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読書とは何か

まあ、あれだ。年を取って性欲も物欲も希薄になると、毎日の楽しみは「認識の喜び」だけになるのではないか。食欲などもかなり寿命は長いが、老人は食える量そのものが制限され、歯が無くなると固い物は食べられない。老眼でも遠くの物はかえって見やすいから、風景の美に興味のある者は「物を見る喜び」はかなり長続きする。これも「認識の喜び」だ。もっとも、海を見ても山を見ても木や草花を見ても壮大な夕焼けを見ても静かな夜明けの空や遠くの地平を見ても何の美も感じないとなると、老年の喜びとして何があるのだろうか。地位の高い人間なら他人を怒鳴りつける快感とか?
読書の喜びなども、単なる娯楽小説だと「認識の喜び」はほとんど無い。毎度おなじみのパターンで、いわばコンビニ弁当のようなものだ。すぐれた小説や随筆や論文を読むことは、すぐれた知性の人間との対話ができるという「特権」だ。つまり、読む側にある程度の知性が無いと対話はできない。そういう文章を読むことは、先に書いた「コンビニ弁当」に対して「超一流シェフの作った料理」を味わえる、ということなのである。だが、味覚音痴にはその料理もコンビニ弁当と同じ、いや、牛や馬の餌と同じだろう。逆に、牛や馬の餌が「電通商法」によって「一流料理」扱いされることもよくある話である。
まあ、とりあえず、「年月によって評価が定まった古典」は品質保証の一流料理だろう。で、一流作家の小さな作品も、やはり一流の料理なのである。これは、寝起きに夏目漱石の「カーライル博物館」という初期随筆を読んでの感想だ。我々は夏目漱石の目や頭脳を通して、世界の事物を眺めるという、貴重な経験、大袈裟に言えば「至高体験」ができる。これが読書というもので、ネットでの「情報収集」とはまったく別物だ。私の考えでは、この読書体験は「紙媒体」でないとかなり難しい。
ただし、ショーペンハウエルが「読書について」で言っているように、読書がしばしば「自分の頭を他人の思想の運動場にする」だけで終わることも多いだろう。
年齢を重ねることで読書能力が増すのなら、年を取るのも悪いことだけではない。





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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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