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超訳「老子」4

4 道は実体的なものではないから、用いても一杯になることはない。
  淵のようでもあり、万物の源のようでもある。
  もしも人がその機鋒をくじき、そのもつれを解き、
  その才知の光を和らげ、他の人々と同列に交われば、
  道はあるいはその人に存在することになるだろう。
  道を体得した人がいたとしたら、それは
  誰にも知られていない人間で、帝王が存在する以前の時代にのみいたかもしれない。

[解説]
 再び「道」についてである。道とは、「やり方」であるから、もちろん実体ではないし、用いて変化するものでもない。逆に言うと、実体的なものなら、使えば無くなるが、「道」はいつまでも使える有り難いものだと言える。だから、良く言われるように「空腹な人に魚を与えるな、魚の釣り方を教えよ」、と言うのである。
 後半は、人生訓である。いわゆる「和光同塵」であるが、道を得た人間は「知者」や「賢者」とは似ていない。むしろ、「大賢は大愚に似たり」という塩梅で、まったく圭角の無い、凡人の風貌をしているようだ。しかし、まったくの愚人や凡人とは異なり、本来の知恵を隠した隠者であるから、現実にはほとんど存在していない。「帝王」などという存在がいること自体、その社会が不完全であること(つまり聖人は存在しないこと)を意味しているから、もしも真に道を体得した人間がいたとしたら、それは「帝王」がこの世に発生する以前だろう、というわけである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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