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アンベードカルと仏教改宗運動(1/2ページ)
京都産業大教授 志賀浄邦氏
2018年2月、筆者はインド・チャティースガル州にあるプラギャーギリ(智慧山)という山の頂に鎮座する黄金の大仏の前にいた。同州ドンガルガル市において、毎年この時期に開催される国際仏教徒大会に参加するためである。「山の砦」を意味するドンガルガルには、山々が連なり、ヒンドゥー教やジャイナ教の聖地が点在している。
今年25回目を迎えた国際仏教徒大会は、地元仏教会によって主催され、毎年大仏が完成した2月6日に開催されている。例年日本を含む世界各地から多くの仏教僧や仏教徒が参加するが、ここ数年は在インド50年余になる日本人僧・佐々井秀嶺師が大会の導師を務めている。元々この大仏は、佐々井師とも関係が深く、長年比叡山で修行したインド人僧サンガラトナ師が日印仏教友好協会(現パンニャ・メッタ協会)の支援を受けて1998年に建立したものだという。
会場にはすでにナーグプルなどインド各地から数万人の仏教徒が集結し、イベントの開始を待ちわびていた。関係者の挨拶や来賓のスピーチの合間に、舞台上では歌や踊り、劇などが演じられる。それらは概して、B・R・アンベードカル(1891~1956)という一人の偉人の功績を讃えるものであった。
数ある演目のなかで、特に印象に残っている演劇がある。それはアンベードカルによるダリット(「虐げられた者」の意で旧不可触民のこと)の解放を象徴的に再現するものであった。上半身が裸で腰布のみを着用し、首から痰壺をぶら下げ、腰から箒を下げた男が、周囲からの視線に怯えながら前かがみの姿勢で3人の男の前を横切ろうとする。3人の男とは、バラモン、クシャトリヤ、シュードラに属する者であるが、腰布の男はそのいずれからも叱責、罵倒され、その場から立ち去るよう命じられる。
途方にくれた男のところに、眼鏡をかけ背広を羽織った、立派な体躯の男が突如として現れる。背広の男は、腰布の男の身体から痰壺と箒を取り去り、彼を勇気づけ、祝福を与えるのである。腰布の男は歓喜に震え、胸を張って笑顔で観衆の方を向く。最後に背広の男は、人々に向かって人間の尊厳と平等について語るのである。言うまでもなくここでの「腰布の男」とはダリットを指し、「背広の男」こそがアンベードカルである。
「マハール」という旧不可触民出身であったアンベードカルは、幼少時代から幾多の差別を経験しながらも学業に秀で、海外留学を経て帰国後は、独立後のネール政権下でインドの初代法相となった。憲法起草委員会の委員長に任命され、インド共和国憲法の起草に際して中心的な役割を果たす。そしてついに憲法第17条において不可触民制の廃止を明文化するに至った。彼は元々ヒンドゥー教徒であったが、最終的に、ヒンドゥー教自体を内部から改革することによって差別問題を解決しようという道はとらなかった。彼は、1935年に行った演説のなかでヒンドゥー教以外の宗教への改宗を正式に宣言したものの、すぐに改宗を行うことはなかった。それから約21年間、研究と熟慮を重ね、最終的に56年10月、数十万もの下層民衆と共に仏教への集団改宗を敢行するのである。
前述の演劇の話に戻ろう。筆者なりに分析すると、これは「不可触民出身であるが、仏教徒となったアンベードカルが差別と貧困に苦しむダリットを救済する」、すなわち「不可触民(仏教徒)自身が自ら行動を起こし、自分たち自身を解放する」という構図になっていることがわかる。
もちろんダリット民衆がある団体を組織し、政治的・社会的な側面から解放運動を展開することも可能であろう。しかしながら、ヒンドゥー教徒が圧倒的多数を占めるインド社会では、社会的上位者(ヒンドゥー教高位カースト)が弱者(下層カースト、不可触民)を救済するという構造を変えることは難しい。つまり、不可触民はヒンドゥー教という枠組みのなかにいる限り、ブラーマンを頂点とするカースト(もしくは浄・不浄)イデオロギー ――換言すれば、聖俗両フィールドにまたがるヒンドゥー・ダルマ――の言説空間にとどめ置かれ、「救済されるべき哀れな人々」という受動的な立場を脱することができないのである。
そこで鍵となるのが、ヒンドゥー教から別の宗教への改宗という行動である。アンベードカルによる仏教改宗はこれまでも色々な角度から考察されてきたが、近年ゴウリ・ヴィシュワナータンが新たな見解を打ち出しているので、ここではそれを参照したい。
アンベードカルのかつての留学先の一つでもあるアメリカ・コロンビア大学にて、エドワード・サイードに師事した彼女は、「改宗する」という動的プロセス自体に注目した。そして改宗を「社会に動揺を引き起こす政治的出来事」であり、「ある宗教をそのまま受け入れること」では決してなく「改宗先の宗教を作りかえるプロセス」であると述べている(『異議申し立てとしての宗教』)。
アンベードカルは、自著『ブッダとそのダンマ』において「ブッダの意見によると、絶対に確実なものは何もなく、いかなるものも決定的なものにはなりえない。あらゆることはいつでも再検討と再考に開かれていなければならない」と表明している通り、ブッダのダンマの合理的・理性的側面や懐疑主義的側面を重要視していた。このことを受け、彼女は「理性、思慮深さ、歴史的意識にもとづく個人の選択の行使」を「行為主体性」という言葉で表現する。アンベードカルにとっては、ダリット民衆が「自ら何かを選び取る」という行為主体性の回復こそが仏教改宗の主眼の一つであったといってもよい。
さらにアンベードカルは不可触民の起源についても、通説とは異なる興味深い考察を行っている。アンベードカルは、元々仏教徒であった人々がブロークン・メン(「砕かれた人々」「虐げられた人々」の意で、村落共同体のつながりを失い各地に離散した人々を指す。ヒンディー語の「ダリット」にも対応)となり、ブラーマンたちからの蔑みと憎しみの対象となっていたことや、ヒンドゥー教内で牛肉食が廃止された後もそれをやめなかったことが不可触性の起源として考えられると主張する。
また同一視されることの多い不可触性と不浄性は実は異なるもので、不可触性は法顕や玄奘等の中国僧による記録から牛肉食が禁止されたと推定される紀元後400年頃から現れたとした。不可触民差別の最大の根拠となる不浄性を不可触性から切り離し、差別の実体的な根拠は実は何もないことを示そうとしたこの手法は鮮やかという他ない。
すでに多くの識者の批判にさらされている通り、不可触民の起源を仏教とバラモン教(ヒンドゥー教)の宗教対立や牛肉食に関連付けようとする彼の説を実証的に証明することは困難であろう。しかしながら、彼は差別に喘ぐダリット民衆のため、一般に認められている公式の歴史とは別の「もう一つの歴史」を描き出そうとしたと考えることはできないか。必ずしも歴史的事実に裏付けられない『マハーバーラタ』等の叙事詩が、ヒンドゥー教徒にとって自信や誇りの源泉となっているのと同様、彼の創出した物語は、抑圧されてきたダリット民衆たちに自信と勇気をもたらし、自ら考え行動するためのホームベース(本拠、避難場所)を提供している。以上のことから、彼が最終的に改宗先として仏教を選んだのは必然であったとも言えるだろう。
先に述べた行為主体性の回復は、同時に、当該集団において主に多数派によって容認される既存の価値観や権力に取り込まれることへの抵抗をも意味する。改宗という営為は、伝統的に認められてきた教義やあり方に異議申し立てを行い、既存の枠組みを揺さぶるというダイナミズムを秘めているのである。アンベードカルの衣鉢を継ぐ、前述の日本人僧・佐々井秀嶺師は、現在1億人を超えるとも言われるインド仏教徒の指導的立場にいるが、時に日本の宗派仏教の現状に対しても痛烈な批判を行う。これは、アンベードカルに始まる仏教運動が、既存の仏教の形骸化や教条主義的側面に対しても、強い批評性をもちうることを意味している。そのような意味で、アンベードカルによって再発見・再構成され、佐々井師に先導される仏教徒たちによって受け継がれた「ブッダのダンマ」は、新たな生命を吹き込まれ、21世紀の今、「再創造」されつつあると言えるのではないだろうか。