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人間五十年

「今の若いモンは日本語が読めない」という趣旨の記事への「ネットゲリラ」常連コメント欄だが、いつもはみっともないふざけ方をしている老人たちがおおはしゃぎで高踏的な言語論というか、持論を、ありったけの知識を総動員して書いている。
ほとんどは読み流したが、中には興味深い部分も少しあるので、適当にカットして転載しておく。中には、「弦巻町」氏の日本語無能論のように、私自身はまったく同意しないが、問題提起の意味で載せたのもある。
なお、「全然」という言葉(副詞か?)には否定語が必ず伴う、という意見に対する否定論があるが、そもそも「全然」という言葉は明治期に作られた言葉のひとつではないかと私は推測している。江戸以前の文章に存在した証拠はあるだろうか? つまり、明治期にはまだ「全然」の用法が固定していなかったのではないか、というわけだ。
ちなみに、私が最近疑問に思っているのは織田信長の例の「人間五十年」の「人間」は「にんげん」と読むのか「じんかん」と読むのか、という問題だ。これも、江戸以前には「にんげん」という言葉自体が存在せず、「人間(じんかん)」は「人の世」の意味だったという説がある。しかし、ほとんどのテレビドラマや小説では信長のあれは「にんげん」と読まれ、そういうルビがついている。だが、「じんかん」と読んでも、「人の世に生きられる時間はせいぜい五十年だ」で、十分に意味が通じるのである。

(以下引用)

コメント(33)


英語教育ゴリ押しって、
主犯は、やっぱりアメリカ様の内政干渉?


税金の入ってる研究論文なんて日本語で書かせればいいのに。(特に理系)



>全然いいよー!とか俺もいうけど本来は全然違うと否定の意味で使うもんよね
森鴎外の文章に、全然の後に肯定が来るのがあるそうだ。


紅衛兵が掲げていた毛沢東語録は、地方で言葉が違う中国でコミュニケーションに役立つツールだったそうだ。



まあ一つの問題は教育課程以上に、日本の企業社会が基礎学力を求めない点でしょうな。というか邪魔にする。
賢い人間は使いにくい。大学でなるべく勉強させないまま青田刈りで内定していいように使い潰す。黒人奴隷に教育を与えなかったのと同じシステムを自国民に対してやっている。
それを長年続けてきた結果、世襲バカの政界ばかりでなく企業トップから低学力の人間ばかりになった。
日本の上級国民なんてアホばかりです。


まあ大抵の日本人が知らないことだが、今や日本の旧帝大やトップクラスの国公立大学の大学院は中国人ばかりになっている。
日本人が「就職」のため高等教育を避けている間に、日本人の税金で中国人たちが日本の最高学府でどんどん力をつけている。
いや日本ばかりではないですな。
アメリカでも逆クオータで東洋人排除しても、平均学力が高すぎてハーバードもアイビーリーグも中国人だらけ。これはヨーロッパでもそうなっている。


かつて日本人はバブルで金のある時世界中の不動産・資産と贅沢品を買い漁ったが、中国人は世界中の教育と知識を買い漁っている。
すでに次の時代を見据えておるわけです。


あと三十年後には世界中のトップエリートと同級生だった中国要人が通訳なしに留学先だった国々と直接交渉を始めるようになる。
こんなことやってるのは中国だけ。


一方自国語さえできなくなった日本人はどうなるか。
お先真っ暗ですな。



これもな。
ちゃんとテストすると、全年齢、中高年も過半は日本語が読めないと判明している。
(説明書読んで入力するだけみたいなアプリが使えない中年とかな。)


人間は、(特にカルチャースクールとか行かない人は)進学や就職でだんだん自分と同じような知的水準の人としか付き合わなくなるから。


小学校の頃に分数の足算も出来なかった同級生がけっこう居たのを忘れて「ゆとり教育」をバカにしたりする。


5ちゃんねるやYahoo!知恵袋でも、とっくに否定された昭和の資料みたいな知識を開陳する連中を見れば、中高年が賢い訳じゃないと判るしね。



〉森鴎外の文章に、全然の後に肯定が来るのがあるそうだ。


同様に、内村鑑三やその弟子たちの文章にも出てくる。明治〜昭和初期くらいまでは普通の用法だったらしい。
全然の後に否定を持ってくるのが一般的になったのは、むしろ戦後からだったとも。



>「事なかれ主義ってどういう意味ですか?」
>「引っ込み思案って、どういう意味ですか?」


 こういうのは、いずれ消えていく言葉だろう。 日本語は、微妙な雰囲気とか「空気」とかを伝えるのには優れているのかもしれないし、そのための表現が山のようにたくさんある。 が、その代償として、簡潔に論理的に過不足ない表現をしようとすると、やれ深みがないだの、気持ちが伝わらない、だの悪評を被ることになる。 個人的には、いまの日本語表現の半分は消えてしまって構わないと思っている。 


 いろいろ評判芳しくない副島某から抜粋しときます。 同意見というわけではないが。


(副島隆彦 今日のぼやき 1879番)
「私は、この彼女(注:遠藤誉女史のこと)の素晴らしい文章に、私の論評(ろんぴょう。コメント。評価判断)を書く。彼女の文章は、理詰め(論理的。セオレティカル theoretical )で緻密(ちみつ)である。理科系の頭脳を持っている人の文であり、この日本文をそのまま、中国語の文にしても、英語に訳しても、十分に通用する内容だ。


 ところが、私たちが使っている日本文というのは、これは、実は、「幼稚な言語」であって、ヨーロッパ語(英語、フランス語、ドイツ語)から翻訳するときは、かなりの加筆をしないと、私たちは、自然に読み取れない。普通の日本人の言論人や学者の書く、日本語の文は、世界基準(world values ワールド・ヴァリューズ)から見たら、とてもお話にならない。日本土人の文章そのものなのである。


 このことは、今日は説明しない。中国文や英文の優れた文は、書けば1行で済むことを、日本文に翻訳すると、実はあれこれ解説を加筆で入れないと、日本人には、その直訳文(ちょくやくぶん)では、理解、読解できない。丁寧に、親切に翻訳すると、だいたい3倍になるから3行掛かる。このことは、日本語を馬鹿にするな、という問題ではない。」
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/2177


 今の大学生の言語能力は、劣化しているのかもしれないが、よくなっているのかもしれない。 よく分からない。



 日本語をベースにしながらも、簡潔かつ十分に意味内容を展開できる人工自然言語を開発するための工程表みたいなものを考えた時期があったのだが、少しやってみて、日本語というものに、絶望的な思いを抱いてしまっているじぶんに気づいたものであった。


 今の日本の停滞のかなりの部分は、日本語そのものに問題があると思う。 夜、就寝中かその間くらいのところで、求問して、どっかからか応答を得る、というのをやってみることがあるが、日本語では、それがうまくいかない。 中国語でうまくいくかどうかは、中国語を知らないので分からない。 




老生の分類ではミッキー安川や落合信彦と同格 偏頗な米国情報と陰謀妄想/駄法螺を


オツムの足りないコドモやオトナになれない中年類を集めて興行する現代「紙芝居屋」


副島隆彦某につづいて 今度はアノ「嘘で固めた遠藤誉」の登場とは/笑。この婆さん


幼稚園児か小学一年生のとき満州国新京を訳も分からずウロウロしていただけなのに


大袈裟に「長春包囲戦を体験」したと法螺貝を好きなだけ吹きまくる反共と反中国の


「第一人者」/笑。肩書き大好きな女で「北京大学アジアアフリカ研究所特約研究員」


「中国国務院西部開発弁公室人材開発法規組人材開発顧問」「中国社会科学院教授」


「上海交通大学客員教授」等ことごとく在籍した事実はないと全否定されているにも


関わらず「ネットの恥は掻き捨て」とバカリにそのまま開き直って現在に至ると/笑。




敗戦まもなく元将校たちのあいだでさえ「曖昧な日本語による命令伝達の困難さ」と


「日本語の論理性の乏しさ」が戦争に負けた原因のひとつだと考えるものが現れた


1946年に志賀直哉は雑誌『改造』に「国語問題」というタイトルの文章を掲載した


《 日本語を廃止し世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用したらどうか 》


という過激な内容だった。。『読売報知』新聞は同年11月「漢字を廃止せよ」との


社説を掲載した 国語国字問題は「カナモジカイ」など国語国字改革推進派などを


含んで敗戦後の国民的な一大問題だった 無知と無教養が悪意を纏った鮪ゴリラや


セキセインコの作文は「反動」どころか副島以下の害虫害獣的存在でしかない/笑。



《 タイトルの文章を掲載した 》を《 タイトルの文章を発表した 》にします



 「・・君(オレのこと)は、、、単純だね。」と呆れられながらも、スポック星人から、やっとここまで人並みか少し劣る程度までは日本語が使えるようになれたと、じぶんでじぶんを褒めてあげたい者としては、これから日本語で苦労するに違いない若い人たちには、それでいいんだよ、とにかく考えを伝えることができれば、と言ってあげたい。 



私は言語学者でもないしアカデミズムにおける国語知識にも工高卒でまったく無縁ですので、
あくまでも個人的な印象に基づいてテキトーに述べさせていただくと、


外国語においても、語彙の数では日本語に勝る言語はたくさんあると思われますが…


ごく大雑把にいって、


日本語の特性は「真名」と「仮名」のハイブリッド構造のうえ、
その「真名」にしても日本語においては「音読み」と「訓読み」があり、
「仮名」にしても「ひらがな」と「カタカナ」があるわけです。


さらに、外来語に対しては英文(アルファベット)もそのまま使うことも多く(例えばYouTubeなど)、これも外来文字であるアラビア数字やローマ数字も当たり前のように混在させながら使っています。


おまけに最近では、パソコンや携帯電話(スマートフォン)における「絵(顔)文字」(#^.^#)のように、従来の文字の概念を飛び超えた日本発祥の表象記号も世界にあふれています。


ということで、


私が世界の言語の中でも日本語が稀有な存在だと思うのは、その重層的な構造における「変態性」によってです。


「真名」的な漢字使用においては、一種の公式(知性的)なイデオロギー(左脳)的な“漢意(からごころ)”としての世界観を示し、
「仮名」的なひらがな使用においては、右脳的な情動(情緒)エモーショナルな世界観を認識していると思われます。


外国人が虫の鳴き声を雑音にしか聞こえないというのも、左脳によってロジカルな言語として解釈しているからだ… といわれています。


さらに、こうした日本語におけるエモーショナルな「仮名」的な情動を、「もののあわれ」という形で本来とは逆の意味でイデオロギーそのものとして見出したのが、いわゆる本居宣長流の国学的解釈であり、


こうした日本語特有のハイブリット的構造のうちの「仮名」(仮の存在としての「もののあわれ」)の部分が、日本精神における国家主義的・民族主義的な、いわゆる国粋(右翼)思想のベースになっていると思われます。


(それにしても私の文章は「~的」という表現が多くて、まるで中国語のようですね)


とりわけ戦前においては、この「もののあわれ」とか「はかなさ」とか「かわうそう」といったマイナーな情動(西洋的にいえば浪漫主義)が、保田與重郎的な解釈をもって、日本(日本人)の翼賛軍国主義の基底として横たわっていったような気がします。


西洋的な前向きな勇猛さではなく、マイナーな「もののあわれ」の情動をもって死地(戦地)に赴く日本人は、リニアな言語構造を持つ外国人(西洋人)から見れば、まさに精神を病んだ「分裂病的な世界」を生きているテリブルな人たちに見えたんじゃないでしょうか…



実のところ
大学生がインフレーション
しただけの話で
年々大学生の比率が増えて
昔であれば高校も
コボレテしまう連中が
大学生に成ってると云うこと
まともな大学生は賢い
英語ばかり使って
日本語が不自由に成るのは
あるのカモしれない



>中国の学校で漢文を教えてないというのは、無知にも程があるw


まあ、中国の国語=漢文ですからねw
(白話文と古文との違いはありますが)
去年の流行曲「知否知否」もサビが李清照の詞そのまんまでしたし
お上が古典に力入れてるのと同時に中国人民の側も古典をアイデンティティの
拠り所と捉えてる人が増えている感はありますね


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