晩酌をしながら読書をし、その本の中で得たヒントを基にしての思索だから、酔っ払いのたわごとであることは最初にお断りしておく。
大野晋の自伝的随筆「日本語と私」の中に、北条民雄の「いのちの初夜」の一節があり、そこにらい病患者のうめきが書かれている。「同情はいらない、愛情がほしい」と。
さて、らい病患者が愛情を求めることは妥当だろうか、というひどい質問が、私からの問題提起である。らい病患者には限らない。はたして、人は他人に愛情を要求できるのだろうか。そもそも、愛情と同情の違いは何か。
数刻前に、ディケンズの「大いなる遺産」の前編を読み終えたところなので、その中の一節を引用しておく。
「ほんとの愛とはどんなものか、おまえにいってあげよう」と、彼女はおなじ早口の熱情的なささやき声でいった。「それは盲目的な献身です。疑うことを知らない自己卑下です。絶対的な従順です。信頼と信仰です。おまえ自身にそむき、全世界にそむいて、おまえの全身、全霊を、おまえを打つものにゆだねてしまうことですーーちょうど、わたしがそうしたように!」
で、私は、結婚式の直前に婚約者に裏切られ、それ以降の時計をすべて止めた、このミス・ハビシャムとまったく同意見なのである。そうでない愛など、ただの計算にすぎない。
とすれば、他人に愛を求めることが本来的に不可能であることは論理的必然だろう。
「愛のおのずから起こるまでは、呼び、かつ覚ますことなかれ」
という旧約聖書の「雅歌」の言葉は、永遠の格率(従うべき規範)なのである。
愛とは、呪いであり、理不尽な運命なのである。
ちなみに、「同情」と「愛情」の違いを言えば、「同情」とは、自分がその立場にいない者からの「優越心」を背景とした慈善的感情である。つまり、「同情する私は上」「同情されるあなたは下」という上下関係が絶対的前提としてあるから、世間の大多数の人間はあれほど同情されることを嫌うのである。それも、結局は「自分を価値ある存在と看做したい」というくだらない自尊心や自己愛の将来するところでしかないのだが、そういうちゃちな「プライド」は案外、多くの人の共感を呼ぶようだ。つまり、それほどに人間の自己愛というものは度し難い、ということである。