某サイトから「高島易断」によるこの卦の解釈を抜粋する。
まあ、「艮為山」は「動かない」意味の卦だから「核戦争に至ることはない」と見て良さそうだ。そして「悔滅ぶ」だから、事態は良い方向に向かうのではないか。
(以下引用)赤字部分は夢人による強調。
52.艮為山
□卦辞(彖辞)
艮、其背不獲其身。行其庭不見其人。无咎。
○其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず。其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず。咎(とが)无(な)し。
艮は上卦・下卦共に艮。艮の山と艮の山が対峙している。二つの山が対峙している姿である。お互いに見つめ合っているだけで、近付くことも遠ざかることもしない。
艮の卦は上卦も下卦も一陽が二陰の上に止まっている。陽の性質は上ることにあり、陰の性質は下ることにある。一陽は上っていっても行き場所がないので二陰の上に止まる。
これを人間社会に当て嵌めると、小人(民衆)の上に君子(優れた指導者)が止まって国を治めている形である。
優れた指導者である君子は目先の出来事に右往左往しがちな小人(多くの民衆)と比べて、見識(揺るぎない信念や志)が高いので、他人の意見に左右されない。
侫(ねい)人(じん)の誘惑に心を動かすことなく、毅然として揺るがない人格者である。艮の山のように揺るがない姿形で、心はどっしりと微動だにしない。君子たる者の泰然とした風貌を現している。
以上のことから、この卦を艮為山と名付ける。艮の止まるという意義が発揮される時である。
艮為山の各爻はいずれも応じる関係にない。人間社会に当て嵌めると、人々が交流しても、目と目を合わせないような関係である。誰かの家に招かれても、その家の主人とは顔も合わせないような関係の時である。
上卦の山と下卦の山が対峙して、お互い睨み合っているが、近付くことも遠ざかることもできない時。表面的には親しんでも内心から親しんではならない時である。
それゆえ、艮の時に中るための心構えは、髪の毛一本ほどの僅かな希望も見出してはならない。例え、何か希望を感じることがあっても、相手がそれを受け容れてくれない。
人間が動くときでも背骨は動かない。背骨はいつも止まって動かない。身体は動くけれども、背骨は動かないのである。
「背」と云う字が「北」と「月=肉」とできているのは、「背」と云う字に「内容・意味・意義」があるからである。
人々が様々な希望を抱くのは、鼻や目や耳や口などの器官が感じる情欲から発することが多い。艮為山の時に中ってはそのような希望は叶わない。情欲を制御して、自分の思いや望みを棄て、己を虚しくすることで達観することを目指すしかない。
すなわち、何事にも動じない心を養って、情欲などで心を動かされないように修行するのである。以上を「其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず」と言う。
□彖伝
彖曰、艮、止也。時止則止、時行則行、動静不失其時。其道光明。艮其止、止其所也。上下敵應、不相與也。是以不獲其身、行其庭不見其人。无咎也。
○彖に曰く、艮は止まる也。時止まれば則ち止まり、時行けば則ち行き、動静、其(その)時(とき)を失わず。其(その)道(みち)光(こう)明(みよう)なり。其(その)止(し)に艮(とど)まるは、其(その)所(ところ)に止まる也。上下敵(てき)應(おう)し、相(あい)與(くみ)せざる也。是を以て其(その)身(み)を獲ず、其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず。咎(とが)无(な)き也。
卦辞・彖辞の「其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず」とは、必ずしも隠居や世を遁れて人里離れた田舎に隠れ住み、自らを修めるような生き方をしなさいと云うことではない。また、心を失った人のように、心身を回復するために仕事を休み、社会活動を停止して、家族に養ってもらうようなことを云うのでもない。
天下のあらゆる罪悪や凶行は、自分を愛するあまり、私利私欲に囚われて、情欲を制御することができなくなるから起こるのである。
子どもが父母に孝行を尽くさない。臣下が君主に忠実でない。奥さんが旦那さんに順わない。弟が兄に逆らう。友達同志が信じ合うことができないなど、基本的な人間関係が成立しなくなると、非道い場合には、お互いに騙(だま)し合うようになり、仕事や生活が乱れて、情欲のまま淫行を貪り、遂には残忍な行為に及び、あらゆる罪を犯しても恥じるところがない人間に堕落するのである。
このように堕落していくのをくい止めるためには、その元凶である情欲を制御して、世の中の栄枯盛衰や喜怒哀楽をそのまま受け容れることができるように修養することが肝要である。
人は皆、親の子として、また君主の臣下として、その役割を全うすることが大切である。道義を守り、忠孝を実現することが、人間として世に生まれた大義を全うすることである。
艮の時は、上卦の山と下卦の山が対峙しているように、人と人とが向き合って相容れない時である。
相手の価値観と自分の価値観がぶつかり合う時ゆえ、相手の言行が自分の価値観と合致しない場合であっても、自分の価値観で相手を評価してはならない。
相手を咎めたり批判したりしても、相手は絶対にそれを受け容れない。自分が苦しむだけである。だから自分の価値観に囚われず、相手の価値観をそのまま受け止めて、どのような環境に置かれても、心が乱れないように修養すべきである。以上のことを「其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず」と言うのである。
□大象伝
象曰、兼山艮。君子以思不出其位。
○象に曰く、兼(けん)山(ざん)は艮なり。君子以て思ふこと其(その)位(くらい)を出でず。
艮為山は内卦艮山の外に外卦艮山が在る。二つの山が相対しているのである。内外共に艮山の意義が充ちているので、止まりまた止まると云う時である。これを「兼(けん)山(ざん)」と言う。
山には色々な形状があるけれども、どの山もどっしりとして微動だにせず、その場所に止まっている。
君子(立派な人間)はこのような艮の形を見て、人には様々な価値観があり、色々な地位や立場に在ることを認識して、それぞれの地位や立場でそれぞれの分限を守ることに意を止める。
「蟹は甲(こうら)に似せて穴を鑿(ほ)る」と云う諺(ことわざ)がある。人間は、その人の器量に応じて事に対処しなければならない。このことを「思ふこと其(その)位(くらい)を出でず」と言うのである。
「其(その)位(くらい)」の「位」とは、爵位などを指すのではなく、その人が属している領域の分限を指している。少ししか量がないのに、多くの量があるように見せかけようとする人は、鳥が飛んでいるのを見て、自分も空を飛べるような妄想を抱き、また、魚が水の中で踊るように泳いでいる姿を見て、自分も魚のように泳げるような妄想を抱くものである。
自分の地位や立場における分限を超えて、妄想を抱く人は、庶民なのに国政を司るような妄想を抱き、地位が低い立場に居るのに、地位が高い立場に居なければできない妄想を抱くものである。迷走すること甚だしいのである。
権力者の力を借りて己の野望を計り、逆賊の一員にまで陥落する人は、事の始めにおいて、自分の地位や立場における分限を超えて物事を考えることから堕落が始まる。事の始めの段階で小さな勘違いから正していかないと、驕り高ぶり取り返しの付かない悪事を働いて罰せられる段階に至る。自分の器を知らないで、妄想を抱く人はよくよく戒めるべきである。
□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
六五。艮其輔。言有序。悔亡。
象曰、艮其輔、以中正也。
○六五。其(その)輔(ほ)に艮(とど)まる。言(げん)序(じよ)有り。悔(くい)亡(ほろ)ぶ。
○象に曰く、其(その)輔(ほ)に艮(とど)まるとは、中正を以て也。
「其(その)輔(ほ)」の「輔(ほ)」とは、口の回りの肉である。上卦艮は顎(あご)の形に似ているので、口の回りの肉とする。
六五は陰爻陽位で中庸の徳を具えているので安定しており、物事を抑制する力がある。
君子は言行を慎む。君主は言論が大事、臣下は行動が大事である。だから、君主が命令すれば臣下は命令に従って行動する。
六五は君主の地位に在り天下国家を司っている。天下国家に命令を発するのが六五の役割。その言論は実に重大である。常に自分を戒め慎んでいるので「其(その)輔(ほ)に艮(とど)まる」と言うのである。
「輔(ほ)=口の回りの肉」は、言葉を発するためにある。「輔(ほ)=口の回りの肉」を引き締めれば、妄りに言葉を発することはなく、適切な言葉を発することができるようになる。適切な言葉を発するようになければ、後悔することが少なくなる。「輔(ほ)=口の回りの肉」を引き締めれば、後悔することが少なくなる。
若者はの経験が少ないので、年配の人に向かって徒(いたずら)に議論を挑む人が少なくない。このような若者を戒めているのである。世間知らずの頭でっかちが、無闇矢鱈に先輩に議論を挑んで論破したとしても、逆に世間から疎まれ嫌われるのがおちである。
その口を無理矢理塞いで、言葉を制止するのではない。言葉を発する前によく慎んで考えてから発するべきなのである。よく慎んで考えてから言葉を発すれば失言することはない。それゆえ「言(げん)序(じよ)有り」と言う。よく時間をかけて考えてから言葉を発すると云う意味である。命令を出す場合には緩やかに出せばうまくいくことが多いが、急いで出すとうまくいかないことが多い。
言葉を発する場合には、よく考えてから発すれば相手に受け容れられるが、何も考えずに発すると相手に受け容れられない。
九三は下卦に居て動かない。六五の王さまにも仕えない。六二の忠臣と六四の大臣は陰爻で柔弱だから九三を動かすことができない。六五の王さまが後悔する組織的な要因である。
このような組織的な要因がある中で、只管(ひたすら)柔順中正の徳(柔順な性質と中庸の徳で対応する正しい王さまの在り方)を守り、無闇矢鱈に言葉を発することを慎めば、頑固な九三も自然に王さまの人徳に帰服して、遂には王さまに仕えるようになる。
それゆえ「悔亡ぶ」と言うのである。六五は陰爻陽位なので後悔する形だが、中庸の徳を具えているので、無闇矢鱈に言葉を発しない。それゆえ、後悔することがなくなる。
象伝に「中正を以て也」とあるのは、六五の王さまは最後まで中正の徳を守ることを示しているのである。