市民図書館の児童書コーナーから何気なく借りた、花岡大学という人の短編集「やわらかい手」を昨日読んで、かなり感心したのでメモしておく。
この本は「復刻版」で、つまり廃刊だった本だろう。なぜ廃刊にされたかも、読めば分かる。
それは、「子どもの心の暗黒(「悪」とも言える)」を描いているからである。
この作品集の中の作品のすべてが子供を描いたものだが、その中のひとつは「まったく悪意の無い優れた精神の少女が異常な精神の家族(義母)に自殺に追い込まれる」話で、残りはだいたいが「子供の暴力」と、そこに至る心理描写である。その心理描写が実に見事で、ドストエフスキーか深沢七郎並みである。そのふたりとの違いは、「最後の瞬間の心理はその当人にも分からない」ことで、私はここに仏教的な「業」の思想があるのではないか、と推測する。
私は「悪人正機説」が大嫌いで、「なぜ悪人のほうが善人より往生する(天国に行く)のだよ」と、その理不尽さに腹が立つのだが、その理不尽さには「善人・悪人の違いは偶然的なものでしかない」、あるいは「悪人の悪行は、当人にもどうしようもない『業』に動かされたものだ」という思想が前提にあるなら、悪人正機説にも一理あるだろう。しかし、それを認めると近代の法体系は成立しなくなるから、これはあくまで宗教信者という特殊なサークル内での話になる。
業という思想が仮に上に書いたようなものなら、それは「理性万能主義」と対立するわけで、理性を代表するのが「法治主義」思想だが、それが無数の欠陥を露呈し続けていることは多くの人が知っていることだ。かと言って、儒教的な「徳治主義」も現代では無力化しているだろう。
そこで、「業」という思想を再検討することも、あるいは意味があるかもしれない。もちろん、だからと言って「悪人への処罰を緩めろ」という馬鹿な答えを出すのは馬鹿に決まっている。ただ、「法律は万能ではないし、公正とも限らない」というポイントは法曹関係者が常に心の戒めとするべきことだろう。これはしばしば「裁く立場」になる教育関係者も同様だ。
ひと言、まとめておけば、「業」とは自分自身でも気づかず、どうしようもない深層心理である、とフロイト的な解釈ができるだろう。
なお、以上は花岡大学の作品の一面だけを論じたもので、上に述べた残酷さと並行して見事な詩情が流れており、残酷さとの対比でその詩情がいっそう哀切になっている「美しい」作品でもある。小川未明や宮沢賢治の一部の作品とも似ているか。まあ、冗談だが「ハードボイルド小川未明」と言っておく。(「やわらかい手」の庶民の子供の空襲体験の場面は小学校教科書に絶対に載せるべきである。特に、空襲に追われる主人公少年が引いていた妹の手を無理やり離す場面は凄い。これを読んで、それでも戦争肯定派である人間は、それこそ悪魔だろう。)
(追記)今、「やわらかな手」の西本鶏介による巻末解説を読み終わったが、上に書いた私の印象、あるいは感想と見事に符合していて少し驚いた。私の知性と感性もまんざらではないようだ。
たとえば、花岡大学と小川未明や宮沢賢治との類縁性について、こう書いている。(以下、引用文は赤字にする)
ならば、この系譜(夢人注:日本児童文学の主流的系譜)とは全く無縁の存在かというと、そうではなく、小川未明や宮沢賢治にまでつながる、まさに日本的な童話作家なのである。
「悪人正機説」のことを私は書いたが、それについても、こうある。
ここでいう(注:花岡大学が言う)宗教精神とは、仏教のそれであり、近代的ヒューマニズムとは、親鸞の悪人正機の思想を原典とする人間実在の思いであろう。
花岡大学作品の「ハードボイルド性」については、こうある。
かつて日本の児童文学に、これほど人間の深淵を表現した童話があっただろうか。どうにもならない人間地獄のかなしみを凄絶なまでの美しさで描きあげた作家がいただろうか。
花岡氏の考える現実は、メガホンつきの平和論や革命論よりはもっと深く、人間の極限までふみこんだどろどろの世界である。政治やイデオロギー以前の人間存在そのものにかかわる生死対決の場である。
ここ(注:「やわらかい手」)に収められた五篇は、いずれも、まま子、殺意、エゴイズム、嫉妬、自殺、首吊りといった、従来のいわゆる童話には殆どみられない内容ばかりである。
さて、あなたはこの「童話」を読む勇気があるか? 私は、最初から内容を知っていたら、とても読めなかっただろう。しかし、実に抒情性のある、美しい童話でもあるのだ。あるいは、一種のホラー小説集として読むのも「あり」だろう。凡百のホラー小説よりずっと怖いのである。まあ、目の前で子供が死んでいくのを見ても平気な冷血漢なら話は別だが。幼児の、「ゆえなくして流された一粒の涙」にこの世界の悪と不幸の象徴、不条理の象徴を読み取れる人におすすめである。
この本は「復刻版」で、つまり廃刊だった本だろう。なぜ廃刊にされたかも、読めば分かる。
それは、「子どもの心の暗黒(「悪」とも言える)」を描いているからである。
この作品集の中の作品のすべてが子供を描いたものだが、その中のひとつは「まったく悪意の無い優れた精神の少女が異常な精神の家族(義母)に自殺に追い込まれる」話で、残りはだいたいが「子供の暴力」と、そこに至る心理描写である。その心理描写が実に見事で、ドストエフスキーか深沢七郎並みである。そのふたりとの違いは、「最後の瞬間の心理はその当人にも分からない」ことで、私はここに仏教的な「業」の思想があるのではないか、と推測する。
私は「悪人正機説」が大嫌いで、「なぜ悪人のほうが善人より往生する(天国に行く)のだよ」と、その理不尽さに腹が立つのだが、その理不尽さには「善人・悪人の違いは偶然的なものでしかない」、あるいは「悪人の悪行は、当人にもどうしようもない『業』に動かされたものだ」という思想が前提にあるなら、悪人正機説にも一理あるだろう。しかし、それを認めると近代の法体系は成立しなくなるから、これはあくまで宗教信者という特殊なサークル内での話になる。
業という思想が仮に上に書いたようなものなら、それは「理性万能主義」と対立するわけで、理性を代表するのが「法治主義」思想だが、それが無数の欠陥を露呈し続けていることは多くの人が知っていることだ。かと言って、儒教的な「徳治主義」も現代では無力化しているだろう。
そこで、「業」という思想を再検討することも、あるいは意味があるかもしれない。もちろん、だからと言って「悪人への処罰を緩めろ」という馬鹿な答えを出すのは馬鹿に決まっている。ただ、「法律は万能ではないし、公正とも限らない」というポイントは法曹関係者が常に心の戒めとするべきことだろう。これはしばしば「裁く立場」になる教育関係者も同様だ。
ひと言、まとめておけば、「業」とは自分自身でも気づかず、どうしようもない深層心理である、とフロイト的な解釈ができるだろう。
なお、以上は花岡大学の作品の一面だけを論じたもので、上に述べた残酷さと並行して見事な詩情が流れており、残酷さとの対比でその詩情がいっそう哀切になっている「美しい」作品でもある。小川未明や宮沢賢治の一部の作品とも似ているか。まあ、冗談だが「ハードボイルド小川未明」と言っておく。(「やわらかい手」の庶民の子供の空襲体験の場面は小学校教科書に絶対に載せるべきである。特に、空襲に追われる主人公少年が引いていた妹の手を無理やり離す場面は凄い。これを読んで、それでも戦争肯定派である人間は、それこそ悪魔だろう。)
(追記)今、「やわらかな手」の西本鶏介による巻末解説を読み終わったが、上に書いた私の印象、あるいは感想と見事に符合していて少し驚いた。私の知性と感性もまんざらではないようだ。
たとえば、花岡大学と小川未明や宮沢賢治との類縁性について、こう書いている。(以下、引用文は赤字にする)
ならば、この系譜(夢人注:日本児童文学の主流的系譜)とは全く無縁の存在かというと、そうではなく、小川未明や宮沢賢治にまでつながる、まさに日本的な童話作家なのである。
「悪人正機説」のことを私は書いたが、それについても、こうある。
ここでいう(注:花岡大学が言う)宗教精神とは、仏教のそれであり、近代的ヒューマニズムとは、親鸞の悪人正機の思想を原典とする人間実在の思いであろう。
花岡大学作品の「ハードボイルド性」については、こうある。
かつて日本の児童文学に、これほど人間の深淵を表現した童話があっただろうか。どうにもならない人間地獄のかなしみを凄絶なまでの美しさで描きあげた作家がいただろうか。
花岡氏の考える現実は、メガホンつきの平和論や革命論よりはもっと深く、人間の極限までふみこんだどろどろの世界である。政治やイデオロギー以前の人間存在そのものにかかわる生死対決の場である。
ここ(注:「やわらかい手」)に収められた五篇は、いずれも、まま子、殺意、エゴイズム、嫉妬、自殺、首吊りといった、従来のいわゆる童話には殆どみられない内容ばかりである。
さて、あなたはこの「童話」を読む勇気があるか? 私は、最初から内容を知っていたら、とても読めなかっただろう。しかし、実に抒情性のある、美しい童話でもあるのだ。あるいは、一種のホラー小説集として読むのも「あり」だろう。凡百のホラー小説よりずっと怖いのである。まあ、目の前で子供が死んでいくのを見ても平気な冷血漢なら話は別だが。幼児の、「ゆえなくして流された一粒の涙」にこの世界の悪と不幸の象徴、不条理の象徴を読み取れる人におすすめである。
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