著:Mathew Schmalzザ・ホリー・クロス大学、Associate Professor of Religion)


 ファッションデザイナーのケイト・スペード氏有名シェフ兼作家のアンソニー・ボーディン氏が、最近相次いで自殺した。二つの事件は、たとえ富裕層であっても人生が耐え難いものになりうるという事実を私たちに再認識させた。


 悲しむべきことに、アメリカでは自殺率が上昇しており、過去10年間で30%近くも増加した。特に女性十代でその傾向が顕著だ。


 だが、それは何もアメリカに限った話ではない。自殺はどこでも増えており、それは世界の至るところで人々を捉え、その家族にも大きな苦しみを与えている


 自殺の倫理は、歴史を通じて、今も昔も変わらず世界の宗教にとって重大なテーマだ。


◆命は誰のもの?
 世界の宗教の多くが、伝統的に自殺を戒めてきた。その理由は、人間の命は原則的に神のものだという信仰に基づいている。


 ユダヤ教の伝統で自殺がタブーとされるのは、「創世記」の9章5節根拠となっている。そこには次のように書かれている。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する」(新共同訳1987)これはつまり、人間は自らが下した選択に対して神から責任を問われるという意味だ。この観点からすると、人間の生死は神に属するものであり、人間が勝手に決めてよいものではない。ユダヤの民法であり宗教法でもあるタルムードには、自殺者に対して、ユダヤ人墓地への埋葬をはじめ、通常ならば死者に対して施されるはずの儀式や措置を拒絶してきた過去がある(ただし、もちろん今日ではそのようなことはない)。


 カトリックの教えでも、自殺については同様の視点をとっている。初期キリスト教の司教であり哲学者でもあったヒッポのアウグスティヌスは、「自らを殺す者は殺人者である」と記した。実際、20世紀初頭の規範的なカトリック信仰の集大成であるピウス十世のカテキズム(教理問答書)には、自殺した者にはキリスト教徒としての埋葬を拒否すべしと書かれている(この禁止措置は、現在は実施されていない)。


 イタリアの詩人ダンテは、代表作「神曲」の第一部「地獄」の作中で、伝統的なカトリック信仰を基に想像を広げ、自殺を犯した罪人達は地獄の第七階層で樹木としての存在を与えられ、そこで伐採や剪定を受けて血を流して苦しむ、と描写した。


 伝統的なイスラム教の解釈でも、自殺した人々の運命はやはり恐ろしいものだ。預言者ムハンマドに関する伝承をまとめた「ハディース」では、自らを殺す者達は地獄の業火に焼かれるとして、イスラム教徒に対して自殺を戒めている。さらに地獄では、その自殺の方法に従って、自分自身に痛みを与えて苦しみ続けるのだという。


 ヒンドゥー教では、自殺はサンスクリット語で「アトマトヤ」、つまり「魂の殺戮」を意味する言葉で呼ばれている。このアトマトヤは、カルマの連鎖を生み出して魂の解脱を妨げるとされる。実際に、インドの民話には自殺した人々の話が数多くある。誕生と再生に関するヒンドゥー哲学によれば、自殺者は転生できずにその魂は地上にとどまり、時として生者に災いもたらすということになっている。


 仏教でもやはり、自殺と自殺の幇助および教唆を禁じている。その理由は、そういった自傷行為は苦しみを和らげるどころか、さらなる苦しみの原因となるからだ。また、根本的なところでは、自殺は最も基本的な仏教の道徳戒律である「不殺生戒」に反している。


◆利他的自殺
 このように、多くの宗教が伝統的に自殺を禁止してきたのは事実だ。ところが、人生に絶望しての自殺と異なり、コミュニティのため、あるいはより大きな善のために為されるある種の自殺は、場合によっては許容され、賞賛されることすらある。


 フランスの社会学者エミール・デュルケームは、その代表作「自殺論」の中で、より高次の原則やより優れたコミュニティを実現するために自分を殺す行為を「利他的自殺」と名付けた。確信をもって神やその他の宗教的目的のために自らの命を捧げる行為は、歴史を通じて、「利他的自殺」のもっとも優れた形態と見なされてきたのである。


 現ローマ教皇のフランシスコ法王は最近、「聖人」の枠を新たに拡大し、他者を救うために自らの命を放棄した人々、「オブラーティオ・ヴィタイ」をそこに加えた。言うまでもなく、キリスト教もイスラム教も、「殉教」の概念を強く持つ宗教であり、その概念は、戦いの中で自らの命を犠牲にする行為にも拡大適用されてきた。一例をあげると、「狂信のユーグ」の名で知られる十字軍兵士は、敵に包囲された城塞において、塔の上から自ら地上に身を投げ、自らの肉体でもって眼下に集うトルコ兵を圧殺した。


 そこにある暴力と圧制に対する世界の関心を喚起する目的で、仏教の僧侶が焼身自殺するという事件が、ベトナムで、さらにはチベットにおいても過去に起こっている。またヒンドゥー教では、悟りを得た後に断食苦行によって死に至るという伝統も一部に存在する。また歴史的に見ると、死んだ夫の後を追って妻が焼身自殺する「サティ」と呼ばれる風習や、戦争において敗色濃厚となり、奴隷に落とされることが確実に予想される状況で、コミュニティの女性すべてがそろって自死する「ジョウハル」という風習も、古い時代のヒンドゥー教には存在していた。


 今ここに挙げた例はすべて、人命よりも重要な原則や目標があるという考えが根底にある。つまりそこでは、自己犠牲と自殺とは別のものと見なされる。信仰に則って自分自身の命を手放す行為は、希望を失って死を選ぶ行為とは一線を画するというわけだ。


◆自殺について再考する
 生命の神聖さを根拠に自殺を戒めるアプローチは、伝統的な宗教がもっとも普遍的に行ってきたことである。だが現実には、このアプローチが自殺を真剣に考えている人々にとっての救いになるケースはまれである。ましてや、そのあとに残される家族にとっては何の慰めにもならない。


 明るい要素を述べるとすれば、どのように自殺を防げばよいのか、その議論に役立つリソースが今日どんどん増えてきていることだ。また、最も重要なところでは、世界の主要な宗教が、過去に比べると自殺を考える人々に対して同情的で、彼らの心を理解しようと努めるようになってきたことも見逃せない。ユダヤ教カトリックイスラム教仏教ヒンドゥー教―― そのどれもが、自殺を視野に入れて苦しむ人々に対する包括的できめ細やかな援助プログラムを確立してきている。


 そういった状況を見ると、絶望の暗がりの中で苦しむ人々を、神はことさらに愛している、という見方も可能だ。もしもそうであるならば、自殺はもはや神罰を招く行為ではなく、それは誰にでもふりかかるきわめてありふれた脅威であり、またそれは同時に、人生の希望は神から贈られる貴重な恩寵なのだと、改めて我々が学べるきっかけなのかもしれない。


This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Conyac
The Conversation