最初に言っておけば、私は坂口安吾は好きな作家ではあるが、彼がここで述べている考えにはまったく同感しない。そもそも、この「日本文化私観」というのは、戦後の日本に絶望している日本人を元気づけるために書かれた、いわば、良い意味での「プロパガンダ文書」だという前提で見ないといけないのではないか。つまり、悲惨な現実を「こう見たら、天国だ」と言っているだけだろう。そういう社会的意味合いを無視してこの小論を読むべきではない、というのが私の考えだ。
一番困るのは、そういう「戦後日本の肯定」と美学を結び付けたことで、近代の醜い産物を無理に「いや、これこそが美しいのだ」と言い張るのは、論者の主観の表明でしかなく、主観だけで語るなら、ウンコだって「美しい」と言えるのである。まあ、形態だけで言えば、糞と味噌の違いは無いが、それを混同する思考を「クソミソ」と言う。
もちろん、近代の産物の持つ「機能美」というのはあるが、それが美学的に見て最上ということはまったく無い。むしろ美は機能性を逸脱したところにある、と主張してもいいのである。つまり、安吾が否定する、日本で珍重されてきた伝統的な美、骨董品などの美は、その機能性からの逸脱というか、機能性とは無縁なところにあるのであり、実はその機能性そのものが、「目的とされる機能」以外にはまったく使えないという非機能性を持つのが近代工業の弱点ですらあると私は思っている。これ(機能性礼賛)を敷衍すれば、「役に立たないものは存在価値が無い」という残酷な資本主義の肯定になるのではないか。
(以下引用)
まぁ、自分がひどい貧乏だというのもありますが、
私は、結構「淪落の美」とか「淪落の世界観」といったものが好きです。
小説の方はまったく読まないにもかかわらず、坂口安吾の『日本文化私観』という本が好きで、何年かに一度、無性に読みたくなることがあります。(もっとも、読むといっても、いつも、お気に入りの箇所をパラパラと目で追うくらいものもですけどね)
特に、日本の「わび・さび」的なものよりも、実用的・実践的(プラグマティック)で合理的なものの方に心惹かれるというのも、何となくわかるような気がします。
その辺の感覚をあちこちの本文や各人の解説から借りて抜き出してみると…
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法隆寺も平等院も焼けてしまつて一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。
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必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
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やむべからざる実質がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。
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美を支えるものは実質であり、止むに止まれぬ必要であり、それは工場の機能美も文学も同じ、美しさを加えるための余計な行為が却って美を損なう、と。そして、堕落とも退廃とも見える終戦後の人々の有様も、また実質そのものであると
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日本の文化というものは日本人が生きて暮らしていればそこに自然に生じるものだ。リアルな生と重なり合わない空虚な美しさは必要ない。全ては生きるために。必要なものを必要な場所に。無駄は全く存在せずただただ実用的に。そうした生きるために最適化された中からこそ人は美しさを生み出す。そこでの営みこそが美しく輝く。
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歴史的な古寺名刹よりも刑務所や工場に機能的な美を見出し、伝統的な建造物が焼失しても、そんなことでアイディンティティや生活者の本質などは、何も損なわれることはない…
なにか、この時期の坂口安吾の提起するある種アナーキーな考え方、居直り感が、今の中国の活気・活力のベースとして、そのまま増幅して移行しているような気がします。
それに反して、日本人は情緒的な感覚や伝統的なスタイルを気にしすぎ、それに安住して固執しながら衰退し続けているということでしょうか…
まぁ、それが日本人の良き特性でもあるのですが、時にはもっと生活の欲望を前面に掲げて、なおかつキッチュな嗜好も若干加えて、無定形な方向に走っても良いのでは… と思いますね。
ということで、
逆説的に、日本よ、今こそ「さらに墜ちよ!」「もっと墜ちよ!!」と言いたいところです。