歳を十分とったお陰で、衒学趣味などすっかり消えました。これは今の私の心の底からの叫びです。近頃のAI(人工知能)騒ぎをテレビのニュースなどで見ていて、突然、80年ほど前に習った初級フランス語の記憶から
” A bas les lenntilles !”
という言葉が蘇ってきました。ぼんやりした記憶では、お話の中の子供が、あんまりいつもレンズ豆料理ばかり食べさされるので、「もうレズ豆いやだ!」「くたばれレンズ豆!」と叫んだのでした。
AI についての私の知識はごく基本的なもですが、いくら進歩しても、たった一人の「シューベルト」も作り出す事はできないと断言します。人類は個々の人間の持つ能力を遥かに凌駕する物を作り出してきました。大きなクレーンにしろ掌中のスマホにしろ、そんなものばかりです。核爆弾の破壊力まで作り出してしまいました。
今のAI騒ぎも、あれこれ良さそうなことを国家政府筋は言っていますが、詰まるところは、「儲けるか、損するか」が一番大切な問題なのです。「そんなことやめてしまえ!」「くたばれAI !」と、叫びたくなります。「人間を粗末に扱うのもいい加減にしろ!」
たった一人の「シューベルト」も作り出す事はできないと言いましたが、私たちのようなただの人間だって、決して作り出せません。私は以前に私のブログ記事について頂いた山椒魚さんからのコメント想起しています。前にも、このブログ・サイトに引用させて頂きましたが、ここにまた引用させて頂きます。
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Unknown (山椒魚)
2024-12-04 22:54:22
私が学生時代,学業不振で苦闘しているときA.J.クローニンの自伝的小説「人生の途上にて」に出会いました。そのなかの”神とその存在”という節のなかに次のような文章があります。
私はまえに、オルグェンエア・ダイスのことを読者に語った。二十年以上にわたり堅忍不抜の辛抱づよさで、しかも穏和と快活とを失わずに、トリゲニーの人びとに奉仕してきた、あの中年の看護婦のことである。なにものにもまして、彼女の性格の基調とみられる、意識せざる無私の精神は、あまりにもむくいられることがうすかったので、それが私の心を悩ましたのである。 彼女は人びとから愛されてはいたけれど、彼女の俸給は法外に安いものだった。ある夜おそく、格別に骨の折れる治療のあとで、私はいっしょに一杯のお茶をのみながら、思いきって彼女に、議論をふっかけてみたことがあった。「看護婦さん」と私は言った。「なぜあんたは、もっと俸給をふやしてもらわないんだい。きみがあんな安い給料ではたらいているのは、ばかげているよ」彼女はかるく眉をあげた。だが、ほほえんでいた。
「暮らしていくには、これで充分ですわ」
「いや、ほんとにさ」
私は負けていなかった。
「少なくとも一週にもう一ポンドは、余計にもらっていいよ。神さまだって、それくらい当然だということはわかっているもの」
彼女はすぐには返事をしなかった。微笑は消えなかったが、視線はおもおもしさを加え、そのはげしさが私を驚かせた。
「先生」
と、彼女は言った。
「もし神さまがわかっていてくださるなら、私にはそれだけで十分ですわ」
言葉かずはまことにすくなかったが、彼女の眸にこめられた意味は、明らかに読みとれた。これまで一度として彼女は、宗教的な女性であることをしめしたことはなかったが、いまは彼女の全生活、その奉仕と自己犠牲とは、一つの献身、「至純の存在」への信仰にたいする不断の証明であることを知った。そして一瞬にして、私は彼女の生活の豊かな意義と、それに比較して、私自身の空虚さとを、理解したのである。
富貴と繁栄を追求めそれをつかむことも幸せになることでしょうが,この文章のなかの看護婦さんのような幸せのあり方は尊いものだと思います。
**********(引用終わり)
AI は、ただの一人のクローニンも、この看護婦さんも、山椒魚さんも、作り出す事はできません。
A BAS AI !
藤永茂(2025年2月12日)