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世の中に真の恋愛はほとんど無いから社会は平和である

前々回の記事に書いた「自己愛」のことをもう少し考察してみる。
あのスレッドの恋人たちは、実は恋人でも何でもなく、可愛いのは自分だけ、愛しているのは自分だけ、というカップルだと私は思うのだが、世間のカップルの大半はそうなのではないか。だからこそ浮気や不倫などというのもあるのだろう。
自己愛は人間の、いや、動物の基本本能だが、動物の場合は自己保存、自己防衛という形を取り、人間の場合は「愛」という抽象的な観念に置き換わる。
「愛」とは何か、と論じるとまた難しくなるが、「何かが欲しい」という感情の一種であると同時に、その対象との(精神的な、あるいは肉体的な)一体化を望み、その望みがかなえれらない場合には非常な苦痛を覚える、というものかと思う。つまり、一種の欠乏感だ。そういう意味では愛と性欲と食欲の間に大きな開きは無いのだが、恋愛の場合には、少し違うものがあるように思う。

真の恋愛の場合には、「対象の絶対化」が起こり、その絶対性の前には、自己愛すらも影をひそめ、甚だしい場合には自己犠牲というものが生じる。これが性欲と真の恋愛の相違である。
つまり、生物本能的な愛(食欲や生殖欲や性欲などの、欠乏感とその克服の欲求)と恋愛は別次元のものになるわけである。自己犠牲というものほど生物の本能とまったく相反する行為がほかにないことは誰でも分かるだろう。自己犠牲の話が常に我々にあれほどの感動を与えるのは、そのためなのである。つまり、自己犠牲とは、人間が神的なレベルに達する、ということである。
だが、恋愛の場合には、その対象が個人である、ということからまた問題が生じる。自己犠牲では済まず、社会の道徳的規範も他のすべての束縛も踏みにじってもその恋愛を成就したいというのも、また「真の恋愛」のひとつなのである。「八百屋お七」の話はその典型だ。恋愛の話としては感動的だが、そのために焼き殺された無数の江戸市民にとっては、恋愛ほどはた迷惑なものは無いwww

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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