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表現の自由とその限界

まあ、「表現の自由」に限らず、世の中に複数の人間が存在する以上は「私の自由は他人の不自由」であり、「無制限の自由」はありえない、というのは最初の最初から自明なことだと思うのだが、なぜか「表現の自由」に関しては「無制限の自由」を頭から信じて疑わない「狂信者」が多いように思う。
まあ、表現者というのをひとつの階層だとすれば、「無制限の表現の自由」の主張は表現者としてのポジショントークなのではないか、という気もする。それとも、「あらゆる表現は無制限に自由だ」と本気で信じているのだろうか。たとえば、私が気に入らない人間を銃で撃つのも、「私の嫌悪感の表現」だから、許されるのだろうか。
まあ、それはもちろんジョークだ。
ただし、「節度ある表現は本気の表現ではないから、表現の名に値しない」という過激派もいるのだろう。たとえば、服を着るのは文明に毒された行為だから、裸体でいるのが正しい行為だ、と思う人間がいてもいいが、そういう人間が(人間社会の節度を破って)目の前に全裸で現れた時に、私がその醜い肉体を見て受ける精神的苦痛というのがあるわけだ。つまり、一方の自由は他方の不自由であるわけだが、その相剋を穏健に解消するには「常識」と「節度」しかないわけである。
まあ、展覧会などであれば、不快な展示物は見に行かなければいいだけの話で、その展示を公権力で禁止せよ、というのは明らかに行き過ぎである。そのあたりが、憲法で許容された「表現の自由」のボーダーラインなのではないか。
先ほどのヌーディストの話などなら、浴場や、プールの着替え室以外の公の場で全裸になってはいけない、というのは常識にとどまらず、ちゃんと法律で規定されているはずである。
昔、公衆の前を真っ裸で走り廻る馬鹿行為が流行したことがあって、そういう馬鹿はちゃんと逮捕されたのだが、展覧会の展示物が一部の(特殊な)人間にとって不快だからと言って、その展示を禁止してよいとする法律などあるのだろうか。




  1. さんがリツイート
  1. シャルリエブドは実際に自国民のテロ犠牲者は風刺の対象にしていないからね。
    1. さんがリツイート
    1. ただ補足しておきたいのは、今フランスで何か事あるごとにシャルリエブドのSNSアカウントはイタリア人の怒りのコメントで溢れかえる。「イタリア人犠牲者を揶揄しておいて自国民の犠牲者は揶揄しないのか」と。いくら表現の自由という建前があっても、誰かを傷付ける表現は根深い嫌悪を生む。


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