医療における自己決定権は幻想か
1 自己決定権の定義
自己決定権とは、病気の治療において、最終的な判断を下す権利は患者にあるということである。
2 自己決定権はなぜ必要なのか
1の定義からすれば、自己決定権の正当性には疑問の余地は無いように見える。自分の体を治療するのであり、金を払うのも自分なのだから、その治療の方法の決定、あるいは治療をするかしないかを決定する権限は当然患者自身にあると、常識では思われる。
その常識が医療の世界ではこれまで通用していなかったというのが、自己決定権の議論が生じてきた理由である。つまり、治療方法の判断は医者が行い、治癒困難な、あるいは治癒不可能な病気の治療を継続するかどうかも医者が判断していた。
インフォームド・コンセントの概念の浸透により、医者が患者に病状や治療方法の説明を行い、患者の同意のもとに治療を行うことが一般化してきたが、たいていの場合は患者は医者の言うがままに同意しているのが実状だと思われる。
3 自己決定権を否定する根拠
自己決定権を否定する議論の論拠もまた、こうした医療の現状、つまり、インフォームド・コンセントが有名無実であるという点にある。
なぜなら、患者には自分の病気や治療法についての専門的知識は無いのが普通であり、医者の説明の大半は理解できないはずだからである。良心的な医者が精一杯に説明しても、結果は同じようなものだろう。
また、患者の意識が正常でなく、あるいは患者が幼児であったなどの場合は、こうした「説明と同意」は不可能になる。
4 3への反論
自己決定権を否定する論拠が3のような理由であるならば、これは否定の論拠にはならないと思われる。「インフォームド・コンセントは難しい」という前提と、「自己決定権は不要だ」という結論は論理的には結びつかないからである。ある事柄を為すための手段が困難であることは、その事柄が不要だという結論にはつながらないはずだ。
たしかに、現在の自己決定権は有名無実かもしれないが、病気治療において患者の意思が何よりも優先されるべきであるという思想そのものは否定できないはずである。
したがって、問題は自己決定の前提であるインフォームド・コンセントをいかにして実質のあるものしていくかという技術的問題にあり、「自己決定権は、現在は機能していないからやめてもいい。いや、やめよう」という考えは、自分の体の所有者は自分であるという、人間の最低限の人権を奪う非人間的思想だろう。
5 脳死と自己決定権
脳死が人の死かどうかという問題は、自己決定権とは無関係な話である。自己決定権と脳死が関係するとすれば、自分の死後に臓器提供をするという「自己決定」をした場合だけであり、その場合は当然、本人の意思で臓器提供をするのだから、何の問題も生じない。
6 尊厳死と自己決定権
自己決定権と大きな関係があるのは、尊厳死の問題である。不治の病で近い時点での死が確実だと思われる場合、脳死状態で体だけが生かされることを拒否して、すべての医療行為を停止させること、つまり自ら人間としての尊厳を保った状態で死ぬことを選ぶことについて、それを否定することは困難だろう。人間を神の被造物とするキリスト教やユダヤ教やイスラム教などでのみ、「神から生命を預かっただけの存在である人間には自殺の権利は無い」という考えが有効なのであり、自分の生命は自分のものであるという常識的立場からは、尊厳死を選ぶことも当然に正当な権利と見なされる。
7 結論
現実の医療の場における自己決定のあり方が無内容なものであるという批判は正当なものかもしれない。だが、それによって自己決定権そのものの正当性までが否定されるとは私は思わない。たとえ多くの自己決定が形式的なものでしかなくても、人は最終的には自分で決めたというだけでも慰められるだろうし、自分の病状や治療法について正確に理解した患者ならば、当然ながら「説明と同意」それに「自己決定」は絶対的に必要である。
一部の事例だけを根拠として、疑いえない根本原則までも否定するという議論は、世の中の人々を迷わせ、せっかくここまで進歩してきた医者と患者の関係を過去の野蛮な状態に戻すことだと私は考える。