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初恋幻想という「巨大な廃墟」

老年の良い点は、若いころに読んでほれ込んだ小説を、「ゆっくりと深く味わって」読める時間があることだ。気になる箇所があればいくつかの翻訳を比較して考えることもできるし、原書の原文(英文)を辞書を引いて確認することもできる。若いころの知的探索が「世界を広げる」ことだったとしたら、老年のそれは「世界を深く」することだと言えるだろうか。
もちろん、知的巨人たちは若いころから「広く深い」知的探求をしてきたのである。だが、「生きるための仕事」に一日の8時間以上を犠牲にしている人間の読書は、限定された時間でのせっかちな食事になるしかない。
ということで、他の欲求がほとんど消えた老齢者には読書は「現実とは別の様相を見せる巨大な世界」の旅で、大きな娯楽になるものだが、私の場合は老齢で遠視がひどくなったため、ベッド(寝床)での読書が不可能に近い状態で、困ったものである。仕方なく、昼間にソファなどでやる読書が中心になり、そうなると、「単なる使い捨て娯楽」のような内容の小説ではなく、自分自身が思考する楽しみを与える作品が好ましい。
最近断続的に読んでいる「偉大なるギャッツビー」などがそれだ。若いころは、「気になる作品」だったが、映画を見た限りでは「面白さ」はあまり無い作品に思えた。しかし、それは「映画(映像芸術)では登場人物の心情を描くのはほとんど不可能である」という、単純な事実のためであった。「ギャッツビー」は、話の筋ではなく、描写の細部にこそ味(というより触発性)がある作品なのである。

で、昨日読んでいる時、気になった箇所を自分で調べた内容をここに少し書いておく。
(先に、その箇所を引用する。赤字はもちろん、夢人による強調。ギャッツビーが憧れのデイジーに再会した時の話だ。彼はその再会を期待してデイジーがその夫と住む家の対岸に豪邸を建て、週末ごとに無数の客を迎えてパーティを開いていたが、5年目に、やっとデイジーをその家に迎えることができたのである。)



この午後の時間にも、現実のデイジーが夢に追いつかない瞬間はあっただろう。もちろんデイジーが不足なのではない。ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ。デイジーをもーーーあらゆるものをもーーー越えてしまった。



赤字にした部分が何となく「気持ち悪い」印象だったので、英語原文を確認すると、次の文章だった。赤字部分の少し前を含めて転載する。

not through her own fault but because of the colossal vitality of his illusion

翻訳者は、vitalityという言葉の翻訳に迷って「息づく」という、おかしな訳をしたのだろう。しかし、これはその中心的意義どおり「活力、エネルギー」の主旨だろう。で、実は問題は、翻訳者が「colossalという言葉を作者が選んだ意味」に気づいていないことだ。英文に慣れない私が直観で言うのだが、この言葉は英語圏の人間もあまり頻繁には使わない単語だと思う。意味は「巨大な」であり、それに該当する平易な単語はほかにもあるだろう。なぜ作者はここでcolossalという言葉を選んだのか。
それは、この言葉が「コロッセウム(colosseum)」(古代ローマの円形大競技場)を想起させる効果を持っているからだ、というのが私の推理である。言うまでもないが、コロッセウムは「巨大な廃墟」である。まさに、ギャッツビーが構築した幻想が、現実には巨大な廃墟に等しい、「偉大」だが、無益な、儚いものであることを意味するわけである。
そういう意味では、このひとつの言葉は、作品全体を象徴する、重大な単語ではないだろうか。





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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