「私お母さんだから」について前に少し考察したためか、ふと「乳ぜり泣く子を捨てっちまおか」という中七下五(実際は下七。調子から言って「すてちまおか」より「すてっちまおか」あるいは「すてちまおうか」が良い。)の俳句を思い出したが、その上五が思い出せない。ということは、上五は他の部分との関連として「動かない」ものではないのかなあ、と思って調べると、「短夜や」であるらしい。「夏の夜や」でも別に構わない気がする。その方が、赤ん坊の泣き声にいらいらする感じがもっと出るのではないか。「短夜」というのは雅やかなイメージが付きすぎているような感じがする。
で、まあ、自分の赤ん坊を「捨てっちまおか」と考えるというのは、いわば母性神話への反逆宣言みたいなもので、この俳句が発表された当時、さぞ衝撃だっただろうな、と思う。
なお、「すてっちまおか」を漢文風に書いた意図は、作者の一種の自己防衛だったのではないか。つまり、「須らく捨つべしや」と読めて意味は分かっても、俳句としてどう読むのかは不明なわけで、この作品を批判しにくくなるわけである。
(以下引用)
で、まあ、自分の赤ん坊を「捨てっちまおか」と考えるというのは、いわば母性神話への反逆宣言みたいなもので、この俳句が発表された当時、さぞ衝撃だっただろうな、と思う。
なお、「すてっちまおか」を漢文風に書いた意図は、作者の一種の自己防衛だったのではないか。つまり、「須らく捨つべしや」と読めて意味は分かっても、俳句としてどう読むのかは不明なわけで、この作品を批判しにくくなるわけである。
(以下引用)
2005/8/2408:57:31
2005/8/2409:03:08
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