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「文化防衛論」の考察(後段4)

13)~16)を考察する。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

14)文化概念としての天皇は〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。

(考察)言葉が生硬な以外は、内容的にはこれまで書いてきたことの繰り返しであるので理解は容易だろう。言っていることは「天皇は日本文化の中心であり象徴だ」というだけのことだ。

15)文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなる。


(考察)天皇が「無秩序(革命者・反逆者)の側」に立つこともあるのは、歴史上何度もある。特に鎌倉・室町時代と明治維新に顕著だ。私はこれを「天皇はやじろべえの中心のような存在だ」と論じたことがある。ただし、三島の言うような「権力が国と民族を分離させようとする」時に、天皇パワーの発動があったとかあるとは思わない。これは三島の持論(国と民族は一致していなければならない)に天皇というピースを無理に当てはめたものだろう。そもそも、ここで言う「権力」や「国」の意味が曖昧である。普通は権力とは政府を指し、政府は国を代表する機関である。その政府が国と民族(国民)を分離させるということの意味が分からない。まあ、合理的な解釈があるとしたら、ここで言う「権力」は日本政府ではなく、米国であり、今で言うならジャパンハンドラーだと解釈できるだろう。彼らが日本に常に内部分裂工作を行っているのは自明である。

16)「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇であり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそが日本および日本文化の危機を救う防止策になる。


(考察)ここでまた〈菊と刀〉が出て来るが、三島が曖昧な表現で言っているのは「天皇に統帥権を持たせよ」という主張だと単純化できるのではないか。「などてすめろぎは人となりたまひし」という恨みである。まあ、私はこの心情や主張に共感も賛成もしないが、天皇という存在を日本国民の統合の象徴として、もっと機能として活用することを議論していいと思う。


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