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「正義」とは何か

「正義」とは何か、を改めて考えてみよう、というわけだが、
基本的には「正」も「義」も「正しいこと」だろう。だが、その「正しさ」とは何か、と改めて考える必要がある。
テストの答えが「正しい」ことと、「正義」は明らかに違うわけで、「正義」とは論理ではなく倫理に属する概念だ、と言えるだろう。(もちろん、倫理の設定段階では論理が思考手段となる。)
問題は、その「倫理」とは何か、ということだ。「倫理」の「倫」は「道」「道筋」のことである。あるいは「秩序」のことだ。ほかにも意味はあるが、「倫理」に関係する意味は上記のものだろう。手元の漢和辞典では「倫理」は「人が守るべき道」「道徳のよりどころとなる原理」とある。一般には道徳と倫理はイコールだろう。つまり、倫理は「法律」とは異なる社会秩序維持の原理であり手段である。簡単に言えば、法律には罰則があるが、倫理には基本的に罰則は無い。そして法律は人の行為を規制するが、倫理は人の内面を規制する、と言えるのではないか。キリストは姦淫の目で女を見ることは実際に姦淫を行ったのと同じだ、と言ったが、だからと言って、その人の目を抉り出せ、とは言わないww  考えたことが罰の対象となるなら、私など何万人も人を心の中で殺している殺人鬼である。
では、倫理は無力かと言うと、そうではない、というのが私の主張だ。しかし、自由主義社会の中ではどんどん自由が拡大される結果、内面的道徳は無力化するはずだ。偽善的であろうと、社会が倫理を墨守している場合、やはりそれが個人の思考や行動を無意識のうちに規制するはずだ。それが不正義から人を守る抑止力となる。いや、なっていたわけだ。
つまり、自由主義の拡大によって「道徳によって守られていた部分」がどんどん蚕食されていくのである。もちろん、その道徳で守られていたのが「強者の権利」だった部分もあるだろう。
では、「何の規制もなく、すべてが許されている社会」は、どうなるのか。もちろん、そこでは弱者の生きる余地は無くなる。つまり、倫理で守られているのは必ずしも強者ではなく、むしろ弱者のほうだ、と私は見ている。そういう「倫理の無力化」がトラシュマコスの「正義とは強者の利益だ」という「悪しき正義」である。「勝てば官軍」とはそういうことである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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