(以下引用)
「わたしは、もう少しのところで、挫けてしまうところだった。わたしはほとんど、うちひしがれていた、――わたしの勇気も、わたしの自尊心も、この一時期のあいだに、ほとんど失われてしまっていた。[中略]朝は、非常な不安とともに起き上がった。びくびくおそれながら、工場へ出かけた。奴隷のように働いた。昼休みには、胸の張り裂けるような苦痛で一ぱいだった。五時四五分になると、さっそくたっぷりと眠って、朝は早く起きようという気持ちだけに心をみたされて、帰ってきた(十分眠ったことは一度もなかった)。時間が、耐えられないおもしのようにのしかかってきた。次にどんなことが起こるだろうかというおそれ――恐怖――のために心をしめつけられ、土曜日の午後と日曜日の朝にだけしか、そういうおそれから解放されなかった。何をおそれていたかというと、命令であった」(2)。
ヴェイユにとって、工場での過酷な労働は奴隷に身をやつすことを意味した。降りかかる絶え間ない怒号と命令。自分を下落させる隷従状態にある苦痛。隷属の影響は、人間の魂にまで及ぶ。悪辣な条件と環境のもとでの労働は酸鼻を極めるものであり、ヴェイユの言葉を借りればそれは「自分の中にある人間的なものを屈従させたり、むりやり押し殺したり、自分を曲げて、機械に隷属させたりするだけの暗い場所」であった(3)。
(中略)
貧困は怠惰のせい? 日本の通俗道徳
まずは私たちにとって浅からぬ関係にあるであろう日本の場合から見ていこう。
日本において、労働の道徳化は江戸時代後期から明治時代にかけて醸成されてきた。それは日本が近世から近代へと移行していく、まさに過渡期にあたる。
歴史学者の安丸良夫は著書『日本の近代化と民衆思想』のなかで、この時期に形作られていった労働にまつわる道徳を「通俗道徳」と名付けた。すなわち、勤勉、倹約、謙虚、孝行、さらには忍従や献身といった徳目からなる生活規範である。これらの「徳」を実践することで、富や幸福がもたらされると信じられていた。当時の大部分の日本人は、社会的な圧力や習慣によってそれらを内面化することで、これらの通俗道徳を自明の当為として生きていたという。
通俗道徳は元禄・享保期に最初に形成されはじめた。当然、そこにはそうした思想形成をうながす導因がなければならない。安丸によれば、この時代の日本人における現実的な課題、それは「どうしたら家の没落をふせげるか」だったという。
江戸時代後期、すでに大阪などの都市部を中心に商業活動が活発化し、商人たちが商品の需要と供給を管理するための仕組みが整備されていた。商品経済が到来しつつあったこの時代、地主階級における「家の没落」はすでに珍しいものではなく、家を失った者の多くは大阪か堺に流出して、そこで都市貧民層を形成した。そうした状況のなかで、「没落」に対する恐れと不安の只中から、倹約や勤勉を「善きこと」として重んじる通俗道徳が発生してきたのだという。
やがて、こうした諸思想は農村部でも展開され、民衆を教化する役割を担うようになる。
一八世紀末以降、おりしも経世家の二宮尊徳や大原幽学などが各地を巡りながら窮乏した農村の復興をはかろうとしていた。尊徳によれば、農村の貧困と荒廃の原因は、農民たちの精神の内部にまで浸透した怠惰・飲酒癖・博打などの悪習であるという。尊徳は、これらの悪習をやめ、倹約と勤勉を身につければ生活を立て直すことができると農民に説いた。これは言うまでもなく通俗道徳である。
だが実際には、農村の窮乏の原因には、封建権力と商業高利貸しによる苛酷な収奪などの経済的な要因が深く絡み合っていた。だがそうした問題はいっさい棚に上げ、尊徳は貧困の問題を農民の生活態度と内面の問題に還元させている。つまり、貧困は一方的に彼らの怠惰と努力の欠如のせいにされたのである。
このように、地主や農村の指導者は、通俗道徳を繰り返し説くことで、農民たちに勤勉で禁欲的な生活規律を内面化させた。