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「利他主義」とは何か

「東海アマ」ブログの一節だが、「利他主義」というものについて考察してみたい。

東海アマ氏の定義では

人が自分よりも他人を大切にする思想を「利他主義」と呼ぶ

ということになっているが、これは「自己犠牲」というものであって、「主義」にはなり得ないだろう、と私は思う。つまり、愛する人や愛する我が子のために自分の命を犠牲にするという行為はしばしば見られるが、それは「主義」でも何でもなく、普段の感情の習慣の結果だと思う。毎度言うが、感情は理性とは別の中心を持つのであり、理性(言い換えれば「主義」)によって我が身を他人の犠牲にする人間はほとんどいないだろう。キリストでさえ、自分の処刑の前に「神よ、この盃(死の苦難)を私より去らせたまえ」と祈り、槍に刺されて死ぬ間際には「我が神、我が神、何ぞ我を捨て給いし」と言ったのである。これらは感情の言葉であり、理性の言葉ではない。世界に、キリスト以上の高貴な精神を持った人間がたくさんいるなら「利他主義」という言葉も意味があるだろうが、そうでなければ無意味な言葉だろう。
私の思想では人間は「自己愛の動物」であり、その点ではすべての動物の「自己保存の本能」とまったく同じである。人間はそれを言葉で装飾するだけであり、また社会生活を営むうちに、他者を自分と等しく愛する経験をし、あるいは自分以上に他者の命を大事に思うこともあるが、それは基本的に他者を「自分の自我の拡大」とするからだろう。たとえば、子供が、拾った石ころを大事にして、それを母親が捨てると怒ったりするが、それはその石ころがその子供の「自我の拡大」であり、子供の一部だからである。
だから、他人の愛する物を捨てることは、その人を捨てるに等しい行為である。よく、夫が趣味で集めた品物を夫の留守中に妻が勝手に捨てて喧嘩になることがあるが、それは、「相手の愛する物は、その相手の一部である」ということを理解していないからである。
そうすると、東海アマ氏の言う「利他主義」つまり「他者を自分よりも大切にする」ことが本当に可能かどうか、非常に怪しいものだ。悟り切った坊さん(宗教者)でも、まったくの他人のために自分の命を捨てた事例はほとんど無いのではないか。

(以下引用)

 人が自分よりも他人を大切にする思想を「利他主義」と呼ぶが、2050年以降は、きっと「利他主義」を掲げた「極楽浄土」になるのだろうと私は思う。
 ただし、そのためには、第二次世界大戦を超える残酷、残虐な戦争と破壊を経験しなければならない。

 ネット上には、二極化の分析が溢れているが、「目覚め」だとか「愛=許し」だとか「ゲートが閉じる」だとか、抽象的な表現ばかりで、現実の人生にフィードバックできる論理、概念は甚だ少ない。
 そもそも「本当にアンタ、自分の言葉を理解できてるのか?」と突っ込みたくなるようなキレイゴトの抽象的概念の羅列が多すぎるのだ。
 まるで観念の言葉遊びとしか思えない。

 「人を許す」なんて言ったって、私の近所に住んでる泥棒は、私の道具類を片っ端から盗み出して、それを警察に告発しても、「おまえがウソをついている」と決めつけられて、精神病院に連れて行かれるような私の体験をしてみれば、泥棒に対して「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんてキラキラした目で「愛の世界」を語ることが、どれほど空しく愚かなことか思い知ることになるだろう。

 私は、近所の泥棒に対して強烈な殺意を抱いた。だが、やってしまえば、もうブログも書けないし、刑務所暮らしに快適さも感じられないから仕方なしに我慢しているだけだ。そのストレスは筆舌に尽くしがたい。
 しかし、私は、この得がたい体験から、いろいろ学ぶものがあった。
 それは、自分が、どれほど背伸びをした自己撞着に陥っていたかを思い知らされたことだ。

 こうした、個人の悪意による迫害、権力による迫害に遭ったとき、絶対にやってはいけないことを私は激しく学ばされた。
 それは、自分の限界を知り、決して感情に支配されてはならないということ、犯人と直接対決してはならない。そして、決して背伸びしてはならない。
 自分の限界、小ささ、愚かさを正しく理解し、無理をせず、決してスマートに解決しようとせず、泥臭く、小さな対策を確実に積み重ねることだ。

 私の相手Aは、ただ者ではなかった。正真正銘のプロの泥棒であり、監視カメラの赤外線の到達距離さえ見切って死角から侵入してくる。そして恐るべき卑劣な性格で、あらゆるウソをついて人を平然と騙す人物だった。
 この男と立ち向かうには、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」を肝に銘じて、素朴で泥臭い対策を積み重ねて、じっくり構えて釣り上げるしかない。
 そして、まだそれは成功していない。すでに被害を受け始めて三年も経つのに。唯一の希望は、Aが、この土地から逃げられないことだ。

 結局、このようなプロの迫害者と対峙するには、自分の弱点を知り、泥臭い小さな努力を重ねて網にかかるのを待つしかないのだ。
 この経験は、私の人生でも初めての深刻なものであり、自分がどれほど実力もないのに背伸びした思い上がりに浸っていたか、強烈に思い知らされるものであり、人生のうちに一度は、こんな経験をさせられるのだと心に刻むしかなかった。

まあ、ネガティブに対抗するポジティブ側が、これからどのように生きていったらいいのか? という視点でも、この体験は、大きな教訓を与えてくれた。
 最大の教訓は、「絶対に自分の実力以上の背伸びをするな」ということだ。
 ポジティブ側の力は小さい。「調和」を求めて、いろいろな試行錯誤をやるのは当然だが、多くの場合は、自然の摂理を無視した強引なビジョンを実行し、行き詰まることになる。それは自分への過信が生み出すものだ。

 ネガティブ側は、これから憲法改悪、9条破棄、原発再稼働、新設、核兵器保有と、すでに数年前から予告してきたように「カラスの勝手でしょ」と、国民の反戦平和ポジティブ勢力の意思を完全に無視して、決して反対勢力と邂逅しようとせず、ネガティブ国家主義に突っ走るだろう。
 そうしてホンモノの戦争がやってくる。原発事故も再発するだろう。

 こんなとき、反対運動を計画してみても、それが盛り上がり勝てるような条件は存在しない。
 ポジティブ側も「カラスの勝手でしょ」と、持続可能な未来に向けて、小さな歩みを続けるしかないのだ。
 それは、何度も書いているように、過疎の深い田舎に、共同体農地を確保し、自給自足のダーチャ農園を作り出すことだ。

 まずは、山奥に自分たちの共同農地を確保し、一歩でも二歩でも自給自足ライフスタイルを獲得することだ。
 これがネガティブ勢力が滅んだあとに、ポジティブ勢力が生き残る唯一の道であると私は考えている。
 少しずつ、一歩ずつ遅遅として、利他主義思想を共有した共同体を建設することだけが、持続可能な唯一の道であると思う。

実力以上のことは決してできない…… これが教訓だ。

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