「谷間の百合」から転載。
味の嗜好がそれぞれなように歌の嗜好もそれぞれだが、私も谷間の百合さんにほとんど同意見である。
実は、「この世界の片隅に」の主題歌が「悲しくてやりきれない」だと知った時に、「おお、素晴らしい選曲だ。この作品(漫画原作)のイメージにぴったりではないか」と思ったので、実際に映画(アニメ)を見て、コトリンゴ嬢の歌を聞いた時には正直言ってかなりがっかりしたのである。もちろん、コトリンゴのファンにとっては最高の歌なのかもしれないが、妙に気が抜けたような歌い方で、私にはまったく「悲しみ」は伝わらなかった。いや、力を籠めて歌えというのではないし、谷間の百合さんが言うように「明るく」歌えというのでもない。ただ、無色透明な中に、ある種の絶望を籠めて歌ってほしかった。
そもそも、「悲しくてやりきれない」の悲しみは、空を見上げたり、空を行く雲を眺めている時になぜか湧き起こる、「やるせないもやもや」であり、たとえば戦争への怒りとか人が死んだことへの悲しみのような具体的な対象があっての感情ではない。それだけに「この限りないむなしさの救いはないだろか」と思いつつも、しかし、人が生きるのは、こういうもやもやを心の底に抱いて生きるということだ、という感じがこの歌にはあり、だからこそ「この世界の片隅に」にぴったりだと思っていたわけである。
すずさんはいつも呑気な感じで生きているが、それは「やるせないもやもや」を心の底に押し込めているということでもある。たとえば、自分が結婚した相手と本当に結ばれてよかったのか、それとも水原を自分は愛していたのではないか、あるいは、夫はもしかしたら遊郭の女と関係があるのではないか。そういう不快な感情はこの漫画やアニメの中ではほとんど表面化しない。それは戦争という理不尽な出来事への怒りが表面化しないのと同様だ。しかし、心の奥底には、そういうもやもやがかすかにあるのである。
さて、コトリンゴさんの歌に、そういう「伏流水」は感じられただろうか。
なぜアニメの監督(片淵監督)さんがフォーク・クルセイダーズの歌でなく、別の人にこの歌を歌わせたのか、そこが私には分からない。クルセイダーズの歌があったからこそ、この曲を主題歌に使おうと思ったはずだ。それが、なぜ別の歌手になったのか。私には分からない。
(以下引用)
味の嗜好がそれぞれなように歌の嗜好もそれぞれだが、私も谷間の百合さんにほとんど同意見である。
実は、「この世界の片隅に」の主題歌が「悲しくてやりきれない」だと知った時に、「おお、素晴らしい選曲だ。この作品(漫画原作)のイメージにぴったりではないか」と思ったので、実際に映画(アニメ)を見て、コトリンゴ嬢の歌を聞いた時には正直言ってかなりがっかりしたのである。もちろん、コトリンゴのファンにとっては最高の歌なのかもしれないが、妙に気が抜けたような歌い方で、私にはまったく「悲しみ」は伝わらなかった。いや、力を籠めて歌えというのではないし、谷間の百合さんが言うように「明るく」歌えというのでもない。ただ、無色透明な中に、ある種の絶望を籠めて歌ってほしかった。
そもそも、「悲しくてやりきれない」の悲しみは、空を見上げたり、空を行く雲を眺めている時になぜか湧き起こる、「やるせないもやもや」であり、たとえば戦争への怒りとか人が死んだことへの悲しみのような具体的な対象があっての感情ではない。それだけに「この限りないむなしさの救いはないだろか」と思いつつも、しかし、人が生きるのは、こういうもやもやを心の底に抱いて生きるということだ、という感じがこの歌にはあり、だからこそ「この世界の片隅に」にぴったりだと思っていたわけである。
すずさんはいつも呑気な感じで生きているが、それは「やるせないもやもや」を心の底に押し込めているということでもある。たとえば、自分が結婚した相手と本当に結ばれてよかったのか、それとも水原を自分は愛していたのではないか、あるいは、夫はもしかしたら遊郭の女と関係があるのではないか。そういう不快な感情はこの漫画やアニメの中ではほとんど表面化しない。それは戦争という理不尽な出来事への怒りが表面化しないのと同様だ。しかし、心の奥底には、そういうもやもやがかすかにあるのである。
さて、コトリンゴさんの歌に、そういう「伏流水」は感じられただろうか。
なぜアニメの監督(片淵監督)さんがフォーク・クルセイダーズの歌でなく、別の人にこの歌を歌わせたのか、そこが私には分からない。クルセイダーズの歌があったからこそ、この曲を主題歌に使おうと思ったはずだ。それが、なぜ別の歌手になったのか。私には分からない。
(以下引用)
「悲しくてやりきれない」を悲しく歌ってはいけない。
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