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テレビ界の「言葉変え」

2008年に描いた記事が2015年でも有効で、さらに2021年でも有効だというところに、テレビの本性(下種さ)が明示されている。
小田嶋師は、こういう文章だと実に切れ味がいい。文章の細部まで光っている。私が年下の氏を「師」と言う所以である。なお、過去の「やんちゃ」が批判された某音楽家は、その「やんちゃ」が「パラリンピック」の趣旨と見事に相反するから批判されただけで、芸能人でその手の「脛に傷持つ」者は、ほとんど全員だろう。
ちなみに、「性行為」を「エッチする」という軽い言葉に変えたのも「やんちゃ」と同種の小細工である。


(以下引用)

2015/08/05

「やんちゃ」の市民化について


 twitter上で、過去のいじめ加害体験を武勇伝みたいに語っている議員さんのブログが話題になっていたので、参考までに古い原稿を掲載します。

 2008年3月に、「テレビ救急箱」(中公新書ラクレ)という新書のあとがきのために書いた文章です。
 
 どういう本のあとがきなのかという説明を書こうかとも思ったのですが、めんどうなので本書の「まえがき」を、あとがきの後に付加しました。
 ちなみにこの本は絶版になっています。
 まあ、諸行無常ですよ。
 
 
おわりに
 
 「やんちゃ」という言葉が、スタジオトークの中で使われるようになったのは、たぶんこの5年以内のことだと思う。それが、この二年ほど、流行語みたいなことになっている。で、「やんちゃ」という用語の使用頻度の上昇にあわせて、テレビの「やんちゃ」も野放図に拡大している……気がするのだが、気のせいだろうか。だと良いのだが。
 念のために解説しておくと、「やんちゃ」は、「非行」そのものを意味している。
 辞書に載っている意味での「やんちゃ」が、もっぱら幼児のわがままや、学齢期以前の子供がやらかす罪の無いいたずらを指す言葉であるのに対して、テレビの中の「やんちゃ」は、意味合いとして、より年齢の高いオトナの男女の「不行跡」「悪事」「非道」を含意している。それも、もっぱら肯定的なニュアンスで、だ。
 だから、「やんちゃ」は、テレビに出ている人間の「犯罪歴」や「粗暴な過去」を、バラエティートークにおける挿話のひとつとして処理する上での魔法のキーワードとして機能する。
 つい先日も、ソロプロジェクトを発足したばかりのロック歌手に向けて、司会者が
「やんちゃしてたんでしょう?(笑)」と、明るく問いかけている場面に遭遇した。
「そういうのって、失礼な質問じゃないのか?」と、私は思ったのだが、ロケンローラー氏は、むしろ嬉しそうに答えていた。
「まあ、そこそこにね(笑)」
 と。そして、番組のトークは、ロッカー氏の高校時代のやんちゃエピソードを中心に大いに盛り上がったのである。捨てゴロ伝説。飲酒喫煙&スピード違反告白。そしてワヤクチャになった卒業式のお話で。
 つまり、「やんちゃ」は、市民権を得たわけだ。
 それゆえ、やんちゃを語る人々の口調も、武勇伝を語る人のそれに近くなってきている。というよりも、昨今では、「やんちゃ」話は、ほぼ自慢話それ自体と区別がつかない。
 いきおい、聞く側の反応も、感嘆ないしは敬服の調子に傾く。「すっごいですねえ」と。
 で、最後に、とってつけたように、「いや、若い頃の話ですけどね」みたいな一言が付加されて一件落着。刺激的な内容を含んだトークにディレクターは二重丸をつける。
 昨今のテレビの文脈において、功なり名遂げた人間の非行歴は「恥」ではない。むしろ「栄光」に分類される。でなくても、「やんちゃ」は、克服した「障害」や、乗り越えた「ハンデ」と似た意味合いの、「戦歴」としてカウントされることになっている。
 何が言いたいのかって?
 つまり、「やんちゃ」という言葉を通じて、テレビの中で、暴力がやんわりと肯定されつつあるということだ。
 考えすぎ?
 だと良いのだけどね。本当に。
 テレビがブラウン管であった長い時代、真空のチューブの裡に住む人々は、庶民の憧れであり、ある意味、理想の人間だった。だから、テレビの中の人たちは、建前の上では、他人を殴ったり、飲酒運転をしたり、大麻を吸ったりみたいなことはしないことになっていた。万が一、タレントの非行が露見した時には、視聴者の信頼を裏切った極悪人として、画面から追放される。
 でも、そういう時代は、既に過ぎ去った。
 いまや、誰も、テレビに道徳を求めてはいない。液晶画面の中で右に左に動き回っている21世紀のテレビ出演者は、「暴力はいけません」「法律を守りましょう」といった「建前」の部分をきれいに捨て去ったところからトークを始める。ああ、オレ「やんちゃ」だったよ、ってか、男ってやんちゃだよね、いくつになっても、と。
 かくして、私のようなものが、こういう本のあとがきで、堅苦しい建前論を振り回さねばならなくなっている次第だ。言っている本人として、窮屈なことこのうえない。なんでオレが学級委員長みたいな役回りをやっているんだろう。あんまり不似合いじゃないか。
 いずれにしても、テレビに出演するタレントさんが、「建前」を捨てて、「本能」や「本音」や「欲望」を、モロに語るようになったことで、スタジオの中に「露悪」を賞賛し、「暴力」を賞賛する空気が蔓延してきていることは事実だ。
 大げさにいえば、「やんちゃ」をバラエティートークの一部に取り込むことで、テレビは、「弱肉強食」を推奨し「格差社会」を後押ししている。そういうことだ。
 
 「ドS」(←「どえす」と発音する)という言葉も、いつの間にやらゴールデンのバラエティーの中で堂々と使われるボキャブラリーに成長した。本来の意味は、「性的嗜好おける嗜虐的な傾向」ぐらい。こういう言葉が、小学生がテレビを見る時間帯に連発されていること自体、異様な状況だと思うのだが、問題は、性的なニュアンスにあるのではない。性的な意味を取り除いてもなお、「どS」には「残酷さ」「強圧的傾向」「虐待趣味」ぐらいな不吉な響きが残存している。それになにより、「ドS」みたいな性癖を、本人が自慢げに語るトークを「アリ」としているスタジオの倫理感覚が、どうにもならない。ここにおいて、「暴力」は、もののみごとに肯定されている。権力への媚びへつらいをシステム化し、イジメを定式化するための下地作りが、テレビによって遂行されていると言い換えても良い。って、言い過ぎかもしれないが。
 さて、「やんちゃ」「ドS」の人々の武勇伝が明るく肯定的に語られているその一方で、「被イジメ」の過去は、「恥」として処理される。テレビ画面の中に座を占めるタレントタイプの人間とは対極にいる人々の被虐の記憶は、単なる被害というより、やられた側の人間の失点ないしは恥辱として、あくまでも否定的に描写されるのである。
 で、NHKの教育番組や、深夜の時間帯に追いやられた民放のドキュメンタリー枠が、被イジメの少年たちをひたすらに暗くて弱い魅力のない存在として描写しているのとは対照的に、「やんちゃ」な過去を語る粗暴派タレントたちの面白トークは、ゴールデンを席巻し、プライムタイムを支配している。困った傾向だ。
 この一年で、テレビはようやく細木数子を排除することに成功(ま、本人が飽きて退場しただけのようだが)した。が、江原啓之は残っている。みのもアッコも紳助も健在だ。
 で、基本的にはまっとうな情報を提供してくれていた情報番組が、ちょっとした現場の勇み足で打ち切りに追い込まれている裏で、司会者が暴力事件を起こした法律バラエティは、高視聴率を記録しつつ、相変わらずやんちゃに生き残っていたりする。
 救急箱は、事態を改善しないだろう。
 バンソウコウでできることには限界がある。
 あるいは、私は、自分の目と耳にバンソウコウを貼るべきなのかもしれない。
 できっこないけど。
 最後に、末筆ではあるが、この場を借りて編集の労をとってくれた中央公論新社の濱美穂さんにありがとうを言いたい。逆風渦巻く出版不況のうちにあって、テレビ批評コラムの書籍化は、荒海に小舟で乗り出す暴挙に近い。彼女の蛮勇無くして本書の出版はあり得なかった。ありがとう。
 あわせて、コラム連載中にご迷惑をかけた読売ウィークリー編集部の下田陽氏、および読売新聞社の校閲部のみなさん(←事実誤認や不適切表現について、貴重な示唆をいただきました)に、感謝の言葉を述べたい。
 ついでに、いま本書を手にしている読者(あんたのことだよ)の着眼にも祝福の言葉を捧げておきたい。目の付けどころがシャープだぜ。
 2008年3月吉日。小田嶋隆。
 
 
 
 はじめに
 
 本書は、「読売ウイークリー」誌上に連載中のテレビ批評コラム「ワイドシャッター」のうち、2006年9月から2008年2月までの間に掲載された分を採録したものだ。
 書籍化に当たっては、掲載順にそのまま並べることも考えたが、テーマ別に似たものをまとめてみることにした。そうやって配列すると、もしかして大論文みたいに見えるかもしれないと思ったからだ。
 が、大論文にはならなかった。小さいヘビを64匹集めても龍にはならない。当然の話だ。小さいコラムとはいえ、ひとつずつそれぞれにアタマと尻尾を持っている。蛇頭蛇尾。妥当な荼毘だったと思う。
 連載中は、若干の苦情も含めて、各方面からさまざまな反響をいただいた。
 それらの反響に対する答えが本書だという言い方もできる。つまり、「まとめて読んでみてくれよ」と。
 ひとつひとつの番組に対しての、その場限りの感想としての批評コラムは、時に、空回りして見えるものだ。場合によっては支離滅裂でさえある。が、テレビという巨大な通気口から吹き出す風について、通年で監視している人間の立場から言わせてもらうなら、風向きに多少の違いはあっても、匂いはいつも同じなのだ。異臭は異臭。Issue is issue. ちなみに、issue(イシュー)は、出版物、論点、事件を意味している。なるほど。
 
 タイトルは、「テレビ救急箱」ということにした。なぜ「救急箱」なのか。答えは、いくつかある。以下、列挙してみる。
1.前回の初回テレビ批評コラム集のタイトルが「テレビ標本箱」であったことに対する義理立て。奇縁因縁。悪循環。箱つながり。
2.念のために解説しておくと、前回のコラム集のタイトルを「標本箱」とした意図は、「ここに集められているものは、生きているテレビではありませんよ」ぐらいなところにある。すなわち、「本書が採録しているのは、標本として固定されたテレビの死骸ですよ」ということ。結局、オダジマは、昆虫採集の少年が捕虫網の中の昆虫を虫ピンで刺すみたいにして、テレビの断面を採取していたのである。
3.今回のコラム集は、「標本箱」が1998年から2003年までの5年間に書かれたコラムの中からの抜粋であったのに対して、ほぼこの1年ほどの間に書かれたものに限られている。
4.ってことは、まだ死んでいない。ちょっと動いていたりする。
5.でも、瀕死。
6.そう。テレビは電波として空中に放出された瞬間から、既にして危篤状態だ。そして、衆人環視の中で展開されている断末魔の叫びみたいなものを、遠巻きに見物するのが、21世紀における最も代表的なテレビ視聴スタイルでもある。その意味ではわれわれは誰もが死亡立会人であるのかもしれない。
7.オダジマは医者ではない。だから、相手が瀕死でも、治療はできない。治療するつもりもない。ま、あえてトドメを刺すこともしないが。
8.とすれば、応急処置として消毒をしておくぐらいが精一杯。
9.毒に見える部分があるかもしれないが、毒はテレビの傷口を化膿せしめんとしている細菌に抵抗すべく余儀なく発動している基盤防衛力であって、攻撃はオダジマの本意ではない。
10.だから、本書の中で名指しにされた関係者の人たちは怒らないでね。
 
 テレビが憎いのか、と、本書を読み終わった人は、そう尋ねるかもしれない。
 答えはイエスだ……が、その憎しみは、ある意味で愛情でもある。っていうか、「ある意味で」という但し書きを付ければ、たいていのことは「愛情」で説明がついてしまうわけで、その意味では愛情というのは詭弁だよね……って、何を言ってるんだろう、オレは。
 とにかく読んでみてくれ。たのむ。猛烈に面白いはずだから。ある意味で(笑)。

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