久しぶりです。
またしても、やや長めにお休みしました。
と、まずは、休んでいた間の事情についてお話しします。
とは申せ、すべてを明かすわけにはいかない。理由は、私が、インターネット経由でテキストを読んでいる読者を信用していないからだ。
読者にもいろいろな認識の人間がいる。
仮に95パーセントの読者がマトモな感覚の持ち主であるのだとしても、残りの5パーセントがあらかじめ悪意を抱いて文章を読みにかかる人間であれば、書き手の側が想定している前提は、そっくりそのまま、台無しになる。
少なくとも病気の話はできない。
以前、ある疾患で入院したことがあって、その時は、自分なりに穏当な書き方を心がけたつもりでいたのだが、結果はさんざんだった。
一部の心ない読者が、各方面に悪意ある情報を拡散したことで、私は、一定期間、いやな気持ちを味わう羽目に陥った。
あの時の繰り返しは避けたい。
とにかく、100人の読者のうちにねじ曲がった読解を拡散しにかかる人間が1人か2人混入しているだけで、すべての情報は害意一色に染まったカタチで転写・拡散されることになる。それゆえ、自分がかかっている病気について、正確なところをそのまま無邪気に書き記すことはできない。
病気以外の個人情報についても同様だ。極端な話、たとえばニンジンがきらいだとかきらいじゃないとかいったお話を書くことさえ、なるべくなら回避したいと思っている。なんとなれば、私は、読者を信用していないからだ。というよりも、21世紀の情報環境に信頼を置いていないと申し上げた方が良いかもしれない。
……と、かくのごとき状況を踏まえた上で、現時点で、すでに明らかになってしまっていて取り返しのつかない事情を勘案しつつ、以下、現在の状況を、箇条書きでお知らせしておくことにする。
※ オダジマは2021年の7月27日に、脳梗塞で救急搬送されて、ある病院に入院していた。
※ その病院は、2019年の4月に、やはり脳梗塞を発症した折に、しばらく入院してお世話になっていたところで、今回も同じ病棟の同じ医師にかかった。
※ 2019年の脳梗塞に比べると、今回は梗塞の起こった場所、症状とも違っている。
※ 症状について申し上げるなら、今回の方が重篤だった。内容は発声の困難と、右手、右足の不自由、および嘔吐感と視野の焦点の乱れなどなど。
※ ただ、入院中に血栓を溶かす薬剤の点滴を受け、またリハビリの先生の助けをいただくなどして、症状はかなり改善した。
※ 2019年の脳梗塞では、梗塞そのものよりも、梗塞が起こった原因が、わりと深刻で、そのことが各種の検査を長引かせ、転院して治療を続ける理由にもなっていたのだが、なにが問題だったのかは具体的にはお知らせしない。
※ 今回の脳梗塞は、症状こそ前回より重かったが、血栓が起こった機序は、前回とは別で、なんというのか、はっきりしていない。
※ ともあれ、最初に搬送された病院で、CT、MRI、心電図、各種エコー検査などなど、さまざまな検査と治療を受けて、1週間が経過した8月3日に、この2年ほど、主に別の病気に関連する用事で、通院のカタチでお世話になっている病院に転院した。
※ 転院した理由はお知らせしない。
※ 転院先の病院で、引き続き、いろいろな治療と検査と投薬とリハビリを受けて、8月13日に退院した。
……以上が、公式に告知できる今回の入院の事情ということになる。
要するに、私は7月27日に脳梗塞を発症して、以来、約3週間入院していたわけだ。
さいわい、退院後の現時点で残っている症状は、ごくわずかだ。気づかない人は、気づかないかもしれない。ともあれ、現時点では、それほど軽微な後遺症でおさえこむことができている。
とはいえ、小脳で起こった梗塞で死滅した脳細胞は、二度と復活しないのだそうだ。
死滅した部分の機能は脳のほかの部分が代替的に機能することで補完できるのだそうだが、すべてを補完できるとは限らない。なので、今後は慎重に行動しなければならない。
幸運だったのは、前回の経験と知識があったためなのか、自分の中で起こっている異変にいちはやく気づくことができたことだ。だから、その場で即座に救急車を呼ぶ判断ができた。
もうひとつ幸運だったのは、脳梗塞の発症が、7月27日という日付のうちに起こったことだった。この日は、東京都内で、救急車が比較的自由に動けたギリギリのタイミングだったかもしれない。
発症および救急連絡が3日遅れていると、20分弱で病院に搬送される展開は難しかったかもしれない。1週間遅れていたら、救急車もさることながら、都内の主立った病院の救急医療体制が逼迫していた可能性がある。この点は、一分一秒を争う脳卒中の患者にとって、ラッキーなことだった。
今回は、読者のみなさんに向けて、最低限の帰朝報告のほかに
「日常とはなにか」
というポイントについて、いま自分が考えている内容を、なるべく率直にお話ししておきたいと考えている。
退院後のあわただしい時期に、あえてこんなぼんやりとした話題を持ってきた理由は、ひとつには、退院間もない身である自分が、いまだに時事問題やら政局やらについて、原稿を書く気持ちになれないでいるからだ。
もうひとつの理由は、入院する度に思い知らされることなのだが、自分のアタマで考えているつもりでいた思考が、実は、生活の澱(おり)にすぎなかった気がしているからだ。
じっさい、ある日突然入院患者の身の上となってみると、あらまあびっくり、感じることも考えることも、すっかり以前とは違ってしまっている。それだけではない、自分の目に飛び込んでくる景色そのものが、入院前とは別世界になってしまっている。
ずっと昔、20代の若者だった頃に脚を折って入院した時のことを思い出す。
その折は、2カ月+2週間ほどの入院期間だったのだが、若かったせいなのか、私は入院前とは別の人間になって退院した。
簡単に言えば、人生観が変わってしまったわけだ。
それまで、とりあえず目先の課題を適当にこなすことに主眼を置いていた自分の考え方というのか、方針に、疑問を抱くに至った次第なのである。
「待てよ」
と、病院のベッドで、天井を眺めながら、私は考えた。
「オレは、一生こんな調子でやって行くのか?」
と、ここで余計なことを考える時間を与えられてしまったことが、私を退社させ、さらに、退社に続くぶらぶら者の生活へと導いたのである。
ついでに申せば、退院と同時に、私は少年漫画誌の購読をやめている。
およそ3カ月ぶりに読んだいくつかの漫画が、まるで面白くなかったからだ。
「あれ?」
と私は思った。
「オレは、こんなものを夢中になって読んでたのか?」
公平を期して言えば、漫画が突然つまらなくなったわけではない。
漫画作品の水準がいきなり低下したのでもない。
なんというのか「習慣」で読んでいた部分を取り除いて、純粋に作品として対峙してみると、たいして面白いものでもなかったという、単純な話だ。
人付き合いでも同じことだし、通勤や業務にかかわるさまざまなルーチンでもそうだ。つまり、一旦習慣から離れてしまってみると、自分が真剣にかかわっていたつもりでいる動作や感覚のひとつひとつが、白々しいお芝居に還元されてしまうのだ。
おかげで、漫画は、私の弱点になった。
子供だった時代から少年漫画誌を仲間内で回し読みするサークルを組織して、なんだかんだ4誌ほどの少年漫画誌と2から3誌の少女漫画誌を欠かさずに読んでいた私の漫画教養は、23歳で脚を折った時に、なぜなのか、水泡に帰してしまったのである。
なにが言いたいのかをお知らせしておく。
菅義偉、ならびに森喜朗や安倍晋三、さらに石原慎太郎や小池百合子の各氏が、オリンピックの開催を通じて画策していたのは、おそらく「これ」だった。
「これ」というのは、平たく言えば「国民のアタマの中身を一旦リセットすること」に相当する。
個々人の考えや感覚やアタマの中身をリセットさせるためには、入院させれば良い。ひと月も入院していれば、たいていの人間は別人になる。
「国民」という言葉でひとくくりにされるような雑多な集団の意識を変えるためには、「共同体験」をさせるに限る。たとえば、戦争やショッキングな景気変動に直面すれば、国民の心持ちはかなり劇的に変化するだろう。
ただ、戦争や恐慌は、いかにもリスキーだ。
そこで、五輪だ。
カネは多少かかるし、手間もそれなりにかかる。もちろん、下準備やら工作やらにはびっくりするような労力を傾けなければならない。
でも、洗脳効果は大きい。
なにしろ、「日常」が、ぷつんとその時点で途切れてしまう。
毎度おなじみのテレビ番組も、編成テーブルごと、ゼロからすっかり組み換えになるし、ニュースもなにもかも中断になる。
で、メディア経由で伝わってくる情報は、メダルが積算で何個だからどうしたとか、命がけの特訓によりハチのアタマで死んでもラッパを離さなかったからどうだったといった調子の、戦時報道一色になる。
3週間、こんな調子の国家的狂奔が続くことになれば、結果は明らかだ。
国民は時事ネタを忘れるだろうし、政局にも興味を失う。
万々歳じゃないか。
さてしかし、私は、7月27日からの3週間入院していた。
つまり「東京五輪2020」のオリンピック期間の大半を、私は病院のベッドの上で過ごしていたわけだ。
だから、私は、ひとっかけらもオリンピックを見ていない。
五輪に熱狂していた人々もいたはずだし、その彼らの熱狂を苦々しい気持ちで眺めていた人も少なくないはずだ。しかし、私は蚊帳の外にいた。
このことは、今後、私の強みになるだろう。
いや、もしかしたら、逆かもしれない。
実は、私は、退院してからこっち、自分たちの暮らしているこの社会で起こっているあれこれにまっとうな関心を抱くことができずにいる。
おそらく、この先3カ月は、新聞の紙面をマトモに読むことができないだろう。というのも、以前のような熱意をもって、社会や政治の話題に追随することそのものに疲労感を覚えるからだ。
これは弱みなのかもしれない。
あるいは彼らの狙い通り、なのだろうか。
いずれにせよ、冷ややかな気持ちで暮らす市民がいることは、彼らにとって、脅威であるはずだ。
そうあってほしいものだ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)