男にとっては恋愛は片手間仕事であり、恋愛とそれ以外の仕事(日常の業務)は厳然と区別される。女は恋をするとそれが生活のすべてに優先する。仕事をしながら恋愛もする、という女は中身は男だろう。社会性という面から言えば、恋愛とその他の生活を明確に区別できる方が便利だ。だが、そういう恋愛が真の恋愛と言えるとも思えない。
すなわち、タモリの言うように「女は人を愛するプロ」であり、男は人を愛することのアマチュアだ。ただ問題は、そういう女の相手となって、親も兄弟も友人も捨てて、すなわち社会生活のすべてを犠牲にしても恋愛にのめりこむ男は、社会的見地からは人間のクズだ、ということだ。なぜあれほど素晴らしい女性が、あんな人間のクズと一緒になるのか、という事例は多いが、それは男から見ての話であり、女は恋愛のできる相手と恋愛をしているというだけのことだろう。相手のあらゆる欠点は、恋愛中の女にとってはどうでもいいことなのだ。
まあ、要するに恋愛とは、一過性だが何度も再発する精神病の一種である。(もちろん、「運命の人」など存在するはずはないw)
子供に対する愛は、また話が少々違うかと思うが、論じるまでもないか。
なお、恋愛は精神病だと書いたが、それが無価値だとは言っていない。大方の精神病も、当人にとって実は価値があるというものもあると私は思っている。むしろ、恋愛をすることで世界のすべてが輝いて見える、ということもあるだろう。自分がそう思うならば、それが正しいのであり、実際、その時世界は輝いているのだろう。
どこかで書いたステンドグラスの比喩(リルケの言葉だったか)で言えば、我々の見ている世界は、客観世界の白色光線が主観というステンドグラスで彩色されて壁に映ったものなのである。その色彩が美しければ、それでいいわけだ。
(以下引用)
タモリが男と女の“愛情の違い”を語る「女は人を愛するプロ」
21日放送の「ヨルタモリ」(フジテレビ系)で、タモリが男と女の愛情の違いについて鋭く指摘する一幕があった。
同番組でママ役を演じる宮沢りえは、自信(夢人注:「自身」の誤記だろう。)が子どもを出産し、母親になったことでどういった心境の変化があったかを告白した。
宮沢は基本の自分は変わらないと話す一方で「(子どもが)自分より大事だと思える存在になるっていうのは(あった)」と胸中を明かした。
すると、岩手のジャズ喫茶マスター「吉原さん」を演じるタモリは「女性の愛情はスゴイ」「女は人を愛するプロなんだよね」と女性の愛の深さに感じ入る様子をみせた。
続けてタモリは「それにくらべたら男は愛するなんてことは仕事も同然よ」と、独自の視点で男女の愛情の違いを分析し、女性の愛情や女性が子どもに与える愛情は「スゴイもの」だと語った。
(追記)孔徳秋水氏のツィートより。私の言う主観と客観の間にこの「空」観を入れるといい。「空」を観じる(私流に言えば、「自分」という存在を完全に度外視して、世界を観、その価値を考えること。)ことで主観を離れ、客観世界を垣間見ることができるのではないか。だが、「自分」という存在(世界認識の主体)は、その外(自我の外)に存在する無限の客観世界と同価値なのである。
1.”空”…それは、買ったばかりの新品のパソコンのようなもの…何にも入っていないから、無限の可能性がある。
2.[1/2 15:27] 手放せば手放すほど入ってくる…空っぽにすればするほど満ちてくる…
3.[1/2 15:25] たとえば、「交通安全は、譲り合い」というではないか。わずかなパンと魚を分け与えたら、3000人が満腹になり、かごいっぱいに余ったというのも、それほどおかしな”奇跡”ではない。
4.[1/2 15:23] 愛の法則とは、余計なものを手放しなさいという教え。みなが余計なものを手放せば、みんながもっと豊かになれる。幸せになれる。