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健康と体温

例の医学生さんのブログから。体温と癌(あるいは病気)の間に関連性があるかもしれないというのは私も少し考えたことがあるので、備忘のためにコピーしておく。ストレス(とくに睡眠不足)から来る免疫不全というのも重要な指摘だ。


(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 体温と病気
 泌尿器科の病棟実習で早期の腎細胞癌の患者さんを担当させていただいた。画像で1.7cm大の腫瘍を左腎臓上極に認めたのだが、良性のものなのか悪性 (癌)のものなのかは画像からだけでは診断できなかった。一般的に、癌が疑われたときの腎臓の針生検は、腫瘍への血流が豊富なために播種を招く危険性があり、禁忌ということになっている。したがって、これ以上の診断材料がないため、まだ腫瘍が小さいので経過観察にするか、手術によって摘出するかの選択が問題になった。結局、患者さんの意向が優先され手術を行い、それによって癌であったことが判明した。腫瘍は完全に摘出できたために、結果的に手術をして良かったことになったわけある。

 患者さんは35歳の男性であり、肉体労働だという。35歳の若さでも癌になるのだなあ、と僕は初めてカルテを見させてもらったときに素朴に思った。しかも、身体を使う職業ということで見た目もガッチリしていて、病気とは縁がないような雰囲気を漂わせているのである。いくら小さな癌であったとしても、身体も強そうであり、まだ35歳という若い男性が癌になるということには、どうも釈然としなかったのである。

 しかしその後、ふと温度板(体温や血圧の変動などを記録しているシート)に目を移してみたとき、その疑問が解けたような気がしたのだ。というのも、この患者さんの体温の変動を見てみると、どの日でも35.5℃以上には上がっていないのである。既存の西洋医学ではおそらく、だからどうしたというのだ、という質問が返ってきそうであるが。

 体温と病気は、密接に関連していることは確かである。風邪をひけば熱が出るし、寒ければ風邪をひく。癌になれば熱が出ることもあるし、熱が出ることで癌が治ったという話もときに聞く。体温を上げるような食材を摂ることによって病気が治った、という本も本屋さんに行けばたくさん並んでいる。

 おそらく西洋医学では、35.5℃程度の体温では個人差の範疇として扱われるのであろう。癌のリスクファクターとしての低体温など、まったく聞いたことがないのである。喫煙やさまざまな汚染物質などは、癌のリスクファクターとして問題視されるが、体温の話に至っては、少なくとも僕は正規の授業では一度も聴いたことがない。

 だけど、感染症によって体温が上昇する機能的役割については、おそらく常識であろう。少なくとも現在では、むやみやたらに解熱剤を処方する医師はいないはずである。体温の上昇は、病原細菌の増殖を抑制し、免疫担当細胞の活性化を促すという役割を持っているからである。ということは、これは癌についても同様なのではないだろうか。体温を上げることによって、免疫細胞の活性化を促すことができれば、癌は縮小の方向に向かうはずである。もちろん、どれだけ癌の縮小に対して効力を発揮するのかは分からないが、少なくともそのような方向に働くことは確かなはずである。癌細胞というのは、一般的にも多くの人が知っているように、身体の中で毎日たくさんできているといわれる。しかし、免疫細胞(NK細胞が有名)によってこれが壊されるおかげで、そう簡単には癌になることはないのである。

 ところが、免疫細胞の活性化が弱いとしたら? 免疫細胞の数が少ないとしたら? 若くして癌になっても不思議ではない。平熱が低いということは、普段の免疫担当細胞の活性が弱いということを示唆しているのかもしれない。免疫細胞の活性を弱める原因としては体温以外にもさまざまなものがあるであろう。たとえば、ストレス。ストレスによって副腎皮質から分泌されるコルチゾルは、ヘルパーT細胞のバランスをTh1からTh2へシフトさせ結果的に細胞性免疫(傷害性T細胞やNK細胞など)の活性を弱め、また胸腺を萎縮させる作用を持つ。たとえば、睡眠不足。睡眠中はメラトニンが松果体から分泌されるが、これはヘルパーT細胞のバランスをTh2からTh1の方にシフトさせる。つまり、細胞性免疫が強まることになるのだが、メラトニンの分泌が悪いとやはり細胞性免疫は弱まることになるのである。たとえば、・・・。

 そうした免疫細胞の活性に影響を与えている因子のひとつとして体温があるのである。あるいは、このような因子は相互に複雑に作用を及ぼしあっており、たとえばストレスが強いと体温が下がったり、体温を下げるような生活が睡眠不足を招いたりと、おそらく単一の因子だけに着目していては、本当のところは見えてはこない。だけど、とりあえず今回は、体温に注目してみようということだけのことである。

 担当患者さんのところに話を伺いに行ったときに何気なく聞いてみた。お酒は好きなんですか? ビールは良く飲みますか? 仕事が終わってビールを一杯、という生活を毎日送っているのではないかと思ったのである。ビールでなくても冷たい飲み物は、身体を冷やす大きな要因であると思う。消化管は身体の中に埋まっているけれども、口と肛門の間にある外部とつながった管であり、皮膚と同様に外界と接触する場なのである。皮膚に冷たい水をかけられたら、飛び上がって身体を震わすのだけれども、幸か不幸か、消化管はほとんど冷たさを感じないで冷たい飲み物を受け入れてくれる。皮膚に冷たい水をかけられたら誰だって寒さを感じる。そして、そのままにしていれば風邪をひくであろう。これは特に水が蒸発するときに熱を奪うことで、より冷えをもたらすのだろう。消化管の場合は、中に入った冷たい飲み物は蒸発はしないにしても、最終的にはそれを吸収して体温まで温める必要がある。そのエネルギーの損失はいかほどか?

 人間は、それほど冷たい飲み物を消化管の中に入れることに適した身体にはなっていない。なにしろ冷蔵庫が出来上がってから、1世紀も経っていないのだから。それまでの何億年にもわたる進化の歴史を考えれば、それに適応することなど、とてもできるものではない。おそらく、仮に冷蔵庫というものが大昔からあったとすれば、我々は、冷たい飲み物を口にするたびに飛び上がってこれを避けようとし、ブルブル震えては一生懸命に熱産生をしているのではないだろうか。

 冷蔵庫の発明は、体温の低下をもたらす大きな要因であると思う。現代人の体温は低下傾向にあるという話も聞く。体温の低下は、免疫担当細胞の活性を低下させる。そしてそれは、癌などのリスクファクターになっている可能性があると僕は推測する。もちろん、体温低下の要因は、冷蔵庫で冷やされた冷たい飲み物だけにあるのではない。運動不足もあれば、精神的なストレスも関係しているだろうし、夏なのによく効いたクーラーの下で一日中過ごさなければならない仕事環境などもあるであろう。しかし、こう挙げてみるとどうもどれも現代的な利便性を追及した生活との関係が深そうである。なぜ病気になるのか、という視点でものを見るとき、どうしても進化的に獲得してきた我々の機構とそれに合わない現代的な生活環境に答えを求めたくなるのは、自然な思考の流れだと思うがいかがであろうか。

 と言いながら、よく冷やされたビールを片手にこれを書いている僕であるのだが・・・。まあ、こういう暑い日にはまだいいのかな~と言い訳をしつつ。


 06/05/2004.

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勉強は贅沢であり、娯楽でもある

今年は、毎日ひとつは有益なこと、言い換えれば、時間の浪費ではなく、後に残ることをしようと思う。インターネット探索でも、お気に入りブログばかり見るのではなく、もっと頻繁にネットサーフィンをして新たな賢人たちを見つけてみようと思っている。そうして自分の知的世界を広げることを今年の目標にしてみよう。

下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。


(以下引用)

                    Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
 勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。

 よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。

 そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。

 そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。

 勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。

 勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。

 試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。

 多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。

 このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。

 高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。

 勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。


 02/06/2004.

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語りえないものは語りえない

「人は語りえないものに対しては沈黙を守らねばならない」

小説の中で天才や超人を描く小説家が天才や超人でないことは確かである。ではなぜそれを描けるのか。それは、そこに描かれたものが天才や超人の内面や本質ではなく、その外貌にしかすぎないからである。たとえば困難な事件の答えを「神のごとき名探偵」が示してみせたとき、読者はその名探偵の天才性を信じる。だが、これはもちろん、それ自体がトリックなのであり、その探偵は他の登場人物たちとは異なり、作者が知っていること、すなわち事件の真相を彼だけが特権的に知っているにすぎないのである。そのような天才を描く作者もまた天才に見えるという付随効果もここにはある。推理作家というものは頭が良さそうに見えるのである。
さて、以上に書いたのは、「我々は自分が持たないものをも持っているかのように語ることができる」ということを言うためである。
冒頭のウィトゲンシュタインの言葉は「語りえないものを語る人々」への嫌悪の表明であり、自らへの戒めだったと思われる。すなわち、神について語る人々、たとえばニーチェなどがその対象として考えられるが、ポパーが言うように、「反証可能性」の無いものについての議論は科学の対象にはならない。つまり真面目な考察の対象にはなりえないのである。神についてのあらゆる言説は反証可能性を持たない。したがって、いくらでも好きなことが言えるのである。神を否定する議論もまた同様だ。
そういう思考者の節度を述べた言葉として、ウィトゲンシュタインのこの言葉は理解できるが、論理的に言うならば、実は人は語りえないものに対しては語りえないのであって、語りえないならば沈黙するしかないのである。つまり、この言葉は「ねばならない」という当為の形式で述べるのは間違っているということになる。我々はウィトゲンシュタインのあの天才的な風貌の写真に騙されて、これを深遠な言葉のように思うが、これは案外と気分的な言葉にしかすぎないのである。

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事実の言語化

自分が見たものや聞いたものを完全に記憶できたら、素晴らしいだろうな、とよく思うのだが、それ以前に、自分は物事をどれだけきちんと見たり聞いたりしているのかと考えると、非常にこころもとない。自分が物事をきちんと見ていないのは、たとえばスケッチなどをしてみようとすると、すぐに分かる。物事を正確に見るというのは、なかなか大変な作業なのだ。カメラでパチリと写すというような具合にはいかない。そして、見たものを映像のままで記憶に残すのと、言語化して残すのとでは、また違う作業になる。
小説家などは、映像の言語化の達人たちである。もちろん、自然音声の言語化の達人でもある。深沢七郎が、「自分は絵が描きたいのだが、その能力が無いので、文章で絵を描いているのだ」と言ったことがあるが、視覚や聴覚を言語化するのは、普通の人間ではなかなかできないことである。
聴覚の言語化の天才は宮沢賢治、味覚の言語化の天才は東海林さだお、視覚の言語化の達人は、いろいろいそうだが、これが最高だ、という人間は思いつかない。というのは、我々が文章を読む場合、それぞれの頭の中でそれぞれに違ったイメージを作りながら読んでいるので、甲の人間にとっての最高の作家が、乙の人間にとっての最高の作家だとは限らないからである。
19世紀の小説家は、情景描写に工夫を凝らしたものだが、現代の読者はそうした情景描写を読む手間さえも面倒臭がる。そういう時代的相違というものもある。すぐれた作家の情景描写の特徴は、読んでいる人間が分かったような気分になるところにある。実際、それがどんな情景かは、実はあいまいなことが多いのだが。

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話し手の得意顔のこと

前の記事への補足をする。
「蘊蓄話」への嫌悪は、そういう話をする時の話し手の得意顔がいやなのだ、とも考えられる。それならば、納得できる話だ。
私が嫌いな作家の中には、やはりそういう「書き手の得意顔」を感じさせるという人がいる。多芸多才な人間で、ある種天才的であることは確かだが、「自分が思うほど天才ではないよ」と言ってやりたくなるのである。
小説で一番大事なことは、読んでいて楽しいことや、読んだ後の後味の良さであり、小説としての高度さや上手さなどは読者にとっては二の次三の次だと私は考えている。そういう点ではその小説家は私が読みたくない小説家だ。
蘊蓄話への嫌悪には、そういう話し手への嫌悪があるとも考えられる。

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蘊蓄話への嫌悪と劣等感

昔、職場の同僚に若い女がいたが、その女が何かの雑談の時に、「自分は他人の蘊蓄話を聞かされるのが大嫌いだ」というようなことを言ったのを聞いて、ひどく驚いたことがある。世の中にそういう人間がいるとは想像もしていなかったからだ。彼女の言う「蘊蓄話」がどういう意味合いのものかまでは聞かなかったが、他人から蘊蓄話を聞かない限り、こちらの教養も知識も増えないのではないだろうか。
もちろん、彼女の言う「蘊蓄話」とは、「役にも立たない知識」という意味かもしれないが、そうだとしてもそれが役に立つ知識かどうか、簡単に決められるとは限らないだろう。たとえば、私が聞いた中で一番役に立っている知識は学校で教わった数学や物理や化学の知識ではなく(その女性は理系の女性だったから、わざとこう言うのだが)父親から聞いた言葉である。それは「ソバを食べるのに、噛む必要はない。丸呑みしていい」という言葉である。それまで私はソバを食うのに口の中で何度も噛んで食べていて、この世にソバほどまずくて食いにくいものは無いと思っていたのだが、ソバの食い方を知って以来、大好物の一つとなった。
あの女性は「蘊蓄話」をされると、自分の知的劣等性を思い知らされる感じがして嫌だったのではないかと私は想像している。だが、あらゆる向上は、まず自分が劣っているという正直な認識から始まるのである。他人が何かの点で自分より勝っていても、別に劣等感を持つ必要はない。他の点で自分が勝っているところもあるはずなのだから。

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E.M.フォースターの言葉(続き)

(イギリスにおける「反逆煽動法」の議会成立に際して)
(この法律に対して)強い抗議がよせられたにもかかわらず、その事実は新聞でもBBCでも報道されませんでした。抗議は無駄ではなく、原案の比較的危険な条項は委員会に上程中に撤回されました。この種の法律は、政府が危急の場合にそなえて用意しておくもので、ただちに使おうというわけではありません。それにもかかわらず、効果は即座に現れます。ある印刷業者が平和主義的な児童書の印刷をことわったという噂がありました。この本が軍人の手にわたって、反逆を煽動したとされては困るというのです。この印刷業者はあまりにも臆病です。しかし、必ずこういうことになるのであって、またそれがこの種の法律を制定するときの狙いなのです。一般大衆は何となく怯えて危うきには近づくまいとするようになり、行動でも発言でも、ものを考えるにも、いつもより控えめになります。このほうが、法律を現実に行使する以上のほんとうの弊害なのであります。心理的な検閲が成立して、人類の文化遺産を歪めることになるのです。(「イギリスにおける自由」より)

酔生夢人注:官僚による心理的民衆支配の例として掲載。これは戦時中のイギリスの事例だが、現代の日本でも同様の手法の民衆抑圧は定期的に生じている。(下線は酔生夢人による)

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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