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人間五十年下天のうちを較ぶれば夢幻のごとくなり

私は中尾ミエのファンでも何でもないが、ここで語られたことは、かなり大きなことだと思う。織田信長の言葉(あるいは俗謡のひとつか)だったようだが、「死のうは一定。忍び草には何をしよぞ。一定(一条:ひとくだり)語り起こすよの」の感じを彷彿とさせる内容である。「死ぬのはひとつの定めである。さて、一生の想い出に何を語ろうか。何かひとつ面白いことでも語りおこすのだよ」とでも訳するか。我々がこの世(人間「じんかん」)にいるのも、五十年くらいのものだ、という覚悟で一生を生きた信長どころか、我々凡人は70代80代90代まで生きているが、さて「忍び草」に何があるだろうか。

(以下引用)

 すると、中尾は「ないですね」と返答し、園さんとの別れを振り返った。「まりちゃんもそうだし、私の同級生の子も亡くなったんだけど。まりさんも最後、棺桶に入ったんですけど…。何回かお見舞いに行って。緩和ケアに入るってことを本人も分かっているじゃないですか?自分の家の整理したものも、私とゆかりに“最後の整理をして欲しい”と言われて、ドレスとか小物を整理して。病室に行って、“まりちゃん、これもらうからね”って言って、了承を得て」。生前に園さんの人生を振り返り、形見分けをもらって永遠の別れをしたという。


 亡くなった同級生からは、最後に電話が掛かってきたという。「私の同級生も、電話が掛かってきて“たぶんもう持たないと思う”って、本人が。“楽しかったね。じゃあね、バイバーイ”って言って別れたのね」。明るく別れを告げられたことが新鮮な驚きだったようで、「こういう別れ方をできるのっていいなって、我ながら。だって、みんな終わりは来ますからね。その時に、こういうふうに、寂しくなく納得して別れられるのって、私もそうありたいな」と話していた。





(追記)ついでに、まったく無内容な一生だっただろう、と想像させる、ある元「偉い人」の発言を転載する。こういう愚劣な精神で生きる一生というのも我々の「反面教師」にはなる。

前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~「みすぼらしい」日本人~© アサ芸biz

読書にせよ執筆にせよ、とにかく静謐な軽井沢では捗るので、「在軽」の時間が年々長くなっている。だから、普段着など、大抵のショッピングは駅前のアウトレットで済ませてしまう。アジア諸国からのインバウンドの観光客にも人気のスポットだ。好みのネクタイの色や柄について時に意見が異なる家内と一致するのは、すれ違う人々が話している言葉を聞くまで何処の国の人間か全く分からなくなった点だ。


昔は、こんなことはなかった。1980年代、ニューヨークのコロンビア大学に留学していた頃、アジア人女性好きのユダヤ系アメリカ人の同級生からこう言われたものだ。


「日本人を他のアジア人から見分けるのは簡単だ。バッグと靴だ。日本人の女の子は、ヴィトン、グッチ、セリーヌなどのバッグを抱えて、靴は上品なパンプスを好む。しかも歩き方は草履文化のなごりか足を引きずるように歩く。一発で朝鮮人や中国人と見分けがつく」

みすぼらしい服装の非さえ認識できない連中が日本国の世評とイメージを貶めていく。

こんな日本に誰がしたのか!?


●プロフィール


やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、2000年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年駐豪大使に就任。23年末に退官。同志社大学特別客員教授等を務めつつ、外交評論家として活動中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)、「歴史戦と外交戦」(ワニブックス)、「超辛口!『日中外交』」(Hanada新書)、「国家衰退を招いた日本外交の闇」(徳間書店)、「媚中 その驚愕の『真実』」(ワック)等がある。

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頭を使うという娯楽

私の別ブログに書いた記事だが、こちらのブログに前に書いた記事の補足として、ここにも載せておく。なお、脳の成長には年齢の限界はない、と私は思っている。中学や高校のころよりも、私の脳はよく働いていると思う。(まあ、もともとの出来の悪さは置いておく。)

(以下自己引用)


あるいは、この「娯楽ブログ」で私が書いた「真面目記事」としてはこれが最後になるかもしれない。と言うのは、ネットとの接続が不調で、かなり異常が続いているからだ。

さて、本題である。

「あらゆるものに縛られたあわれ空しい青春よ
気難しさのために僕はすべてをふいにした」

というのはランボーの詩だが、この「気難しさのためにぼくはすべてをふいにした」というのは、私を含めて多くの人が陥った事態だろう。むしろ、そうでない「陽キャラ」のほうが少数派ではないか。そして、陰キャラ派は彼ら陽キャラを軽蔑することで、自尊心を守るのである。
そのあたりは「弱キャラ友崎くん」で見事に描写されている。
だが、これは「陽キャラ」か「陰キャラ」かというだけの話ではなく、「人生の歩き方」の問題として大きなテーマなのである。つまり、「気難しさ」とは、実は「自己防衛」であり、「自己美化」でしかない、ということだ。いわゆる「孤高」を気取る生き方である。

ここで私が特に言いたいのは、そうした「自己弁護」あるいは「自己欺瞞」は人生をかなり大きく毀損する、ということである。

たとえば、私は「理解できないことを覚える」のが大嫌いだった。自分が理解できないことが知識の中、脳の中にあり、どっしり座っていること自体が不愉快だったのである。
当然、私は「理解できないことは覚えない」道を選び、わずかに理解できることだけで何とか大学まで進んだが、そこでは「理解できないこと」の山で、ギブアップし、退学するしかなかった。
これは私が「頭が悪かった」ためだろうか? もちろん、そうでもあるだろうが、それ以前に「理解できないものは覚えられない」という、長年の習性が祟ったのである。
東大などに進む連中は習ったことをすべて理解しているか? そんなはずはない。彼らは、理解できなくても覚えて、それを使っているうちに理解してくるのである。つまり、彼らの脳には「理解していない知識」が膨大に眠っているわけだ。その部分が空っぽの私とはそこが違うのである。そして、その「眠っている知識」もまた財産なのである。

さて、あなたは「オン・バサラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」という短い呪文(真言)を理解できるだろうか。いや、理解しなくていい。あるいは、これを何回も繰り返して唱える(心の中でもいいが、口で唱えるほうが効果はあると思う。)ことで、「理解できないことを覚える」経験の入り口になり、今後はその種の事態への拒否感を緩和できるかもしれない。
そもそも、新しい知識や体験をすべて拒否していたら、赤ん坊のままではないか。







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アメリカ経済の衰退とアメリカ文化の衰退

今朝の未明の散歩はほんの少し小雨で、歩いているうちに「明日に向かって撃て」の主題歌「雨に濡れても」が頭の中で再生され、散歩の間じゅう、「そう言えば、アメリカ映画のヒットやアメリカで流行った歌が日本で聞かれることがなくなったなあ」という考えが頭の中に浮かんでいた。それは、アメリカの衰退を如実に表しており、その点ではアニメや漫画が今まさに世界に浸透しつつある日本はまだマシかな、とも考えたが、それもこのままでは衰退する可能性もあるだろう。いずれにしても、少し前までの「アメリカ文化」がこれほど見事に消えていったのは凄い。これは、どういうことだろうか。それは欧州文化も同様である。つまり、経済の衰退と文化の衰退は同期しているということだろうか。
なお、ベトナム戦争で「自己反省」したアメリカだが、それでも下の映画のころまでは「向日性」を持っていた。それは、「雨に濡れても」の歌詞でよく分かる。

「雨(不幸を意味する)は僕を打ち負かしはしない。そいつはそんなに長くは続かないし、その後には幸福が僕にやって来るのだから」という趣旨だ。

なお「明日に向かって撃て!」という日本語題名も「雨に濡れても(Raindrops falling on my head)」という日本語訳も素晴らしい。原題以上のセンスである。昔の人たちの言語感覚は抜群だった。

(以下引用)

明日に向って撃て!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

監督ジョージ・ロイ・ヒル
脚本ウィリアム・ゴールドマン
製作ジョン・フォアマン
製作総指揮ポール・モナシュ
出演者ポール・ニューマン
ロバート・レッドフォード
キャサリン・ロス
音楽バート・バカラック
主題歌B・J・トーマス
雨にぬれても
撮影コンラッド・L・ホール
編集ジョン・C・ハワード
製作会社ニューマン/フォーマン・カンパニー
配給20世紀フォックス
公開アメリカ合衆国の旗 1969年9月23日
日本の旗 1970年2月21日
上映時間110分
製作国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語英語
製作費1,200万ドル(43億円)
次作新・明日に向って撃て!
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明日に向って撃て!』(あすにむかってうて、原題: Butch Cassidy and the Sundance Kid)は、1969年公開のアメリカ合衆国映画である。実在の銀行強盗ブッチ・キャシディサンダンス・キッドの逃避行を題材にした西部劇


アメリカン・ニューシネマの代表作の一つとされる。ストップモーションを効果的に使用したラストは映画史に残る名シーンとして知られ、主題歌「雨にぬれても」もヒットした。2003年アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

登場人物

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ブッチ・キャシディ
演 - ポール・ニューマン
強盗団のボス。頭脳派だが人を撃ったことはない。
ザ・サンダンス・キッド
演 - ロバート・レッドフォード
ブッチの相棒。早撃ちの名手。
エッタ・プレイス
演 - キャサリン・ロス
学校の教師。サンダンスの恋人。
パーシー・ギャリス
演 - ストローザー・マーティン
鉱山の管理人。ブッチとサンダンスを雇う。
ブレッドソー
演 - ジェフ・コーリー
保安官。服役していたブッチを温情から釈放する。
ウッドコック
演 - ジョージ・ファース
金庫番。仕事には忠実。
アグネス
演 - クロリス・リーチマン
売春宿の経営者。
ハーヴェイ・ローガン
演 - テッド・キャシディ
ボスの座を狙っている。
ニュース・カーヴァー
演 - ティモシー・スコット
ハーヴェイの相棒。

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ホリーよ「Go rightly」

「壺斎閑話」から転載。私自身は映画「ティファニーで朝食を」があまりに好きなので、原作の小説は未読である。下の壺斎氏の評論は、その小説の内容を余すところなく書いており、小説そのものを読む必要すら無さそうだww まあ、今の日本にはホリー・ゴライトリー(「聖女よ、正しく進め(そして幸福になってほしい)」の意味が隠されていると思う。)に似た境遇の「運命に恵まれないが、ちっぽけな生き方もいやだ」という小妖精たちがたくさんいて、人生や社会に挑戦しては無残に敗北して死んでいくのだろう。得てして、「自我がある」「個性的な」人間は学校でのいじめの標的にもなりがちな気がする。
なお、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌である「ムーン・リヴァー」の歌詞の末尾で歌い手(映画ではヘップバーン自身が歌うので、作詞意図が曖昧になっているが)が呼びかける「(私の)ハックルベリーフレンド」は、ホリーを指すと思う。つまり、本来は外部からホリーを見ている人間が歌った歌、という作りではないか。まさにハックルベリー・フィンこそは米文学に現れた魅力的なキャラクターの筆頭で、「社会規範を外れた」悪童ながら、ずる賢い優等生トム・ソーヤーの何倍も豊かな人間性の持主なのである。

(以下引用)




村上春樹訳「ティファニーで朝食を」を読む


訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。

なにしろ女性主人公のホリー・ゴライトリーはあと2か月でやっと19歳になるという設定だし、小説の語り手でホリーの男友達たる青年も、やっと少年期を脱したばかりという雰囲気をたたえている。ホリーはこの青年をいつでも、自分の兄の名で呼んでいるし、青年が自分にむかって恋愛感情を抱いていると感じても、それに対してまともに応えようとはしない。二人は恋人同士になるにはまだ幼すぎる。二人は大人になりつつある、中途半端な時期を生きている者として、描かれているのだ。
だがホリーは普通の少女とはあまりにも違った少女時代を生きてきた。彼女はたった14歳で、自分の庇護者となったテキサスの獣医と結婚関係を結んだのを手始めに、数多くの男と性的関係を持ってきた。それは、兄のフレッドとともに、親の保護から見放されて孤児となり、他人の世話にならねば生きていけなかったという境遇を彼女なりに受け入れた結果だった。

だから小説の中でのホリーは、時には娼婦を思わせるようなきわどい生き方をする人間として描かれることもある。だが彼女の18歳という若さが、その生き方に複雑な陰影を与える。それが語り手である青年と聞き手である我々に、ある危うさのようなものと、その背後に見え隠れする若い女性の未熟ながら輝いているような生き方を感じさせるのだ。

その危うさと未熟な輝きとの感覚が、この小説に独自の色彩感をもたらしている。

小説にはこれといって複雑な筋はない。ホリーを巡って色々な人物が登場し、その多くは最後にはホリーを見捨てて消え去ってしまう。ホリーを妊娠させた男も、ホリーが今までに愛したただ一人の男であったにかかわらず、ホリーが問題を起こして、自分の身に不都合になりそうだと感じると、さっさとホリーを捨てて妻子とともにブラジルに去ってしまう。

だがホリーはそんな自分の運命を嘆いて見せたりはしない。過去は過去として受け入れ、新しい未来を自分の手で生きなおすべく選択するのだ。

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脳内世界と外部世界

こういう話(自分に無関係の話)に興味の無い人がほとんどだと思うが、私にはちょっと面白かったので転載する。
つまり、「相手の意図や当面の作業の目的を考えずに行動している人間(特に若者)は非常に多い」という話である。

魚を釣るにも、目的の魚に合わせた餌を用意すると思うが、社会での場面だと、そういう根本を認識していない人が多いのだろう。などと言って、私のような世間知らずの者こそ、周囲に呆れられていたかもしれない。私の言う冗談はかなりな確率で皮肉と受け取られて嫌悪する相手がいたものである。つまり、私などは「自分の脳内世界しか知らない」人間で、社会生活には合わない馬鹿だったわけだ。案外、そういう種類の人間は多いのではないか。
むしろ、社交的な人間というものが私には理解できない。「相手に合わせる会話」をして何が面白いのだろうか。そのどこに本当の自分は存在しているのか。
もちろん、ホリエモンなどのように言いたい放題を言う人間もいるが、それはそれがテレビなどでの一種の「芸」なのだろう。つまり、やはり本当の自分かどうかは怪しいものである。まあ、人生の時間の無駄をしているな、と思う。
仕事というものは基本的に「任務を果たせばそれで十分」であり、何も世間話をする必要はないが、社会生活はそれでは務まらない。他者との関係がその人の評価を決めたりするものだ。だから現代の若者は「コミュ障」であることを死ぬほど恐れるのだろう。それが間違いだとは言わないが、それがすべてでもない。百姓や漁師など、基本的に他者との会話は不要だろう。研究者も本当は同じであるはずだ。

(以下引用)

2025-04-14

人事部だけど「ジェンダー専攻は会社の人事のおっさんからウケが悪い」のではないんですよ


https://x.com/de_Bilitis/status/1910536750398922935?t=WfvGZ3-ns8IA2RVCRa7c4Q&s=19


ジェンダー系専攻してますが、おじさんウケが悪すぎるので就活時は専攻内容を誤魔化すのが学生内で常識になってるのエグい。」




これはね、ウケが悪いって話ではないんだよ。


人事部でまさに就活面接担当してたおっさんちょっと説明します。


弊社はメーカーだけど規模自体はでかいので


理系だけでなく文系学生、いわゆる人文系哲学現代思想ジェンダー等々のゼミ出身学生からも割りと応募があります


私は人事部時代ES審査から二次面接個人面接)までを主に管轄していました。


まさに当事者の子が見ているかもしれないのでアドバイスとしても書くけど


こういう人文系学生、全員とは言わないが相当な割合の子


あなた大学で学んだこと、研究したことは弊社でどのように役立つと思いますか?役立てたいですか?」という質問が非常に苦手です。


ESから面接にかけて同様の意図表現を変え何回か質問を投げ掛けますが、質問意図合致した回答をしてくれる学生が少ない。


よくあるのは「私の研究は"社会"の役に立ちます」と答えてしまパターン


回答だけを読めば、筋道立てて説明していて分かりやすいんですよ。真面目に勉強してきたんだなと感じる。


でも単純に質問から目的語がずれてしまっているんです。


"社会"のことは聞いてないんですよ。うちの会社のことを聞いてるのに滔々と社会全般の話を語られても中々困るわけです。


この点、メーカーだと理系の方がやりやすいでしょうね。


文系学生は苦労していました。


そもそもの話になりますが、就活面接面接官が質問を行うのは


質問意図通りに回答できるか、ロジカルに考え説明ができるかといった能力を見るためという点が大きく。


上記質問で言えば「大学勉強内容と弊社の業務ロジカルに関連付けて考えられているか?」を問うているわけです。


ここで大事なのが、業務に対する理解の浅深は大きな問題じゃないということです。


普通学生が、面接の時点で事業業務全体をきちんと理解するのは無理で、当然そんなことは求めていません。


あくまで、論理的に考えて説明できるかを見ているのです。


あなた勉強はウチで役に立つのか、という質問はどこであってもほぼ確実に問われると思いますので


これから学生もきちんと準備して臨まれることを願います


早稲田慶應学生でもこの傾向は見られました。


時々来る東大京大学生は流石に優秀でしたが。


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大久保利通のこと

私は西郷隆盛も大久保利通も好きなのだが、西郷は情に流されて判断を誤る傾向があり、冷徹な大久保のほうをより好ましく思っている。古今の政治家としては最高の人物だったと思う。
彼が死んだとき、私財がまったく無く、借金すらあったというエピソードが好きである。私財と借金は政府のため、他人のために使ったものであり、無私という点では西郷と大久保は双璧だろう。

(以下引用)

人物・逸話

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大久保の銅像(鹿児島市

仕事ぶり

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  • 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが[16]、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかった。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
  • 「わしの国(薩摩)のものは政治には役に立ちません、戦にはいいが」と語り、出身藩に関わらず能力が高い者を登用した。伊地知貞馨のようにこれまで親交を結んでいた者であっても、不正(琉球から賄賂を受け取った)が明らかになった場合は容赦なく切り捨て、公正無私に取り扱った[17]
  • 寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人は少なかった。「人斬り半次郎」の異名を持つ桐野利秋(中村半次郎)も大久保に対してまともに話ができず、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしても大久保に一瞥されただけで気迫に呑まれていた。
  • 大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保没後の内務省で後任の内務卿・伊藤博文の部屋で西郷従道中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中居が出入りするようになるなどの例を挙げ、「すべてが奢侈に流れ堕落した」と嘆いている。
  • 今日でいう風光関係の問題にも関心があった。明治6年(1873年)に五代友厚浜寺公園へ案内された大久保は、県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ[注釈 5]。税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

技能

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畳を回すという技能を持っていた[18]薩長との会合の際、長州代表主催者、周布政之助を快く思っていなかった堀小太郎(後の伊地知貞馨)が言葉じりを捕らえ、嘲った。空気が非常に重くなったが、さらに堀は周布を嘲り続けた。怒った周布は「芸を見せる」と言い抜刀し踊り始めた。堀を斬ることを察した、長州藩の藩士が堀との間に入り抜刀して踊り止めようとし、空気に緊張感がましたその時、大久保は畳を一枚ひっぺがえし、畳を回すという芸を見せた。これで空気が弛緩し、ことなきを得た。これはのちの世で幕末の鴻門の会と呼ばれている。[要出典]

嗜好

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  • 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子どもたちが争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。
  • 趣味は囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述もある。また囲碁に関しては負けず嫌いで、負けたときは露骨に機嫌を悪くすることもあった。
    • 大隈重信
      • 「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」[19]
      • 「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。大久保は碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」[20]
    • 本因坊秀栄 「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」
    • 伊藤博文 「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」[21]
    • 牧野伸顕 「父は碁が非常に好きだった。あまり好きなので、体に障りはしないかと心配するものがあり、或る日松方さんが同志を代表して出掛けて行き、父に注意すると、『私に碁を止めろと言うのですか。私は碁が出来なければ死んでしまいます』と父が答えたので、勿論冗談ではあったが、死なれては困るというので、碁を止めさせる計画は沙汰止みになった。父は翌日があるので夜更しはしなかったが、少しでも暇があると碁を打っていた。気分転換の意味もあったと思う」[22]
  • ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。
  • 茶は京都宇治玉露を濃く淹れたものを好んだ。
  • 漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。
  • 写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、これを好んだため多くの肖像写真が残っている。
  • 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。
  • 頭頂部に大きな禿があり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。
    • 大隈重信 「如何いうものか頭の頂辺は早く禿げた。房やかな髭は黒々と伸び彼の通りの謹直な人で厳めしく見えたが、悲しい事には肝腎な頭の真ん中に毛が無い。そこで苦心して矢張り髭のあたりから毛を持ち運んで隠して居た。大久保は仲々御洒落で、身体の修飾をやったて、すこぶる勉強家で毎朝八時半頃から登省して事を視るという人であったが、その前にこの様なことで少なからず時間を費やしたものだ」[23]
  • 明治8年(1875年)から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友の税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。また、これとは別に高輪に純和風の別邸を所有していた。

士族反乱~最期

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遭難地近隣の清水谷公園に立つ哀悼碑
  • 征韓論で対立した江藤新平と確執があり、佐賀の乱で江藤が裁判にかけられた際には日記に「江東(ママ)陳述曖昧実ニ笑止千万人物おし知ラレタリ」、死罪判決が出た際には「江東(ママ)醜体笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と意図的に名字の名を変え、江藤への罵倒ともとれる言葉を記している[24]。このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」[25]「上京していた江藤の弟・江藤源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」[26]など当時から現在に至るまで様々な風説を生み出している。なお、大久保は江藤の才能を認めつつも、その強引さ故に政府を去り反乱を起こして死亡した様を商鞅に例えている[27]
  • 萩の乱の一報を千坂高雅から受けると、大久保は「これ(電報)を伊藤(博文)参議の所へ持っていって、どうか木戸(孝允)さんへお渡し下さいと言ってくれ」と送り出した。意味がわからぬまま千坂が持っていくと伊藤が涙を流したため訳を聞くと、(萩の乱の首謀者である)前原一誠は木戸と伊藤が参議に推挙したが、前原について聞き及ぶところがあった大久保が難渋を示したところ、木戸が天下の志士を疑ったとして立腹したという経緯があり、木戸の面子を立てようとする大久保の配慮であった[28]
  • 西南戦争の時には、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。一方で、「あの男のことだから進退去就には困っているだろう」として、勅使を立てて明治天皇の意向を伝えて挙兵を防ごうとし、その意向を受けて西郷の縁戚の川村純義が会見を試みたが、実現しなかった。周囲の者達が西郷が乱に与するに違いないと伝えても、大久保は最後まで西郷の不参加を信じて疑わなかったが、西郷が反乱軍を率いて鹿児島を出立したという確報や証拠を突きつけられ、「そうであったか」と言って涙を流した[29]。大久保は西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
  • 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた[30])。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていた[31]。また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる[32]
  • 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語った[33]
大久保神社(郡山市安積町)
  • 安積疏水計画の推進者であった大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にあり、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている[34]
  • 地元鹿児島では長らく「西郷どんの敵」とされていた。彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのは、徐々に再評価が高まってもいた昭和54年(1979年)の西南戦争百周年の機会であった。

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「合理主義」の馬鹿

この前から「合理主義」の欠陥について書いているが、その実例を「はてな匿名ダイアリー」から転載する。読むのが面倒くさいだろうが、その面倒くさいところが面白いと思えばいい。
はっきり言って、私はこの奥さんに同情する。
何でも言葉で説明できると思い、相手にもそれを要求する人間がいかに面倒くさい奴か、想像できるからだ。
赤字にした部分に注意。結婚と同時に豹変した「嘘つき(仮面人間)」はこの男なのである。奥さんは同棲直後の「最初の会話」でこの男の本性(理屈馬鹿であること)を知って呆れて、冷めた理由を説明する気も無くしたのである。

(以下引用)実物はこの5倍くらいの長さがあり、延々と「自分の考え」を説明しているwww

2025-03-20

入籍2日目で生理的に無理なので離婚したいと言われている話

はじめに

34歳、男です。


今年の2月、同い年の妻と入籍同棲したばかりの新婚…のはずでした。


しかし、同棲開始直後から、妻の態度が豹変


理由もわからず、ただただ拒絶される日々に、精神的に限界が近づいています


交際期間は約2年。最初から結婚を前提に付き合っていました。


昨年8月プロポーズ10月に両家顔合わせと、順調に結婚へと進んでいる、はずでした。


妻は明るく、よく喋る、笑顔の素敵な女性でした。


素直で表裏のないタイプで、私いつも妻の話を聞いている側


そんな関係が心地よかったんです。


入籍日は、妻の親希望占い(何か学問かいってたが私からしたらスピでしかありません)を参考に、2025年2月8日に決定。


正直自分がいないところで一方的大事な日程を決められたのはモヤっとしましたが、まあこれも親孝行だろうと思い従いました。


プロポーズから半年以上先でした。

2025年2月8日。

待ちに待った同棲開始日。


しかし、その日の夜、妻から信じられない言葉が飛び出しました。


入籍を延期したい。一度婚約破棄して、もしよければ、また考えたい」


…は? 


頭の中が真っ白になりました。


理由を聞いても、要領を得ません。


「私が旦那というのが受け入れられない」


会社友達結婚を知られたくない」


新婚旅行行きたくない


記念日は祝わなくていい」


結婚指輪をするぐらいなら離婚したい」


つい先日まで、「会社の人に紹介したい」「友達と会いたい」と言っていたのに。


新婚旅行も、一緒に計画を立てていたのに。


この結婚のために私は転職までしました。その時、「ぜひうちの会社で私と働きたい」とまで言ってくれていました。

(中略)

結局、その日は4時間も話し合い、最終的には妻が折れる形で、婚姻届サインしました。


相手が迷ってるのに強要したのかよ」と思われたかもしれません。


から振り返れば私も寄り切る必要はなかったなと思います。ここは私の落ち度です。まさかそこまでとは思っていませんでした。


ただ向こうの都合で日程を何度も変更され、またか、という気持ちが強くて私も意地になっていたのかもしれません。


理由があればいいのですが話せる理由なく「結婚するかどうかは私の機嫌しだい」とされるのも嫌でした。


婚約しているのだから、取り消すのは有責になるし、そんな相手と「じゃあまた彼氏彼女関係作ろうか!」という気持ちになれませんでした。


私の当時のマインドはこのタイミング入籍するか、もう破談にするかでしたが、今にして思えばもう少し冷静になっていたらと後悔しています


せめて相手が「申し訳ないがあなたのこうこうこういうところが気になってて、ちょっとそれが改善するかどうかを見たい」ぐらい言われていればそこまで寄り切らなかったと思います。もう言っても遅いですし、彼女がそこまで言語化能力が低いと思わず、出てくる言葉彼女気持ちであると誤解していました。申し訳ありません。

追記 マリッジブルーだろ?】

(中略)

2月10日、予定通り入籍。(8日からは遅れました。この時連休中だったので、その期間という意味合いです)

(中略)

2月23日、妻、私、妻の両親、妻の兄を交えて、4時間にも及ぶ家族会議を開きました。

しかし、ここでも妻は、私を拒絶する理由を「わからない」と繰り返すばかり。


具体的な不満は、雑談の中でようやくポツポツと出てくる程度。


テレビドラマに私がツッコミを入れるのが嫌だった(現場作業ノーヘル俳優がいて お互いメーカー勤務なので粗さにつっこみ)


会社研修に行った際「どうだった?」と聞かれるのが嫌だった(私は人事担当なので?)


買い物など相談事項をLINEで送り、丸一日返事がないので「早く決めたいか無視しないでくれ」と送られてプレッシャーだった


これが原因かわかりませんが、出てきたのはこういう部分です。


妻の兄からは、「男同士なら普通の会話だけど、女性には辛いかも」とのこと。


両親は、謙遜しょうが「うちの娘は共同生活に向いてない」「娘には欠陥があるから仕方ない」とまで言う始末。


結局、この家族会議でも、妻が豹変した真の理由はわからずじまい。


とりあえず、「私からしかけない期間を設ける」「それぞれカウンセリング検討する」ということで、その場は収束しました。

家族会議後も、状況は悪化の一途。

(中略)

3月15日

メンタル限界にきていた私は、「詳しい原因は本人にもわからないの仕方ない。私は妻を傷つけたし、私も妻に人によっては即離婚級の暴言を吐かれ傷ついた。お互い様ってことでお互いごめんなさいして、これから前を向いて頑張ろう」「これでちゃんちゃんにしよう」という提案しました。彼女は「悪いことをしたのは説明されたら理解した」「だが謝る気はない」「謝れない理由はわからない」「カウンセラーにも聞いたが不明」とのことで、自発的に、社交辞令的に謝罪することすらできませんでした。


ここで謝らないという選択肢を取られたら即離婚だなぁと思いもあり、また私のメンタルが持たないと思い行為単体を抜き出して、それについてだけ謝ってほしいと懇願しました。「では、申し訳ない」とだけ言いました。無理やりな形なので仕方ないですが、これでよかった!とは言えない気持ちになりました。後悔しています


自分提案したのに、「さぁ!切り替えて関係を再構築しよう!よろしくな!」という気分になれないのです。

【私の本音

正直、もう、どうでもよくなってきたんです。


最初は、妻のことが好きで、関係修復を願っていました。


でも、ここまで拒絶されて、それでも「お互い様」なんて、思えません。


もう、疲れました。


こんな日々が続くくらいなら、いっそ、離婚してしまった方が楽なのかもしれません。


今や相手のことを好きと言う気持ちも忘れてきています


でも、籍を入れて、たった一ヶ月で離婚していいのかなと思います


もう、どうすればいいのか、本当にわかりません。


今妻の気持ちがわかります


これが「生理的にきつい」「理由はないがお前と結婚しているという事実が恥ずかしい」「別に離婚してもいい」ということかと。


妻は言語化できていないだけで、こう言う気持ちだったんだぁと理解しました。


妻にも思わせる何かがあったのかもしれません それが何かなのは本人にも不明ですが。なんかの一言というより、こういうあるべきをふりかざしてくる旦那と致命的に相性悪いんでしょう。


(以下省略)記事はさらに延々と続くwww

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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