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正義の暴走?

下の二つのツィートとも、非常に有益な教訓で、多くの人が心にとどめてほしい言葉だ。
特に、「『正義の暴走は恐ろしい』というのは、(ある面ではもちろん正しいのだが)、それがしばしば悪の側に加担する言葉になってしまう危険性もある」という指摘は重要だ。

何かの思想が暴走して、それへの反対意見が表明できなくなった状況を「全体主義社会」と言うのであり、その支配的思想は正義の仮面をかぶることもあるし、道徳の仮面をかぶることもある。たとえば共産主義というのは「公正と平等」を理想とし、この世界から貧困を根絶したいという理想の表明であり、それ自体はまさに正義であり道徳的な思想だが、その思想の邪魔になる人間をシベリア送りにしたり死刑にしたりしたら、それは「正義の暴走」になる。だが、それは「暴走」が問題なのであって、その思想そのものが不正義だということにはけっしてなるはずはないのである。
なお、私は、共産主義は、道義としては正しいが、それを現実社会で実現しようとすると、「正義の暴走」を生みがちな思想だと思っている。当然だ。それは、「現在の持てる者」の所有を「現在の持たざる者」の手に移すのだから、強大な抵抗と、抵抗の排除(しばしば非人間的な処置)となることが予想され、ソ連などでは実際そうなったわけだ。
だが、社会主義は別である。これは思想の根底を単純に言えば、「個人の利益よりも社会全体の利益を優先させる」こと(それは個人の利益の増進でもあるが、その利益の幅が小さくなる。)であり、そのためには個人の利己主義的行動の制限も当然起こる。では、そういう社会的規制はすべていやだ、という「完全自由主義」が好ましいかと言えば、それはまた当然、暴力の支配するジャングルにしかならないのである。
つまり、法や道徳によってある程度の規制と秩序があるというのは、その社会では一定の「社会主義」が実現しているということなのである。
そして、法や道徳が強者の手によって無力化されている場合には、どうなるか。当然、「社会主義」実現のための改革運動が望ましい、となるわけだ。これが「社会主義革命」であり、絶対王政の時代には暴力革命だけが「現実的」な手段だったわけだが、議会制民主主義が機能していれば、議会を通じて社会全体の制度的改革もできる。これも革命である。

毎度毎度、同じことばかり書いているが、世の言説の混乱があまりにひどいので、何度でも書く。
たとえば安倍一般は明白な「新自由主義」であり、上級国民の利益を守る姿勢しか無いのだから、彼らを左翼、つまり社会改革主義者、あるいは社会主義者と同一視する発言は間違いである。まあ、左翼が何を意味するか、現在は言説が混乱しているが、ネトウヨの中には今上天皇を「左翼だ」「パヨクだ」と言う連中すらいるのである。つまり、憲法厳守の姿勢や平和主義は左翼扱いらしいwww


(以下引用)

  1. さんがリツイート

    「正義の暴走はおそろしい」という言葉に多くの人が飛びつきがちなのは、弱者のために頑張っている人の価値を下げて、自分が何もしてこなかったことを便利に正当化できるからなんだろうなと思う。



  2. あからさまな自慢話を鵜呑みにする人たちは、実は世間の多数派で、そういう心根が純真な人たちは、知識をひけらかす人間を物知りと見なし、実績を誇張する人間を傑物だと評価する。そんなわけなので、高踏的かつ傲岸不遜に振る舞う自慢屋の自我狂は、いつの時代もわりと尊敬されていたりする。





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