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「我が身可愛さ」がなぜ悪とされるのか

「混沌堂主人雑記」の最新の記事のタイトルが、私には非常に示唆的なもので、「自己防衛本能が人間およびすべての動物の根源的本能だ」という私の思想に完全に対立する言葉で、そこから私が長い間考えている究極的な道徳、モラルの大きな柱になる思想に発展しそうなので、メモ的にそのタイトルを引用しておく。
そのモラルは「自己防衛が人間の本能である以上、もっとも崇高な行為は自己犠牲であり、もっとも醜悪な行為は他者に自己犠牲を要求することだ」という言葉にすることができるだろう。そして、多くの他者批判は、自分は安全な場所にいながら他者に自己犠牲を要求するものではないか?
さらに言えば、「利己主義自体は人間の本能であり、批判されるべきものではなく、それが他者を犠牲にする場合に批判される」と言ってもいい。あらゆる行為は自分の利益を求めてのものだと言うこともできるだろう。それを悪だとすること自体が、まさに「偽善」であり、問題は、自己の利益と他者の利益をどちらも達成する道を探すことではないか。なぜ、利己主義と利他主義を機械的に対立させる必要があるのか。利他行為は自分の利益でもある、というのが善行(特に公徳)を推進する意義ではないのか。
少し酒が入っているので、下の言葉への考察は先送りしておく。それは次のような言葉だ。先に言っておくと、「我が身可愛さに国を売る」ことを私はまったく批判できない。そうしないと殺すと脅迫されれば誰でもそうするはずだからだ。それを批判する人間は、「自分(家族含む)は殺されても国民全体の幸福のために自分を犠牲にする」と断言できるか? 私が岸田にやや同情的なのも同じ理由である。敗戦以降は売国は日本のトップの宿命なのである。つまり、敗戦時の昭和天皇の「売国」を私はまったく批判しない。聖人だけがそれを批判できるだろうが、その種の聖人こそたいていは偽善者ではないか。いや、偽善でも、自分の命を捨てられるなら偉いが、単なる批判ならどんな下種でもできるのである。

(以下引用)

そりゃ、「象徴」がわが身可愛さに国家を売り払うと、エリートも倣います。

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