晴れがましく、しみじみとしたものになったという、感謝と感動だけは残っています。周囲のコミュニティからは、特殊な手のサインとともに眉を顰められる人たち、「穢れ」にまつわる仕事をするあの男性たちが、二十歳を過ぎたばかりの私の気持ちを優しく包んでくれたのを忘れることができません。
*****************
藤永茂(2025年2月26日)

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「花」はどこへ行った

タイトルの「花」は、ここでは「フラワーチルドレン」を指す。
つまり、かつてのアメリカの反戦平和運動を担ったフラワーチルドレンが生きていたら、今のアメリカ社会の上層部の中にもたくさんいるだろうに、アメリカで反戦運動が起こらないのはなぜか、ということだ。
まあ、私はその当時中学から高校生くらいだったが、「馬鹿な運動だ」としか思っていなかったので、今さら彼らを批判する資格はないが、先ほどの早朝散歩の中で、なぜか頭の中に「花のサンフランシスコ」の歌が流れていたので、このムーブメントははたして無意味だったのかどうか、少し反省的に考えたわけだ。
つまり、中学生、あるいは高校生は生意気だから、大人や年上の人間に批判的なのがたぶん普通だと思う。しかし、それは思考や知識が未熟であるために、判断が偏っているだけだ、ということが多いはずだ。特に日本の場合は、敗戦後の大人たちは、「自分たちが日本をこんなひどい状況にした」という後悔と反省から、(一部の暴力的人間や頑固者以外)青年や子供を厳しくしつけることができなくなり、子供を「自由に」育てる傾向があったのではないか。その結果が、かつての「封建的社会の道徳」も消滅し、今のアモラル社会が出来上がった、というわけだ。
「理想主義者やお利巧さん」への軽蔑は、子供に多いと思う。子供は案外大人より現実的なのである。だが理想主義こそが社会を善導するのは言うまでもないだろう。

ちなみに、私は「花のサンフランシスコ」の歌詞の一部を頭の中で再生し、その歌詞の一部の意味が初めて理解できた(気がする)。馬鹿な歌だと思っていたが、それほど馬鹿げてもいないようだ。うろ覚えで書くと、こんな歌詞だった気がする。

for those who come to San Fransisco
gentle people will be a love in there

「サンフランシスコに来る人々にとって、
優しい人たちは、そこでひとつの愛になるだろう」

gentleは「紳士的、穏やか」などの訳が普通だと思うが、「優しい」にしておいた。人間たちが愛の塊になる、というのが、背中がこそばゆい感じだが、理想主義的ではある。
案外、軍人や兵士やトランプなどの精神の奥底に「フラワーチャイルド」がいたりして。

ちなみに、当時のこのムーブメントの精神を表す言葉が「ラブ&ピース」だったが、某アニメの中に出てくる「マジカル学園ラブアンドビースト」というゲームの「ラブ&ビースト」は「ラブ&ピース」のもじりだろうと私は推測している。つまり、我々の潜在意識の中にはいろいろな断片的記憶があるという話である。


(以下引用)


フラワーチャイルドもしくはフラワーチルドレンFlower child or Flower Children)は、1960年代から1970年代にかけてムーブメントを起こしたアメリカヒッピーのことで、ベトナム戦争を背景に、平和の象徴として花で身体を飾っていたためにこう呼ばれた。『武器ではなく、花を』は、彼らの有名なスローガンである。

概要

[編集]

1967年サマー・オブ・ラブで、特にサンフランシスコおよび近郊に集まったヒッピーの同義語として浸透した。フラワーチルドレンは、彼らが象徴とするで、自分の身を着飾ったり花模様の服をきて、人々にも花を配ったことに由来する。メディアは、1960年代後半から1970年代にかけて、どんな種類のヒッピーでも広義でフラワーチルドレンと呼んだ。


詩人アレン・ギンズバーグが提唱した平和的抗議活動により、消極的抵抗と非暴力イデオロギーを用いて、ベトナム戦争反対の反戦運動などフラワーパワーと呼ばれた政治活動も行った。


現在では、自然を愛した平和主義者たちの総称。

背景

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なぜ「象のアメリカ」が「蟻のベトナム」に勝てないのか、アメリカ国民の自国政府への不信感がつのった。ベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカ国内では反戦運動が高まりをみせ、社会体制そのものを動揺させた。徴兵カードを焼き、鎮圧に出動した兵士の持つ銃口に花をさす若者は、フラワーチルドレンとよばれた[1]




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技巧・演技としての「英米人の怒り」と日本人

私の別ブログに書いた記事で、前にも転載したかもしれないが、わりと大事なことだと思うので、ここにも載せておく。日本人は「戦略としての怒りの表出」が苦手、いや、その戦略やそれへの対応を知らないと思う。
なお、こうした英米人の「怒り」について、小泉八雲の「日本人の笑い」の中に面白いエピソードがある。つまり、「怒りを示さない日本人を英米人が軽侮した行動を取った結果起こった、ある出来事」である。いずれ転載するかもしれない。

(以下自己引用)

まあ、無学者の与太話だが、みなさんは「I'm sorry」を「ごめんなさい、すみません」の意味だと思っている人が大半なのではないか。
実はこれは謝罪でも何でもないのである。英米人は基本的に謝罪しない。いわゆる「謝ったら負け」というのがその本性である。だからディベート(議論術)が発達する。相手に言論で勝つのがディベートであり、当然、謝ることは自分の間違いを認める行為で、謝ったら負けである。

では、「アイムソーリー」の適切な訳語は何かというと、「遺憾に思う、残念だ」であり、そこには謝罪も無く、自分の非を認めることもない。単に「状況的に、あなたがそういう状況になったのは気の毒だが、私の責任ではない」というだけのことだ。

sorryはおそらくsorrow(悲しむ、嘆く、気の毒に思う)からの派生語であり、そこには「責任問題」は存在しないのである。むしろ、「気の毒だ」という、劣勢にある者を高みから見下ろす姿勢なのである。

まあ、これが英米人の心性であり、だからこそ世界を支配したわけだ。そして英語が世界言語になることで、世界中が英米的思考形態になっていく。つまり、支配と被支配の世界になるわけだ。

ちなみに、下の引用は今見たばかりのtogetterのひとつである。つまり、英米人にはすべては「交渉術」。

ーーーーーーーーーーーーーー

ワイは仕事柄「怒ってる」米国人の相手をたくさんして来た。その経験から言うと、米国人はビジネスの場でも非常によく怒るのだけど無闇に怒っているのではなく、良くも悪くも計算して怒っている。大学に怒り方の講座でもあるんじゃないかと思うくらい、相手をコントロールするために怒る米国人は多い

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東京都庁とはどのような場所か

「壺斎閑話」記事の一節で、東京都庁の内部がどういうものか、よく分かる。昔は「伏魔殿」と言われていたが、現在も似たりよったりのようだ。どのような組織も似たりよったりであるのが当然で、それを私は「組織悪」と言っている。「悪」というのも大袈裟かもしれない。
まあ、都の「外郭団体」が、定年公務員の有給暇つぶし場所であることも良く分かるし、壺斎氏自身、それに罪の意識は無い(無かった)ようだ。つまり、公務員はお武家様か。

(以下引用)言うまでもないが、自分自身の過去を語る以上は自己美化や韜晦があるのは当たり前であるので、そういう姿勢で読むべきだろう。


都庁という組織はこれといった人事政策をもっていたわけではない。かなり行き当たりばったりなところがあった。特徴を強いてあげれば減点法がまかりとおっていたということくらいだろう。何らかの不祥事を犯した人間は、減点法の基準に従って減点される。その結果は以後の人事に反映される。不祥事の中には、議会との間に深刻なトラブルを起こしたとか、女性との間で不適切な行為があったとかいったものがある。そういう不祥事を起こすと、まず出世コースから外されるのである。病気休職はかならずしも不祥事とは言えぬが、しかし人事上の効果としては同じように扱われた。小生は長期の病気休養がもとで出世コースから外された人間を多数見てきたから、それとの対比で、自分も同じような憂き目を見るだろうということはわかった。じっさいその通りになった。復職後、小生は自分が通常コースから外され、いわゆる飼い殺しの境遇に陥ったと思い知らされたのである。
そんなわけで、再開発事務所副所長になって以来、六十歳で定年退職するまでの十年間、小生はどうでもいいようなポストをたらいまわしされた。それも忘れたころにそろそろ異動する頃合いだと言われて異動させられるのである。とはいえ小生は、仕事には手を抜かなかった。亀戸大島小松川地区は、そろそろ完了が視野に入ってきた時期に差し掛かっており、事業を終了させるためには、抵抗する者に対して収用の網をかけるとか、債務の返済を怠っている者に対して強制徴収をかけるといった措置を断固としてとった。そうした小生の姿勢を批判する者もあった。もっとやわらかなやり方はないのかね、と言うのである。そういう奴に限って、仕事の進行管理にはうるさかった。仕事はきちんとやれといいながら手荒なことはやるなと平気で言うそんな奴を見て小生は、猿山の猿みたいな奴らだと思った。上意を受け仕事の進行管理には厳しいが、仕事のやり方は微温的たれと言うのであるから、或る意味猿山の猿以上に猿的である。
建設局で六年過ごしたあと、最後の四年間を交通局で過ごした。一応交通局参事という処遇だが、実際には課長級の職である。南千住自動車営業所の所長という扱いになった。部長級の者が課長級の職を兼務するという位置づけだが、実際には懲罰人事と言ってよかった。なぜ小生が懲罰人事を受けねばならぬのか、その秘密はなんとなくわかった。交通局の幹部の中には、以前仕事のことで小生に意趣をもったものがあって、その腹いせをしてやろうという魂胆が見えてきたのである。交通局というのは、じつに閉鎖的な組織で、しかも陰湿なところがある。そんなところで長い間暮らしていると、性格が曲がってしまうらしい。交通局はいわゆる現業系の組織である。清掃局もそうだったが、現業系の局はしょっちゅう不祥事が起こる。交通局の場合は、料金の着服とか飲酒運転といったものが多かった。そうした不祥事は、幹部にとっては自分自身の命取りにつながるので、なんとか責任を逃れようとする。一番手っ取り早いのは、現場に責任をなすりつけて、自分らは責任逃れに集中することである。そういう幹部が多かった。そんな連中を見ると小生は、野良犬みたいな奴らだと思ったものである。
こんな具合で、小生の役人生活は、後半に至って不本意なものになったとはいえ、全体としてこれを見れば、なかなか変化に富み、屈託することのなかったものだったと総括できるのではないか。その意味で小生は、自分の役人人生に悔いはない。
定年退職した後二年ほど外郭団体に在職した。当時管理職は六十歳でやめることになっており、やめたあとは局から再雇用先を紹介されるというのが慣例になっていた。再就職先を世話するのは局の総務部長の仕事である。当時の総務部長は清掃局の後輩だった。その男に呼ばれて話をしたところ、やけに高圧的である。自分を上司として尊敬しろと言わんばかりなのである。小生はこの男におべっかを使ういわれはないから、自然な態度で接していたところ、それが気に食わぬようだった。それで小生に向かい、自分の再就職は自分で始末しろというような趣旨のことを言った。小生は、特にひるむ様子は見せず、淡々と接し続けた。この男は若い頃から裏表を感じさせるところがあり、相手によって態度を変えた。自分より弱いと思った者に対しては高圧的に振舞うのである。要領のいいところもあり、多摩地区のさる有力議員に取り入り、その議員の力で市長にさせてもらった。市長になると、持ち前の性格で好き勝手なことをやったようだ。そのうち、一女性職員から性的な暴行を受けたと訴えられた。当初はしらばくれていたが、形勢不利は避けられず、辞職に追い込まれた。
小生が外郭団体でついた仕事は、普通なら係長級の退職者がつくポストである。おそらく総務部長のいやがらせであろう。それについては、小生の仕事上の不始末が理由にされたらしい。その団体には労働組合の委員長をやった男がいて、その男がしきりに小生に同情してくれた。その不始末とは、労働組合の現職の書記長が不正に給与を受給しているというものであり、当時都の不正を暴くと豪語していたさる都議の追求するところであった。そんな問題は、基本的には労働組合と局幹部の間の問題なのであるが、それを書記長の職務上の上司たる小生が責任を擦り付けられたのである。そのいきさつを知っている元委員長は、小生を親方と呼びながら、親方には本当に申し訳ないと言うのであった。事情を知っている南千住営業所の管理係長も局の幹部の鼻をあかしてやりましょうよと言って憤慨していたが、小生は、余計なことはするなといって諫めたものである。ともあれ、交通局というのは、じつに魑魅魍魎な組織というべきものであった。
この外郭団体では例の豊饒たる熟女たちと仲良くなることができたし、また、仕事が全くないので、毎日好きなことができた。小生が当時始めたばかりのウェブサイトの運営は、この団体での余暇時間を活用して行ったものだ。しかし長い間やる気はなかった。二年ほどで辞表を出した。団体の幹部は、厄介者が始末出来て安心したに違いない。

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「海の若者」と「あの夏いちばん静かな海」

私はビートたけしの映画の中で「あの夏いちばん静かな海」が一番いい作品だと思っているのだが、あの映画を見た時に連想したのが佐藤春夫作詞大中恩作曲の歌曲「海の若者」である。あの映画のラストにこの歌曲を流してほしかった。(引用した記事では作曲を清瀬保二としている。別の曲のヴァージョンもあるのだろうか。)



海の若者    
 
 
    

詩: 佐藤春夫 (Satou Haruo,1892-1964) 日本
    佐藤春夫詩集-寒蝉鈔  海の若者

曲: 清瀬保二 (Kiyose Yasuji,1900-1981) 日本   歌詞言語: 日本語





若者は海で生まれた
風を孕んだ帆の乳房で育つた
すばらしく巨きくなつた
或る日海へ出て 彼はもう帰らない
もしかしたら あのどつしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ
取り残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた


ゆったりした歌が、そこかしこに挟まれる絶妙の間とともに歌われます。けっこう謎めいた詞の内容と共に心に残る歌曲です。



( 2016.11.11 藤井宏行 )

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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