「世に倦む日々」記事で、この筆者の考えに私は反対なのだが、とりあえず叩き台として(記事を叩くという意味ではないww)転載しておく。私は「世に倦む日々」氏の硬直的な思想傾向には批判的だが、その真面目さや熱心な研究心は尊敬している。
なお、政府自体が「棄民政策」をしたのではなく、「各自治体の判断に任せる」ということであり、これはワクチン接種の場合(「接種するかどうかは個人の判断に任せる」)と同じパターンである。新コロ問題に関しては強圧的に、全国一律の政府決定に従わせるべきだ、というのが「世に倦む日々」氏の考えなのだろう。それをやったイスラエルや欧米諸国の惨状を知っているのだろうか。
(以下引用)
なお、政府自体が「棄民政策」をしたのではなく、「各自治体の判断に任せる」ということであり、これはワクチン接種の場合(「接種するかどうかは個人の判断に任せる」)と同じパターンである。新コロ問題に関しては強圧的に、全国一律の政府決定に従わせるべきだ、というのが「世に倦む日々」氏の考えなのだろう。それをやったイスラエルや欧米諸国の惨状を知っているのだろうか。
(以下引用)
今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景
今回の棄民政策はどういう経緯と背景で方針決定されたのだろう。以下はその政治的正体についての推察である。普通に考えて、岸田文雄のイメージはネオリベの範疇と属性から遠い。宏池会は新自由主義とは距離のある政策集団だ。総裁選や総選挙の公約と政見を聞いた印象でも、安倍晋三や菅義偉のネオリベ一色の感染対策とは異なる方向性が期待された。12月から始めた無料のPCR検査センターの開設なども、微弱ながら脱ネオリベを標榜する岸田カラーの発現の一端だろうと好感して眺めていた。
その岸田政権の厚労省から、今回突然、PCR検査しません、自費で転売ヤーから抗原検査キット買って調べなさい、陽性が出たら自宅で健康観察しなさい、保健所は忙しいので面倒みません、という驚くべき対処方針が発表された。菅義偉以上にグロテスクな極超ネオリベの棄民政策の発動であり、冷酷な弱者切り捨ての処断である。正直、衝撃を覚えて狼狽する気分を否めない。本当に岸田文雄がこの政策を了承し裁可したのか。なぜ葛藤も躊躇もなくこのような暴挙の意思決定に出たのか。
厚労省が新方針を出してマスコミが報道した直後、26日、神奈川県の黒岩祐治が、医師の診断と確定検査を経ず、抗原検査キットで感染を自分で判断して療養する「自宅療養」の措置を始めると発表した。健康管理と食事調達は自己責任だと言い切り、パルスオキシメーターの貸与もせず、看護師らによる健康観察の電話も取りやめると堂々と宣言している。26日の神奈川県に続いて、27日には大阪府が、28日には千葉県が「みなし陽性」の制度導入を始める旨を会見で告知した。厚労省の新方針の具体化の流れ作業だ。
厚労省の24日の通達文書には、「自治体の判断で下記の(新方針の)対応を行うことが可能である」と書いてある。自治体にとっては少なからずショッキングな内容に違いないが、要するに、神奈川県や大阪府や千葉県とはネゴが終わっていて、根回し済みだという裏であり、これらの新自由主義府県をアーリーアダプターとして新方針が五月雨的に全国自治体で実施される進行が想定されている。つまり、この棄民政策が、ネオリベ知事とネオリベ厚労官僚の間で事前に水面下で連携され合意されている。知事会から異論が出ず、波風が立っていない。
通常、こんな過激な棄民政策が厚労省から出れば、知事は「県民の命と健康に責任がとれない」と反発するものだ。検査キットと治療薬の配布供給ぐらいは国が保障しろ、と要求するものだ。一体、この政治の真相は何なのだろうか。私が推理する図式の中でおのずと視線が向かう人物は、コロナ対策担当相の山際大志郎である。この男が全体の根回しの中軸に位置するのではないか。検査キット不足の問題を共産党議員が予算委で質問した際も、この男が答弁に立っていた(首相や厚労相ではなく)。西村康稔の後釜でポストに就いた目立たない男。
小物で目立たないので注意してなかったが、実は毒々しく生臭いプロフィールを持っていて、いかにも今回の棄民政策の立役者に相応しい。まず何より、この男は甘利明の最側近である。そして、ひょっとしてと思って確認したら、やはり選挙区は神奈川18区(高津区と宮前区)だった。天下のネオリベ伏魔殿。東の大阪府。その中堅幹部。神奈川ネオリベ一家の陣笠ということは、菅義偉の息もかかっている。甘利明の子分だから麻生派であり、甘利明と麻生太郎が内閣に押し込んでいる。甘利明と麻生太郎の手足であり、甘利明の名代として、麻生太郎が放った目付として、岸田文雄をチェックしリモコンする特殊任務の隠密閣僚なのだ。
そして、外せないのが策動に噛んだ分科会のネオリベ専門家である。それが誰なのか、恐縮ながらものぐさで調査と特定に至っていないが、マスコミ報道に匿名で発言して頻繁に登場する。この男が、岸田文雄が分科会を開かないとか、分科会の意見と立場を軽視しているとか批判と不満をタレ込んでいる。岸田官邸を揺さぶって牽制をかけ、感染症対策の主導権を握る立ち回りを演じている。安倍・菅時代の人事産物である分科会に冷淡な岸田文雄からヘゲモニーを奪うべく暗躍している。この分科会のネオリベ専門家と山際大志郎が密謀し、黒岩祐治などと謀計して、今回の棄民政策が立案され厚労省の施策となったのだろう。
感染症対策をめぐってのネオリベ陣営のカウンター攻勢である。当然、背後に安倍晋三の存在があり、安倍晋三と岸田文雄の静かな暗闘が影を落としている。ネオリベ勢力を側面支援し、マスコミに岸田文雄の悪口を言わせているのは安倍晋三だ。岸田文雄の高い支持率が気に入らず、感染症対策を公共主義寄りに転換しようとする動きが不快なのだ。12月からずっと5類に変えろと喚いてきたのも、維新・ネオリベ系と安倍晋三だった。オミクロン株の感染爆発の機会を捉え、いわばクーデター的な電撃作戦で、恐怖の棄民政策を一気に政府決定にしてしまった。安倍晋三と麻生太郎はほくそ笑んでいるだろう。菅義偉と橋下徹も。
棄民政策を獰猛に推進するネオリベ族のコロナ対策の理想は、英国ジョンソン政権の規制撤廃であり、その発想の疫学的根拠は「集団免疫」論にある。社会成員の一定の割合が免疫を持つと、感染症に対する防疫は達成するという考え方だ。この考え方に従って、英国では2年前の当初、コロナに対してノーガード・フルオープンの姿勢で臨んで挫折し、スウェーデンでも同じモデルが採用されて失敗した。失敗して犠牲を出して懲りたにもかかわらず、同じ方式を試みて克服を果たそうとする。スイスでも同様の動きがあり、ワクチンさえ対策できていればコロナは解決できるという態度が見られる。ワクチン万能論の戦略も、やはり基礎にあるのは「集団免疫」の発想だろう。
そして、感染症に立ち向かう責任は個人にあり、社会全体を一律に制御して負担をかけるのはよくないという思想がある。ウィルスに対しては個人個人が自由に対処すればよく、能力と資産のある者は生き残り、それを欠く者は淘汰され、適者生存・優勝劣敗・弱肉強食の哲理と原則で世界は回るのだという価値観がある。今回、黒岩祐治は堂々と「自己責任」という言葉を発した。新自由主義のイデオロギーを正義であると衒いなく語り、この棄民政策を正当化して開き直った。感染症対策は理系の範疇で、基本的に自然科学の領域なのだけれど、やはりそこには抜き差しならぬ価値観の問題が存在する。リベラリズムかソシアリズムか、どちらが正しいのかという対立構図があり、どちらの理念を選ぶのかという社会科学の選択の問題がある。
管見を言えば、この欧米仕様のレッセフェールの感染症対策の論理は、プロテスタンティズムの思想を源流としているように直観される。今、ハイエクとロールズの全盛の時代であり、リベラル・デモクラシーが絶対視されるご時世だから、感染症対策も自由主義・個人主義の原理が基本に据わるのだろう。もし英国が労働党政権であったなら、これほど極端なウィズコロナへのシフトはなく、アーダーン的な公共重視の規制策が模索されていたに違いない。とまれ、自由放任が彼らの信念ならそれでよい。が、日本がそれを信奉しそこに準拠する必要はない。日本は日本である。われわれ日本は、どういう価値観を選び、何を感染症対策の羅針盤に置くべきだろうか。私は、憲法25条の生存権の人権規定だろうと思う。迷いなくそう確信する。
憲法の中で「公衆衛生」の語が登場するのはこの条文であり、政府に行政の責任と義務を課している。主権者である国民は、国から公衆衛生のサービスを受ける基本的権利を持っている。そして、第1項では「すべて国民は」と表記されていて、公衆衛生行政が差別なく平等に提供されることが明記されている。だから、この国の感染症対策において、カネとコネのある国民が検査と投薬と入院にありつけ、無い国民が「自宅療養」を要請されて医療から切断されること、その措置が政府方針として示達され自治体によって実行されること、それが正当化され当然視されてまかり通ることは許されないのだ。それは憲法違反なのだ。
その岸田政権の厚労省から、今回突然、PCR検査しません、自費で転売ヤーから抗原検査キット買って調べなさい、陽性が出たら自宅で健康観察しなさい、保健所は忙しいので面倒みません、という驚くべき対処方針が発表された。菅義偉以上にグロテスクな極超ネオリベの棄民政策の発動であり、冷酷な弱者切り捨ての処断である。正直、衝撃を覚えて狼狽する気分を否めない。本当に岸田文雄がこの政策を了承し裁可したのか。なぜ葛藤も躊躇もなくこのような暴挙の意思決定に出たのか。
厚労省が新方針を出してマスコミが報道した直後、26日、神奈川県の黒岩祐治が、医師の診断と確定検査を経ず、抗原検査キットで感染を自分で判断して療養する「自宅療養」の措置を始めると発表した。健康管理と食事調達は自己責任だと言い切り、パルスオキシメーターの貸与もせず、看護師らによる健康観察の電話も取りやめると堂々と宣言している。26日の神奈川県に続いて、27日には大阪府が、28日には千葉県が「みなし陽性」の制度導入を始める旨を会見で告知した。厚労省の新方針の具体化の流れ作業だ。
厚労省の24日の通達文書には、「自治体の判断で下記の(新方針の)対応を行うことが可能である」と書いてある。自治体にとっては少なからずショッキングな内容に違いないが、要するに、神奈川県や大阪府や千葉県とはネゴが終わっていて、根回し済みだという裏であり、これらの新自由主義府県をアーリーアダプターとして新方針が五月雨的に全国自治体で実施される進行が想定されている。つまり、この棄民政策が、ネオリベ知事とネオリベ厚労官僚の間で事前に水面下で連携され合意されている。知事会から異論が出ず、波風が立っていない。
通常、こんな過激な棄民政策が厚労省から出れば、知事は「県民の命と健康に責任がとれない」と反発するものだ。検査キットと治療薬の配布供給ぐらいは国が保障しろ、と要求するものだ。一体、この政治の真相は何なのだろうか。私が推理する図式の中でおのずと視線が向かう人物は、コロナ対策担当相の山際大志郎である。この男が全体の根回しの中軸に位置するのではないか。検査キット不足の問題を共産党議員が予算委で質問した際も、この男が答弁に立っていた(首相や厚労相ではなく)。西村康稔の後釜でポストに就いた目立たない男。
小物で目立たないので注意してなかったが、実は毒々しく生臭いプロフィールを持っていて、いかにも今回の棄民政策の立役者に相応しい。まず何より、この男は甘利明の最側近である。そして、ひょっとしてと思って確認したら、やはり選挙区は神奈川18区(高津区と宮前区)だった。天下のネオリベ伏魔殿。東の大阪府。その中堅幹部。神奈川ネオリベ一家の陣笠ということは、菅義偉の息もかかっている。甘利明の子分だから麻生派であり、甘利明と麻生太郎が内閣に押し込んでいる。甘利明と麻生太郎の手足であり、甘利明の名代として、麻生太郎が放った目付として、岸田文雄をチェックしリモコンする特殊任務の隠密閣僚なのだ。
そして、外せないのが策動に噛んだ分科会のネオリベ専門家である。それが誰なのか、恐縮ながらものぐさで調査と特定に至っていないが、マスコミ報道に匿名で発言して頻繁に登場する。この男が、岸田文雄が分科会を開かないとか、分科会の意見と立場を軽視しているとか批判と不満をタレ込んでいる。岸田官邸を揺さぶって牽制をかけ、感染症対策の主導権を握る立ち回りを演じている。安倍・菅時代の人事産物である分科会に冷淡な岸田文雄からヘゲモニーを奪うべく暗躍している。この分科会のネオリベ専門家と山際大志郎が密謀し、黒岩祐治などと謀計して、今回の棄民政策が立案され厚労省の施策となったのだろう。
感染症対策をめぐってのネオリベ陣営のカウンター攻勢である。当然、背後に安倍晋三の存在があり、安倍晋三と岸田文雄の静かな暗闘が影を落としている。ネオリベ勢力を側面支援し、マスコミに岸田文雄の悪口を言わせているのは安倍晋三だ。岸田文雄の高い支持率が気に入らず、感染症対策を公共主義寄りに転換しようとする動きが不快なのだ。12月からずっと5類に変えろと喚いてきたのも、維新・ネオリベ系と安倍晋三だった。オミクロン株の感染爆発の機会を捉え、いわばクーデター的な電撃作戦で、恐怖の棄民政策を一気に政府決定にしてしまった。安倍晋三と麻生太郎はほくそ笑んでいるだろう。菅義偉と橋下徹も。
棄民政策を獰猛に推進するネオリベ族のコロナ対策の理想は、英国ジョンソン政権の規制撤廃であり、その発想の疫学的根拠は「集団免疫」論にある。社会成員の一定の割合が免疫を持つと、感染症に対する防疫は達成するという考え方だ。この考え方に従って、英国では2年前の当初、コロナに対してノーガード・フルオープンの姿勢で臨んで挫折し、スウェーデンでも同じモデルが採用されて失敗した。失敗して犠牲を出して懲りたにもかかわらず、同じ方式を試みて克服を果たそうとする。スイスでも同様の動きがあり、ワクチンさえ対策できていればコロナは解決できるという態度が見られる。ワクチン万能論の戦略も、やはり基礎にあるのは「集団免疫」の発想だろう。
そして、感染症に立ち向かう責任は個人にあり、社会全体を一律に制御して負担をかけるのはよくないという思想がある。ウィルスに対しては個人個人が自由に対処すればよく、能力と資産のある者は生き残り、それを欠く者は淘汰され、適者生存・優勝劣敗・弱肉強食の哲理と原則で世界は回るのだという価値観がある。今回、黒岩祐治は堂々と「自己責任」という言葉を発した。新自由主義のイデオロギーを正義であると衒いなく語り、この棄民政策を正当化して開き直った。感染症対策は理系の範疇で、基本的に自然科学の領域なのだけれど、やはりそこには抜き差しならぬ価値観の問題が存在する。リベラリズムかソシアリズムか、どちらが正しいのかという対立構図があり、どちらの理念を選ぶのかという社会科学の選択の問題がある。
管見を言えば、この欧米仕様のレッセフェールの感染症対策の論理は、プロテスタンティズムの思想を源流としているように直観される。今、ハイエクとロールズの全盛の時代であり、リベラル・デモクラシーが絶対視されるご時世だから、感染症対策も自由主義・個人主義の原理が基本に据わるのだろう。もし英国が労働党政権であったなら、これほど極端なウィズコロナへのシフトはなく、アーダーン的な公共重視の規制策が模索されていたに違いない。とまれ、自由放任が彼らの信念ならそれでよい。が、日本がそれを信奉しそこに準拠する必要はない。日本は日本である。われわれ日本は、どういう価値観を選び、何を感染症対策の羅針盤に置くべきだろうか。私は、憲法25条の生存権の人権規定だろうと思う。迷いなくそう確信する。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
憲法の中で「公衆衛生」の語が登場するのはこの条文であり、政府に行政の責任と義務を課している。主権者である国民は、国から公衆衛生のサービスを受ける基本的権利を持っている。そして、第1項では「すべて国民は」と表記されていて、公衆衛生行政が差別なく平等に提供されることが明記されている。だから、この国の感染症対策において、カネとコネのある国民が検査と投薬と入院にありつけ、無い国民が「自宅療養」を要請されて医療から切断されること、その措置が政府方針として示達され自治体によって実行されること、それが正当化され当然視されてまかり通ることは許されないのだ。それは憲法違反なのだ。
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