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読書とは何か

まあ、あれだ。年を取って性欲も物欲も希薄になると、毎日の楽しみは「認識の喜び」だけになるのではないか。食欲などもかなり寿命は長いが、老人は食える量そのものが制限され、歯が無くなると固い物は食べられない。老眼でも遠くの物はかえって見やすいから、風景の美に興味のある者は「物を見る喜び」はかなり長続きする。これも「認識の喜び」だ。もっとも、海を見ても山を見ても木や草花を見ても壮大な夕焼けを見ても静かな夜明けの空や遠くの地平を見ても何の美も感じないとなると、老年の喜びとして何があるのだろうか。地位の高い人間なら他人を怒鳴りつける快感とか?
読書の喜びなども、単なる娯楽小説だと「認識の喜び」はほとんど無い。毎度おなじみのパターンで、いわばコンビニ弁当のようなものだ。すぐれた小説や随筆や論文を読むことは、すぐれた知性の人間との対話ができるという「特権」だ。つまり、読む側にある程度の知性が無いと対話はできない。そういう文章を読むことは、先に書いた「コンビニ弁当」に対して「超一流シェフの作った料理」を味わえる、ということなのである。だが、味覚音痴にはその料理もコンビニ弁当と同じ、いや、牛や馬の餌と同じだろう。逆に、牛や馬の餌が「電通商法」によって「一流料理」扱いされることもよくある話である。
まあ、とりあえず、「年月によって評価が定まった古典」は品質保証の一流料理だろう。で、一流作家の小さな作品も、やはり一流の料理なのである。これは、寝起きに夏目漱石の「カーライル博物館」という初期随筆を読んでの感想だ。我々は夏目漱石の目や頭脳を通して、世界の事物を眺めるという、貴重な経験、大袈裟に言えば「至高体験」ができる。これが読書というもので、ネットでの「情報収集」とはまったく別物だ。私の考えでは、この読書体験は「紙媒体」でないとかなり難しい。
ただし、ショーペンハウエルが「読書について」で言っているように、読書がしばしば「自分の頭を他人の思想の運動場にする」だけで終わることも多いだろう。
年齢を重ねることで読書能力が増すのなら、年を取るのも悪いことだけではない。





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この世から風邪やインフルエンザを無くすのは不可能

「謎」でも何でもなく、「高齢者は風邪でもインフルエンザでも致命的になる可能性が高い」という当たり前の話なのだが、それを「オミクロン怖い」に結びつける愚が全国的に広がるのではないか。
年寄りは、自分で気をつければいいだけの話だ。で、風邪やインフルエンザにかかったら致命傷になりかねない、という意識を持つべきである。ついでに言えば、「転倒骨折」から寝たきりになる、というのもよくある話らしい。これらは「自己防衛」、あえて言えば、最近不評な言葉だが「自己責任」の問題であり、家族もそれ(老人の風邪や転倒事故)への注意をすべきだろう。

(夢人追記)「世に倦む日々」氏の「新コロはインフルエンザではない」論である。要は「新コロには治療薬が無い(従来のインフルエンザ治療薬が新コロには効かない)からインフルエンザではない」という主張のようだ。タミフルがインフルエンザに効くかどうかも疑問だし、はっきりと覚えていないが、危険な副作用のため使用禁止になったのではないか? 風邪薬は基本的に「対症療法」つまり、症状を抑えるものであって、風邪そのものを治すものではないだろう。まあ、葛根湯などの漢方薬のほうが「体温を上げることで免疫力を高める」という点で「風邪そのものを治す」効果がありそうだ。常に人々の周囲に存在する細菌やウィルス(これが本当に実在するかどうかを疑う意見もある)をすべて消滅させるのは不可能であり、本気でそれをやればそれこそ麹菌などまでも消滅させるだろう。もちろん、人間そのものが常在菌で守られている面もあるのである。

橋下徹や安倍晋三は、コロナはインフルエンザと同じだから感染法上の分類を5類にせよと喚いている。この主張が昨年からずっとマスコミで刷り込まれ、正論のような扱いで有力な政治論調になっている。NHKでもそのプロパガンダが歯止めなく拡散されている。誰も正面から批判しない。小池晃は、今年に入って報道1930のコロナ特集回に二度出演したが、5類に変えろというネオリベ政策に対して反駁と糾弾の論陣を張らず、1/31の放送ではむしろ納得して容認するような姿勢を見せていた。我慢できない。この主張には虚構と陥穽がある。われわれはトリックに騙されている。

インフルエンザには検査と診断があるではないか。タミフルがあり、ワクチン予防もあるではないか。騙されるな。インフルエンザはコロナと同じではないのである。発熱した、咳が出る、インフルエンザに罹ったかもしれないと思ったとき、人は健康保険証を持って内科医に受診に行く。そこで検査を受け、陽性なら治療薬を処方される。風邪なら抗生物質をもらって帰る。医療を受けられる。橋下徹や黒岩祐治のコロナ対策、それが現実に施策発動された今回の厚労省の通達はそうではない。医療の提供はしないから自己責任で治せと言っている。



(以下「阿修羅」より引用)

オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/409.html
投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 2 月 04 日 22:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 




オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/300911
2022/02/04 日刊ゲンダイ


沖縄県の感染者数の減少傾向は顕著だが…(玉城デニー沖縄県知事)/(C)日刊ゲンダイ

 3日の新型コロナの新規感染者数はとうとう10万人を超えた。ピークが見通せない中、いち早くオミクロン株が流行した沖縄は新規感染者数の減少傾向が顕著となる一方、入院患者と施設療養者はいまだ増え続けている。ピークアウトで安心はできない。全国でも同じことが起こる可能性が高い。

 ◇  ◇  ◇

 沖縄では昨年末、在沖米軍基地のクラスターから市中感染が拡大した。新規感染者数は元日の52人から7日には1400人を突破。その後、15日の1829人をピークに減少に転じ、3日は652人で10日連続、前週の同じ曜日を下回った。

 ところが、感染者数がピークアウトしても入院患者と施設療養者数は増加傾向が続いている。感染者数が過去最多だった15日の入院、施設療養者は688人だったが、3日は883人。3割近くも増えている。県に聞いた。

「沖縄では当初、入院リスクが低い若者の感染が中心でしたが、だんだん高齢者に広がっていきました。高齢者の場合、入院が必要なケースが少なくないため、入院患者が増えています」(感染症対策課)

 2日の厚労省専門家組織「アドバイザリーボード」でも、沖縄の高齢者の感染増に伴う入院患者の増加傾向が取り上げられた。脇田座長は「今後は他の地域でも同様の傾向が見られる可能性がある」と警告している。

若年層から高齢者に感染広がる


3日、国立国際医療研究センター病院にコロナ患者を搬送する医療関係者(C)共同通信社

 西武学園医学技術専門学校東京校校長の中原英臣氏(感染症学)が言う。

「オミクロン株は当初、若年層の感染が多かった。入院は少なく、重症、死亡例もまれでした。そのため、『軽症がほとんど』との楽観論が広がった面があります。ところが、ここへきて、若年層から高齢者に感染が広がり、全国的にも入院患者、重症者、死者が急増しています」

 3日発表された全国の重症者数は911人。900人を上回るのは4カ月ぶりだ。死者は90人確認され、第5波の最多(89人)を上回った。

 感染者数がピークアウトした沖縄はそのうち入院患者も減少に転じるとみられる。しかし、アドバイザリーボードは「全国的にピークがいつ来るかは見通せない」との分析結果を示している。全国の重症者と死者はしばらく、増え続ける可能性が高い。

 オミクロン株は「弱毒化」が指摘されているが、なぜ、重症者と死者がこんなに増えるのか。

「これまでの新型コロナと異なり、オミクロン株は肺炎の症状は少なく、弱毒化しているのは事実です。ただし、基礎疾患がある高齢者が感染すると危険です。感染した時は軽症でも、その後、持病が悪化し、重症化したり、死に至るケースが起きている。医療が逼迫し、適時・適切な治療が行き届かなければ、さらに深刻な事態も起こり得る。宿泊施設をもっと活用し、今からでも臨時医療施設を増設し、ピークアウト後の医療体制を整えるべきです」(中原英臣氏)

 沖縄の先取り事例を参考にピークアウト後に備える必要がある。
 


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馬鹿国民帝国日本は滅亡するか

「バカ国民帝国日本の滅亡」から一部転載。
まあ、孔徳秋水氏は時々鋭い発言をするのだが、「金融資本主義」の支持者なので、その発言の大部分はクズであるwww 眉に唾をつけて読むと、得るものもある。これは多くのブログがそうである。信頼できると思っていた書き手が、いつの間にか変節していた、ということは多い。とりあえず、記事と広告を併存させているブログのほとんどは、私はあまり信じない。もちろん、性格が偏屈なため、あるいは頭が悪いため、あるいは無知なために、正直に発言してはいても、その発言の中にあまり感心できないものが混ざることはよくあることで、私など、その代表だろうww 
白人の毛唐呼ばわりなど私はよくやるが、ポリコレ的には非難轟々だろう。私は江戸幕府や幕藩体制の批判者だが、「鎖国政策」は日本の平和と温和な国民性を守ったと思っている。江戸時代の人間は西洋人を毛唐と読んで警戒していたのである。その警戒は正しかった。見かけの問題だけでなく、異民族(異文化の人間)は精神性が異なるのだ。今の日本の大富豪(大企業所有者)の異常に利己的な精神性は、日本人の伝統的精神(倫理性を利益や富裕さより優先する)ではない。見かけは日本人でも、精神が違うわけだ。疑うなら、江戸末期や明治初期の日本人庶民の精神の素晴らしさに感嘆した訪日外国人たちの多くの手記を見ればいい。
下の記事に関しては、ほぼ同感である。毛唐の「精神的奴隷」となって貢物を続けた結果が、今の貧国日本である。その次は憲法改悪で自衛隊の国軍化と戦争参加だろう。まあ、そういう馬鹿国民帝国は滅亡しても仕方がないだろう。
要するに、今の日本人にもっとも欠けているのは「正しい批判精神」である。その「批判」が大マスコミ(表マスコミ・通称マスゴミ)や体制の犬(これは右だけでなく左側もそうである場合が多い)には「陰謀論」と呼ばれる。

(以下引用)


明治のころは留学しても批判的に学んで、ケトウの文化に染まることは少なかったが、


 


近頃は、猫も杓子も留学して、ケトウの文化を鵜呑みにして帰ってくる。


 


だから、大学教授や政治家の質が、とんでもなく落ちている。


 


 


優秀な人間は、そもそも日本に帰ってこない。


 


そんな帰ってきた落ちこぼれを拾っていれば、30年でも50年でも「失われる」だろう。


 


 


明治のころは帰国しても、西洋かぶれにならず、


 


この程度なら日本の方がもっとすばらしいと確信して、ポチにならない者が多かった。


 


 


いまや、みんなポチではないか。


 


 


もっといえば、アメリカだのフランスだののスパイではないか。


 


 


だから、伊藤元重あたりも読売で米英に都合のよいことをのたまうのだ。


 


「グリーンファイナンス」や「カーボンプライシス」が「市場メカニズムの活用」などと言っているが…


 


それは、単なる「アメとムチ」というやつであろう。


 


 


だいたい二酸化炭素が増えて人類が滅びるなんてことがあるだろうか?


 


原発が増えて人類が滅びるというほうが現実味があると思うのだが、


 


原発はクリーンエネルギーだというのだ。


 


 


こんなものの、どこが「科学」なのか?


 


 


しかも、個人の「脱炭素」行動を「見える化」するんだと環境省が言っている。


 


オイオイ、中国よりヤバイじゃないか、日本は!!


 


 


カネで個人を追跡し、


 


位置情報や病歴で個人を追跡し、


 


さらにCO2で個人を追跡するのだ。


 


もう、息をすることもできないよな!


 


 


そのうち、ボタン一つで個人をいつでもどこでも抹殺できるようになるだろう。


 


「死因」もいくらでも捏造できるからね~


 


 


コミュニズムの社会では、「自分のもの」がひとつもなくなる。


 


それは、「みんなのもの」であり、「国家のもの」なのである。


 


 


「格差が嫌だ」という人たちが落ちていく無間地獄は、もうすぐそこにまで迫ってきている。


 


 


話を戻すが…外国との付き合いもよしあしで、


 


外国かぶれが徒党を組んで権力を私物化するのが「世の常」なのである。


 


なかには、公然と国益より外国の利益を優先する工作員が権力中枢を跋扈するようになる。


 


 


だから、日本は時々「鎖国」をして、独自の文化を育ててきた。


 


遣唐使とかが中止されるのも、そういう事情が背後にあったのだ。


 


 


外国とつるむ奴が国を滅ぼすとは『韓非子』にも書いてある。


 


そう…


 


「国際化」は、やりすぎたのだ。


 


自分を見失うようでは、もはや「国際化」も有害でしかない。


 


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石原慎太郎の死



石原慎太郎が亡くなったそうで、まあ、人間性はどちらかと言えば嫌いだったが、その作品にしても政治発言にしても、「思ったことをズバズバ言う」姿勢は、なかなか貴重だったのではないか。要は、その発言や作品を正しく捉え、肯定するか否定するかという受容側の問題だ。同じ暴言人間でも、少なくとも麻生太郎よりははるかに知性も教養もあったとは言える。そりゃあ、文学者であるのだから当然だ。
私自身、若年のころは、彼の作品を読んで、「或る種の、あるいはすべての人間の本性を実に見事に書いているなあ」と感心させられたものだ。ヤワな人間には、どれほど体験しても分からない「人間の真実」を描いていたわけだ。まあ、「処刑の部屋」など、その後に何度となく起こる若者の残虐殺人事件を予告していたのではないか。
もっとも、彼の作品を私が好きかどうかと言えば、嫌いであり、若いころの「読書体力」のある時期でないと読めない。昨日、映画で「三文オペラ」を見ようとしたが、主人公の悪党ぶりに嫌気がさして、途中で視聴放棄した。石原慎太郎の初期作品に多いのだが、「悪を主題にした作品」というのは視聴感や読後感が悪いのである。ただし、「三文オペラ」の主題歌の「匕首マッキー(メッキ・メッサー)」は大好きで、ボビー・ダーリンがこれを歌う動画の恰好良さは一見に値するのでお勧めだ。
悪というのは刺激的なので、文学や映画の主題になりやすい。善というのは「見ても面白くない」のであるwww その面白くなさのためか、世間の人間の中には、自分に無関係でも、他人の善を見るとすべて「偽善だ」と攻撃する馬鹿もいる。(もっとも私は「偽善(本心からではなく、無理に行う人為的善)」は大事だ、と思っている。それによって世界はまともに動いているとすら言えるのではないか。心に悪を抱いて善行を為すほうが、心に善を抱いて悪を為すよりはるかにマシである。)

石原慎太郎には「明朗青春小説」とでも言えそうな作品が幾つかあり、「青春とは何だ」や「おおい雲」などはテレビドラマ化や映画化もされていたと思う。非常に面白く読後感もいいので、若者にはお勧めだ。「野蛮人のネクタイ」なども面白い。

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日本文化の源流としての宮廷文化(王朝文化)



いやあ、「徽宗皇帝のブログ」記事の文章で「谷間の百合」さんから怒られてしまったが、文化方面のことなので、こちらのブログに「弁解」を書いておく。ww
私のブログは、構成も結論も何も考えず、思い浮かんだことを書き流していく(書き飛ばしていく)書き方なので、文章内容には誤りや考え違いも多いのだが、谷間の百合さんの指摘は、その通りだと思う。
ただ、弁解すれば、「江戸時代の庶民は天皇の存在などほとんど知らず」とは、「現在の(当時の)天皇が政治的にどんな存在でどんな暮らしをしているか、ほとんど知らず」と書くべきだっただろう。あるいは、谷間の百合さんが言うように、全国津々浦々の人々すべてが都にあこがれを持ち、都の噂話をしていて、天皇への関心も高かったのかもしれないが、私の知っている知識には、それは無かったので、ああ書いたわけである。あまりに情報過剰で逆に情報の内容を深く考えず、今日聞いたことを明日には忘れているような軽薄な現代人の感覚で、伝統と共に落ち着いて生きていた江戸時代の人間のことをいい加減に書いてしまったかなあ、という反省はある。
まあ、自分の生活、目の前のことだけで汲々としている現代のサラリーマンと、ゆっくりと時間が流れ、娯楽情報に飢えていた江戸時代の人間を等し並みに扱ったのは間違いだった。
なお、日本の「生活文化」のほとんどは宮廷から下に流れていって形成されたもので、「王朝文化が日本文化の源流」というのは私も強く同感する。そして記紀万葉が敗戦以前の日本人の精神の底流にあったということも同感する。そもそも、記紀万葉が日本語そのものの土台なのであって、「日本人とは日本語が使える民族だ」と言っていいくらいなのである。(なお、ここで「同感」した内容は、私が谷間の百合さんの考えと推測したもので、下の記事そのものの趣旨を誤解している可能性はある。)

(以下「谷間の百合」から引用)赤字部分は酔生夢人による強調だが、「皇室」というより「宮廷」全体だと私は考える。(もちろん、その中心は天皇であり皇室だが。)「枕草子」や「源氏物語」無しに日本の文化は存在しない。などと言いながら、私自身は「源氏物語」は通読していないがww 応仁の乱によって宮廷貴族たちが地方に流れて宮廷文化を伝えたのが現在の日本の生活文化の基礎だ、というのは定説だろう。日本人の精神文化も同様である。



国民が天皇を認識したのは明治に入ってからだと思っている人がたくさんいますが、中庸、中道の人でわたしがその記事から考えるヒントを多々貰っている「徽宗皇帝のブログ」の管理人さんまでが「江戸時代の庶民は天皇の存在などほとんど知らず」と書いておられて残念に思いました。
今では信じられないくらいむかしの人にとって天皇は身近な存在でした。
国の成り立ちの物語「古事記」はよく知られていたと思います。
物語に出てくる人物が残した足跡はあちこちにあり、なによりも全国津々浦々にある神社がまつっている神の祖先は天照大御神です。
天の岩戸は近くにもありますが全国に何か所もあるようです。
人々が天照大御神を知っているということは、天皇を身近に感じていたということです。
神社は村にとって最も大事な場所であり、それによって最小単位のコミュニティが成り立っていたのだと思います。
つまり、神社に祀られている神(天皇の租)が紐帯となって国民のこころを繋いでいたということになります。
それで日本は纏まっていたと。
歴史は皇室と共にある。_c0243877_10433424.jpg
現代を情報化社会と言うのは間違いです。
情報はあってもほぼ個人のところで止まっています。
また、マスコミが独占している情報は国民を洗脳するツールになっています。
むかしは、いまでは想像もできないくらい人の往来が盛んだったと思います。
旅人が茶店や宿で立てていたであろう「さんざめき」が聞こえてくるようです。
行商人や旅行者、行脚の僧や絵師や浪人などによって「都」の出来事が、人の体温を通じて全国に伝わっていきました。
人々の「都(皇室)への関心は今の比ではありません。
「都」のことを知りたいという欲求は知識慾以上に娯楽だったのだと思います。
どんな貧しい農家にも神棚には「天照大御神」のお札があり床の間には掛け軸がありました。
江戸時代から神社が各家庭に配っていたそうです。
お伊勢さんには全国から、もちろん江戸からも参拝に行く人がたくさんいて、足を延ばして京見物に行った人もいるかもしれません。
現代より、日本は狭かったのです。
いかに、神々と皇室が身近な存在だったかということです。
万葉集は庶民にも知られていたと思います。
丁度ドラマの時代と重なるのが、藤原定家によって成った「百人一首」と、後鳥羽上皇の命により編纂された「古今和歌集」です。
いろはかるたが子ども用だとすると百人一首かるたは大人の庶民の間でも流行っていたのではないでしょうか。
皇室の文化は皇室の独占物だはなく、すべて庶民に伝わっています。
皇室を外して日本の文化はありません。
村祭りからひな祭りまで、皇室の行事から始まり広まったものです。






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欧米民族と日本人の間の深くて暗い河

「大摩邇」所載の井口博士の記事の一部だが、わたしはこのheaveneseという動画サイトを見たことがない。右翼臭がするからである。いや、私自身保守主義者で、人から見れば右翼臭い記事も書いているかもしれないが、何度も言うように社会主義者であり同時に民主主義者であり、尊皇主義者でもあるww 宗教は好まないが仏教にもキリスト教にも神道にも、それぞれの良さがあると思っている。だが、それが党派性を持つことで、教義の倫理性より党派利益を優先するから宗教の悪い面が拡大されるわけだ。これは、右翼でも左翼でも同じだ。他党派に対して、その良さを認めず、「あいつは敵だ。敵は殺せ」となるのが、党派性である。その党派性とは要はエゴイズムの拡大でしかない。
まあ、それはともかく、下の記事を転載するのは、ここに書かれた「言語ギャップ」の問題、あるいは「翻訳不可能性」の問題は、多くの人が気づかない重要なポイントだろうと思うからだ。私自身、何度かそれについて書いている。
なお、欧米人が「Love=sex」民族であることが、新コロでのあの惨状につながったと私は思っている。要するに「愛情を示すこと=キスやハグという肉体接触」という民族性のことだ。
しかし、オミクロンが日本でも急速拡大したのだから、オミクロンは「空気感染力」が強いと見るべきだろう。まあ、どうせ風邪に毛が生えた程度の症状にすぎない。

(以下引用)
ところで、最後のHeaveneseアレンジの「君が代」も好きだが、その最初と最後の英語歌詞の中にMajestyということばが出てくる。
しかしこれは、日英の文化ギャップの起こる原因の1つの典型をみているようで、あまり俺は好きではない言葉である。
どういうことかというと、日本語には英語に翻訳できない概念がたくさんあるが、それを一度英語に訳すとその途端に英語脳の意味に変化してしまうからだ。相手の英語脳はそれで納得するのだが、それは英語の意味を自覚しただけで、我々日本人がそれに含めたかった意味は失われているのである。
こういうふうな場合、言っている日本脳と聞いている英語脳の双方で納得してそれぞれに合点がいって頷くことができるが、同時にお互いに別の意味を頭に浮かべ、実際にはまったく理解し合えていないのである。
日本人は、天皇の呼び方→陛下→Majestyと考えるが、外人は、Majesty→King, Emperorに対する呼び方と考えるのである。
天皇→Eemprorと考えるが、外人はEmperor→King of KIngs→dictator(独裁者)と考えてしまうのである。
他にも卑近な例は、日本人は、相手を大事に思うこと→愛→Loveと考えるから、I love youというと、「あなたを大事な人だと感じています」という意味で伝えるが、それを聞く外人は、Love→make a sexと受け取るため、「こいつは俺とセックスしたいんだな」と受け取るというような、誤解が常に生まれるわけだ。
だから、本当に伝えたい文脈が理解できるように、同じ内容をいくつかの表現で言わないと、外人には伝えたいことの真意は伝わらないのである。
こういう誤解が日常茶飯事起きている。だから、英米人と日本人は異星人とみたほうが良いと俺が言う理由である。
本当に理解し合えるということはない。あくまでコミュニケーションあるいは性的交渉できるだけのことにすぎない。

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政府の「棄民政策(?)」への「世に倦む日々」氏の批判

「世に倦む日々」記事で、この筆者の考えに私は反対なのだが、とりあえず叩き台として(記事を叩くという意味ではないww)転載しておく。私は「世に倦む日々」氏の硬直的な思想傾向には批判的だが、その真面目さや熱心な研究心は尊敬している。
なお、政府自体が「棄民政策」をしたのではなく、「各自治体の判断に任せる」ということであり、これはワクチン接種の場合(「接種するかどうかは個人の判断に任せる」)と同じパターンである。新コロ問題に関しては強圧的に、全国一律の政府決定に従わせるべきだ、というのが「世に倦む日々」氏の考えなのだろう。それをやったイスラエルや欧米諸国の惨状を知っているのだろうか。

(以下引用)

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14444792.png今回の棄民政策はどういう経緯と背景で方針決定されたのだろう。以下はその政治的正体についての推察である。普通に考えて、岸田文雄のイメージはネオリベの範疇と属性から遠い。宏池会は新自由主義とは距離のある政策集団だ。総裁選総選挙の公約と政見を聞いた印象でも、安倍晋三や菅義偉のネオリベ一色の感染対策とは異なる方向性が期待された。12月から始めた無料のPCR検査センターの開設なども、微弱ながら脱ネオリベを標榜する岸田カラーの発現の一端だろうと好感して眺めていた。

その岸田政権の厚労省から、今回突然、PCR検査しません、自費で転売ヤーから抗原検査キット買って調べなさい、陽性が出たら自宅で健康観察しなさい、保健所は忙しいので面倒みません、という驚くべき対処方針が発表された。菅義偉以上にグロテスクな極超ネオリベの棄民政策の発動であり、冷酷な弱者切り捨ての処断である。正直、衝撃を覚えて狼狽する気分を否めない。本当に岸田文雄がこの政策を了承し裁可したのか。なぜ葛藤も躊躇もなくこのような暴挙の意思決定に出たのか。




今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14445723.png厚労省が新方針を出してマスコミが報道した直後、26日、神奈川県の黒岩祐治が、医師の診断と確定検査を経ず、抗原検査キットで感染を自分で判断して療養する「自宅療養」の措置を始めると発表した。健康管理と食事調達は自己責任だと言い切り、パルスオキシメーターの貸与もせず、看護師らによる健康観察の電話も取りやめると堂々と宣言している。26日の神奈川県に続いて、27日には大阪府が、28日には千葉県が「みなし陽性」の制度導入を始める旨を会見で告知した。厚労省の新方針の具体化の流れ作業だ。

厚労省の24日の通達文書には、「自治体の判断で下記の(新方針の)対応を行うことが可能である」と書いてある。自治体にとっては少なからずショッキングな内容に違いないが、要するに、神奈川県や大阪府や千葉県とはネゴが終わっていて、根回し済みだという裏であり、これらの新自由主義府県をアーリーアダプターとして新方針が五月雨的に全国自治体で実施される進行が想定されている。つまり、この棄民政策が、ネオリベ知事とネオリベ厚労官僚の間で事前に水面下で連携され合意されている。知事会から異論が出ず、波風が立っていない。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15151239.png通常、こんな過激な棄民政策が厚労省から出れば、知事は「県民の命と健康に責任がとれない」と反発するものだ。検査キットと治療薬の配布供給ぐらいは国が保障しろ、と要求するものだ。一体、この政治の真相は何なのだろうか。私が推理する図式の中でおのずと視線が向かう人物は、コロナ対策担当相の山際大志郎である。この男が全体の根回しの中軸に位置するのではないか。検査キット不足の問題を共産党議員が予算委で質問した際も、この男が答弁に立っていた(首相や厚労相ではなく)。西村康稔の後釜でポストに就いた目立たない男。

小物で目立たないので注意してなかったが、実は毒々しく生臭いプロフィールを持っていて、いかにも今回の棄民政策の立役者に相応しい。まず何より、この男は甘利明の最側近である。そして、ひょっとしてと思って確認したら、やはり選挙区は神奈川18区(高津区と宮前区)
だった。天下のネオリベ伏魔殿。東の大阪府。その中堅幹部。神奈川ネオリベ一家の陣笠ということは、菅義偉の息もかかっている。甘利明の子分だから麻生派であり、甘利明と麻生太郎が内閣に押し込んでいる。甘利明と麻生太郎の手足であり、甘利明の名代として、麻生太郎が放った目付として、岸田文雄をチェックしリモコンする特殊任務の隠密閣僚なのだ。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15212482.pngそして、外せないのが策動に噛んだ分科会のネオリベ専門家である。それが誰なのか、恐縮ながらものぐさで調査と特定に至っていないが、マスコミ報道に匿名で発言して頻繁に登場する。この男が、岸田文雄が分科会を開かないとか、分科会の意見と立場を軽視しているとか批判と不満をタレ込んでいる。岸田官邸を揺さぶって牽制をかけ、感染症対策の主導権を握る立ち回りを演じている。安倍・菅時代の人事産物である分科会に冷淡な岸田文雄からヘゲモニーを奪うべく暗躍している。この分科会のネオリベ専門家と山際大志郎が密謀し、黒岩祐治などと謀計して、今回の棄民政策が立案され厚労省の施策となったのだろう。

感染症対策をめぐってのネオリベ陣営のカウンター攻勢である。当然、背後に安倍晋三の存在があり、安倍晋三と岸田文雄の静かな暗闘が影を落としている。ネオリベ勢力を側面支援し、マスコミに岸田文雄の悪口を言わせているのは安倍晋三だ。岸田文雄の高い支持率が気に入らず、感染症対策を公共主義寄りに転換しようとする動きが不快なのだ。12月からずっと5類に変えろと喚いてきたのも、維新・ネオリベ系と安倍晋三だった。オミクロン株の感染爆発の機会を捉え、いわばクーデター的な電撃作戦で、恐怖の棄民政策を一気に政府決定にしてしまった。安倍晋三と麻生太郎はほくそ笑んでいるだろう。菅義偉と橋下徹も。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15241744.png棄民政策を獰猛に推進するネオリベ族のコロナ対策の理想は、英国ジョンソン政権の規制撤廃であり、その発想の疫学的根拠は「集団免疫」論にある。社会成員の一定の割合が免疫を持つと、感染症に対する防疫は達成するという考え方だ。この考え方に従って、英国では2年前の当初、コロナに対してノーガード・フルオープンの姿勢で臨んで挫折し、スウェーデンでも同じモデルが採用されて失敗した。失敗して犠牲を出して懲りたにもかかわらず、同じ方式を試みて克服を果たそうとする。スイスでも同様の動きがあり、ワクチンさえ対策できていればコロナは解決できるという態度が見られる。ワクチン万能論の戦略も、やはり基礎にあるのは「集団免疫」の発想だろう。

そして、感染症に立ち向かう責任は個人にあり、社会全体を一律に制御して負担をかけるのはよくないという思想がある。ウィルスに対しては個人個人が自由に対処すればよく、能力と資産のある者は生き残り、それを欠く者は淘汰され、適者生存・優勝劣敗・弱肉強食の哲理と原則で世界は回るのだという価値観がある。今回、黒岩祐治は堂々と「自己責任」という言葉を発した。新自由主義のイデオロギーを正義であると衒いなく語り、この棄民政策を正当化して開き直った。感染症対策は理系の範疇で、基本的に自然科学の領域なのだけれど、やはりそこには抜き差しならぬ価値観の問題が存在する。リベラリズムかソシアリズムか、どちらが正しいのかという対立構図があり、どちらの理念を選ぶのかという社会科学の選択の問題がある。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15344328.png管見を言えば、この欧米仕様のレッセフェールの感染症対策の論理は、プロテスタンティズムの思想を源流としているように直観される。今、ハイエクとロールズの全盛の時代であり、リベラル・デモクラシーが絶対視されるご時世だから、感染症対策も自由主義・個人主義の原理が基本に据わるのだろう。もし英国が労働党政権であったなら、これほど極端なウィズコロナへのシフトはなく、アーダーン的な公共重視の規制策が模索されていたに違いない。とまれ、自由放任が彼らの信念ならそれでよい。が、日本がそれを信奉しそこに準拠する必要はない。日本は日本である。われわれ日本は、どういう価値観を選び、何を感染症対策の羅針盤に置くべきだろうか。私は、憲法25条の生存権の人権規定だろうと思う。迷いなくそう確信する。


第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


憲法の中で「公衆衛生」の語が登場するのはこの条文であり、政府に行政の責任と義務を課している。主権者である国民は、国から公衆衛生のサービスを受ける基本的権利を持っている。そして、第1項では「すべて国民は」と表記されていて、公衆衛生行政が差別なく平等に提供されることが明記されている。だから、この国の感染症対策において、カネとコネのある国民が検査と投薬と入院にありつけ、無い国民が「自宅療養」を要請されて医療から切断されること、その措置が政府方針として示達され自治体によって実行されること、それが正当化され当然視されてまかり通ることは許されないのだ。それは憲法違反なのだ。

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