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「こがね丸」8

8

<朗読>



 大怪我をした黄金丸が床に伏してから早やひと月ほど経った。身体を打たれた傷の痛みはなくなりはしたものの、骨を折られた右前足は癒えるにはほど遠く、歩くのさえやっとであった。



 「このまま傷が治らず足が効かないようになってしまったら、生まれ持った大丈夫のこの私とは似ても似つ付かぬものになってしまう。そうなってしまっては父母の仇討ちなどできようはずもない。今のうちによい薬を手に入れ、この傷を癒さなければ、元の私の姿には戻ることはできまい」



 黄金丸は右前足の怪我の治りがはかばかしくなく、思うように動かぬことをしきりに心配してこう言うと、あちらこちらと良薬を探して尋ね歩いていた。ある日鷲郎が慌ただしく帰ってきて、黄金丸にこう言った。



 「おう、黄金丸、喜べや。今日な、出先でな、よい医者がおるという噂を聞いて来たぞ」



 黄金丸は鷲郎に向かって膝を進め、矢継ぎ早にこう言った。



 「それは何と耳よりな話。で、その医者はどこのどなたなのだ、鷲郎」



 これを聞いて鷲郎は、



 「うん、あのなあ、今日、俺は里に出て、あちらこちらうろついておったのだが、そこで古い仲間とばったり出くわしたのだ。その昔のよしみが言うにはな、ここを出て南の方へ一里ばかり行ったところに、木賊ヶ原という所があってな、そこに朱目の翁(あかめのおきな)という名のなかなか立派な兎がおるそうだ。この翁はな、若い頃、芝刈りの爺さんが留守の間に悪狸に妻の婆さんを殺められ、しかも殺された婆さんは鍋にされた揚げ句、狸の奴、婆さんになりすまし、帰って来た爺さんに婆さんの鍋を食わした事件があったろう。うん、そして悲しんでいた爺さんの仇討ちに手を貸して、見事仇の狸を海に沈めた兎がおった話を知っておろう。あのときの殊勲の兎がこの翁だそうな。この翁はな、その時の功を認められて、月宮殿にてかの嫦娥より霊力あらたかな杵と臼を拝領し、その臼杵を用い種々様々な薬を搗いては病に伏せるものに遍く施し、今は豊かに世を送っておるという。この翁の所へ行き、良薬を賜れば、病や怪我で苦しんでいる獣で治らぬものは大方ないということだ。実はその昔のよしみもな、先日、里の子供の投げた石で打たれて、左後脚に怪我を負ったそうだ。で、その傷を治すため、その翁の調合した薬を手に入れて処方したところ、傷はみるみるうちに治ったそうだ。ということだから、俺は早速その翁の所へ出向いて、薬を手に入れて来ようと思ったのだが、はて、ただ床に伏せたまま病と闘うまでには弱ってはおらぬばかりか、一刻も早く傷を癒して仇を討たんと諸処尋ね歩くほどの気根のあるお主のこと、俺がどうこうするよりも、お主自らその翁の許へ出向き、これこう、このようにと翁に親しくその傷を見せ、翁の眼識をもって処方を受けた方が、なおいっそう頼りになるであろうと思ったので、飛んで帰って来たのだ。お主、体を動かすのは甚だ苦しいではあろうが、少しも歩けぬという程ではなし、どうだ、気分が良くば、試しに明日にでも行って診てもらってはどうだ」



 と言った。この話を聞き黄金丸は大層喜んでこう言った。



 「それは実に嬉しいことだ。そのような立派な医者があるということを、本日今まで知らなかったというのは誠に間の抜けたことであったな。そういうこととあらば、明日早速出向いて薬を求めることにしよう」



 と、黄金丸はクラゲの骨を得たような、あり得ないような話を聞いて嬉しくてたまらなかった。



 翌朝、黄金丸はまだ東の空も明けやらぬ前から起き出し出立し、教えられた道を辿って行くと木賊ヶ原に出た。しばらく行くと櫨の木や楓などが美しく様々に色づいた木立の中に、柴垣を結いめぐらした草庵があった。丸太の柱に木賊で軒を作った質素な門があり、竹の縁側が清らかで、筧の水音も澄み切って聞こえる風情は、いかにも由緒正しい獣の棲み処らしく思えた。黄金丸は柴門の前に立つと、声を高めて来訪を告げた。



 「頼もう。頼もう。主殿はおいでか」



 すると家の中から声が帰って来た。



 「どなたかな」



 それは朱目の翁の声であった。声に続いて、耳が長く毛が真っ白で、眼光の鋭い赤い目をしたいかにも一見ただものではない兎が姿を現した。黄金丸は柴門にあって、まず恭しく礼をすると、翁に自分の傷について話し、薬の処方をお願いしたい旨を伝えた。するとその翁はすぐ了解し、黄金丸を草庵に招き入れた。翁は診察室に黄金丸を通すと、まずは黄金丸の傷を診て、あちらこちら動かしてみたり触ってみたりした後、何かしらん薬を擦り付けた。診断と薬の処方が終わると翁はこう言った。



 「私があなたに施したこの薬は、畏くもかの嫦娥様直伝の霊法に基づき煎じたもの。たとえいかに難しい症状であろうと、すかさず治癒に向かうものである。その霊験はあらたかで、その効力は神のなせる技である。あなたの傷を診たところ、施しが遅れたのでやや症状は重くはなってはおるが、今晩までには完治するであろう。これで今日の処方は終わったので、明日またここにおいでなさい。すこしばかりあなたに尋ねたいこともあるでな・・・」



 黄金丸は大いに喜び、帰り支度をすると分かれを告げ、草庵を出た。



 さて、治療を終えて古寺へ帰る道すがら、とある森の中を横切ろうとしたときのことである。生い茂った木立の中より、ヒュイッと音を立て、黄金丸目がけ矢が射られた。



 「ぬ、これは!」



 と、流石、黄金丸、とっさに自分が射られたのに気づくと身を捻るや、飛んできた矢の矢柄をハッシと牙で咬み止めながら、矢が放たれた方角をキッと睨み付けた。すると、そこには二抱えほどもあろう大きな赤松があり、見上げた辺りの幹が二股になった処に一匹の黒猿がいた。黒猿は左手に黒木の弓を持ち、二の矢を続けて射ようと右手に青竹の矢を採り、弓に番えているところであった。



 黄金丸に睨み付けられ、その眼光の鋭さに怖じ気づいたのであろう、黒猿は番えた二の矢も放たず、慌ただしく枝に走り上るや、梢伝いに木の間に隠れ、その姿を消してしまった。



 さて、翌日になると不思議なことに萎えていた足は、朱目の翁が言ったことに少しも違わず、見かけの上も、さらにいろいろと動かしてみても痛みも何もなく、完く元通りの足に戻っていたのであった。黄金丸は小躍りして喜んだ。さて、取りも直さず急いで礼に行こうと、少しばかりではあったが、寺にあった豆滓(おから)を携え、朱目の翁の草庵に出向いた。翁に招き入れられると黄金丸は全快した旨を伝え、言葉を尽くしてその喜びを表した。



 「私は主のない浪々の身分であり、思うに任せない暮らしをしております。翁にはこのように体を治していただきながら十分な返礼をすることができぬのですが、ここに携えましたこれは今私にできます心ばかりの御礼です。どうかお納めください」



 と言って、持参した豆滓を差し出した。朱目の翁は喜んでこれを受け取ってくれた。しばらくしてから翁は黄金丸にこう言った。



 「昨日、あなたに少々尋ねたいことがあると申したがのう、実は大事なことで、他でもないのだ」



 と言うと、打ち解けて話していた姿を整えて、続けてこう言った。



 「私は長い年月を経て、いくらか神通力を得ることができるようになったので、獣の顔の相を見て、自ずからそのものがどのようなものであるか、ずばり、分かるようになった。わが眼識に狂いはなく、十に一つの誤りもない。今、あなたの顔の相を見ると、どうやら世にも稀な名犬と思え、しかもその力量は万獣に秀でていると思えるから、遠からずして、抜群の功名を立てることであろう。私は、こうしてこの草庵に居て数多の獣と対面してきたけれど、あなたのような獣にはこれまで会ったことがない。どうやらあなたは由緒あるご出自のようであるな。どうでしょう、あなたのご身分をお聞かせていただけぬか」



 黄金丸は少しも隠し立てすることなく、自分の素性来歴を語った。朱目の翁は黄金丸の話を聞いていたが、はたと膝を打つとこう言った。



 「おお、そういうことであったか、なるほど会得した。獣というのは胎生であり、多くは雌雄数匹を孕んで、一親一子という例はほとんど稀である。お生まれの話を聞けば、あなたはただ一匹で生まれたということだから、あなたの力は五、六匹の力を兼ね備えているということになる。しかもそればかりか、牛に養われ、その乳により育まれたということであるので、さらにまた牛の力量も身に受けたということ。ということであればなるほど、そんじょそこいらの猛犬の比にならぬわけだ。ところで、何故にあなたほどの敏捷で猛きものが易々とそのように大怪我を負うたのです」



 と訝し気に尋ねるのであった。



 「これにはいささか深い訳がございます。もともと私は、その大悪の虎金眸と小悪の狐聴水を不倶戴天の仇として狙っており、常に油断なく過ごしておりました。しかし去る日、悪狐聴水を、帰路の途上で偶然見つけましたもので、正々堂々と名乗りをかけて討とうといたしました。ところが敵ながら聴水の奴め、私から逃れながら謀をし、人家に逃れ、その家人の力をを以てして己が力のなさの扶けにしようとしたのです。私はその計略にまんまと嵌ってしまったのです」



 このように、黄金丸は大怪我をした時の情況をつぶさに語り、続けてこう言った。



 「あの憎き聴水の奴め、もしまた目の前に現れたらそのときにこそ一咬みにしてその息の根を止めてやろうと、明け暮れ随所に目を配っておりますが、考えてみれば、私が名乗りを上げたことで、命を付け狙われていることを知らしめてしまったがために、奴も用心して、よもや私のいる里方には出て来はせんでしょうから、遺恨を返す機会も手がかりもなく、ただ無念なまま日々を過ごしているのです」



 黄金丸は、こう言い終えると、あまりの悔しさに歯軋りをするのであった。朱目の翁は黄金丸の話に頷いて、



 「あなたは実に正々堂々としておられる。それゆえにこそ無念であろう。しかしそうではあっても、黄金殿、あなたが本当にその聴水を討とうというお心であれば、私に奴を誘い出すよい計略がある。もし奴がこの手に乗って来なかったとしても、試してみてはいかがかな。ま、おおよそ狐や狸の類の性質というのはあくまで悪賢く、またどこまでも疑い深いというのが相場でな。こちら側も中途半端な謀では、相手の警戒心を解き、捕らえるには遠く及ばない。しかし、だ、好事魔多し。好きなこと、こういうことに関してはたとえ君子であろうと迷う、という。狐が好むものを以って誘き出し罠に落とす。聴水も狐。さもあらばあれ、それほど難しいことでもあるまい」



 と、言った。これを聞いて黄金丸は喜んで、



 「なるほど。で、翁、その、狐を誘い出す罠というのはどんなものなのでしょう。以前から聞いておるのですが、私はまだこの目で見たことがないのです。どのように作ればよいのでしょう、是非お教えくださらぬか」



 と尋ねた。翁は黄金丸の願いに応えてこう言った。



 「罠はな、このようにしてな、ここはこうして、そこはこうして拵える。よいか。そしてな、それに狐の好む餌をかけて置くのだ」



 と、教えた。



 「なるほど、仕掛けは飲み込みました。で、その最後の「狐の好む餌」というのは一体?」



 黄金丸がこう言うと、翁は、



 「それはな、鼠の天ぷらじゃ。太った雌鼠を油で揚げ、その罠に懸けておくのだ。そうすると、狐の奴らは大好きな、その得も言われぬ香気で心も魂もすっかり呆けてしまい、我を忘れ、大方は掛けた罠に落ちるという。これは狩人がよくやる手でな、かの狂言「釣狐」にも採り上げられているほど。どうじゃ、あなたはこれからお帰りになったら、まず今申した通りに罠を掛け、奴、聴水が来るのを待ち構えてみてはいかがか。今夜あたり、その狐、その雌鼠の天ぷらの香気に誘き寄せられ、浮かれ出て、お主の罠に落ちるやも知れぬぞ」



 と黄金丸に丁寧に教えた。黄金丸は、



 「これは良いことを聞きました。ああ、良いことを聞いた」



 と言うと、何度も何度もその嬉しさを表したのであった。狐を陥れる罠の話が終わっても、二匹の四方山話は尽きず、次第に時が過ぎ、日は山の端に傾き、塒に帰る烏の群れの声がやかましく聞こえる時刻となった。



 「やや、これは思いも掛けず長座をしてしまいました。どうぞお宥しください」



 と黄金丸は会釈し、翁の草庵を後にした。



 さて、我が家を目指して帰る道すがら、昨日と同じ森の中の道を辿り、例の木の側を通り掛かると、やはり樹上より矢を射掛けてくるものがあった。今度の一矢は黄金丸の肩を擦ったが、黄金丸はやはり流石の名犬。思わず身を沈めその矢をいなすと、大声で樹上に向かって叫んだ。



 「おのれ、昨日に続き今日も狼藉をなすか。引っ捕らえてくれよう」



 と、矢を放った木の元へ走り上を見ると、やはり昨日の黒猿がいた。黒猿は黄金丸の姿を見ると、やはり昨日と同じように木の葉の中に身を隠し、梢を辿って逃げ失せた。



 「くそ、私に木を伝う術があれば、すぐに追いかけて捕らえてやるものを・・・。憎き猿め」



 と思うばかり。猿が逃げるその姿を見ながら黄金丸は、



 「しかし、またどうしてあの猿の奴、よりによって一度ならず二度までも私に射掛けて来たのであろう。我ら犬属と猿属とは古くから仲の悪いものの譬えに上げられるほど。互いに牙を鳴らし合う犬猿の仲ではある。が、どうして私だけがあの猿に執念深く狙われるのか。狙われる憶えは終ぞないのだが・・・。よし、明日またここを通り掛かった折、再び奴が出ようことがあらば、引っ捕らえてその辺の理由を糺さねばならぬな」



 と黄金丸は独言を言うと、不意打ちの狼藉、しかも飛び道具を使う卑怯に対する怒りを抑えつつ、その日は帰途に着くのであった。



 さて、黄金丸を襲ったこの黒猿の正体とは。
 聴水を誘い出そうという罠の行方は。
 これにて第一巻の終わり。続きは第二巻にてのお楽しみ。乞うご期待あれ。




(夢人追記)

ここまでで「第一巻の終わり」で、私自身読んでいるうちに、「これは現代の読者には無理な内容だなあ」と思ったので、全体の終わり、すなわち「一巻の終わり」にする。そもそも、人間的な「かたき討ち」を、動物世界の話にして明治時代、いや近世のモラルを無理やりねじ込んだ話なので、日本最初の創作児童文学という歴史的価値と、原文で読めば古文(明治文語文)の面白さがあるというメリットがあるだけに思えてきた。
猫が雌ネズミを強姦する(物理的に無理だろうww)とか、猿が木の上から巨大な犬を弓で射るのを「卑怯」扱いするというのも、なんだかなあ、と思う。現代っ子のように「話の先読み」をするのが好きな連中なら、この回の「狐はネズミの天ぷらが大好物」と聞いただけで、話の先が読めてしまうだろう。しかも、ご丁寧に「雌ネズミ」という指定であるwww こんな残酷で非人情な行為を主人公がするはずはないから、雌ネズミの何とかさんは自ら天ぷら鍋に身を投じてこがね丸に捧げるということまで容易に推測できる。
まあ、これが近世的モラルというもので、女性に人権は無かったと言ってもそれほど間違いではないようだ。小学校の図書館には置けない内容だが、実は私はこの話を小学校の図書館で(半分も理解できなかったが)読んだのである。昔はおおらかだったと言えるが、現代なら即座に悪書追放の対象になるだろう。



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「こがね丸」7



                7



<朗読>



 鷲郎に助けられ黄金丸はやっとのことで棲み処に帰りつくことができた。だが、大男に棒で仮借なく打ち叩かれた傷は重く、耐え切れぬほど痛んだ。黄金丸の右前足の骨は、我が子を倒された恨みが籠められた大男の渾身の一打に砕かれ、生涯、身体の不自由を負い暮らさねばならぬことを覚悟せねばならぬような有様であった。



 「私がこのまま身体に障害を持つ犬になってしまったら、積年の宿願をいつ叶えることができよう、否、できはせんだろう。折角、天の恵みで仇の片破れを目の当たりにしたにもかかわらず、取り逃がした上、経緯はともかく、身体を不自由にし、大願を叶えられぬようになったなどということでは、無念を超えて慚愧に堪えぬ。文角義父さんに合わせる顔がない」



 黄金丸は受けた傷の痛みもさることながら、叶えねばならぬ宿願を成就できない身になるやもしれぬ無念に甚だしく心を痛め、歯ぎしりをしながら悲嘆に暮れて口走った。黄金丸の苦悩に満ちた独白を聞いていた鷲郎は、黄金丸の心中の憂いを推し測り、同情の余り黄金丸と共に無念の涙に暮れるのであった。



 「そう嘆き悲しむな、黄金丸。世の中にはな、『七転び八起き』という諺があるではないか。安静にして養生すれば、お前のことだ、早晩その傷も癒え、その後再び腕を磨き直せば、必ずや、お主と俺、吾らの大願も成就する日が来るであろうよ。俺はお主の身辺におるから、何の心配もいらぬ。大丈夫だ。大船に乗ったつもりでおればよい。よいか、とにかく今は心をしっかりと持って、傷を癒すことが先決だ」



 と、鷲郎は弱音を吐く黄金丸を叱咤する傍ら、激励して気を引き立てながら甲斐甲斐しく世話をした。だが黄金丸の傷は一向に快方へと向かう兆しがない。鷲郎はそんな黄金丸を介抱しつつ、何とかしてやろうにもどうにもならぬという無力感も手伝い、少なからず焦りを抱き始めるのであった。



 ある日のこと、黄金丸だけを寺に残し、鷲郎は食糧を得るために昼前から狩りに出た。ちょうど初冬の頃で、小春日和の空はのどかで、庇から漏れ来る日差しはほかほかと暖かであった。黄金丸は体を起こすと、伏せっていた床を這い出し、陽の当たる縁側の端に坐り、一匹、物思いに耽っていたときのことである。やにわに天井裏から物音がすると、助けを求める鼠の声がけたたましく聞こえてきた。暫くすると、一匹の雌鼠が破れた板戸の方から黄金丸の傍らへ逃げて来るや、座って組んだ後ろ足の間に潜り込んだ。そしてそこから顔を出し、助けを求めるように黄金丸の顔を見上げた。黄金丸はこの雌鼠をかわいそうに思い、左前足の脇の下に挟んで庇ってあげた。さて、この鼠はそもそも誰に追われここに逃れて来たものであろうやと、やって来た方向をきっと睨むと、板戸の陰に身を忍ばせてこちらを窺う一匹の黒猫がいた。この黒猫を見て黄金丸ははたと思い出した。



 「あ、こやつ!」



 過日、鷲郎とあの雉子の所有権を相争った時、二匹の闘いの隙に乗じ、当の雉子をかすめ捕ったあの黒猫ではないか。黄金丸はそれを思い出すや怒りがこみ上げ、病み伏せていた身体のことも忘れ、雌鼠をそこに置くや、板戸の陰に隠れている黒猫に向かって一っ飛びに食いかかった。雌鼠を狙い黄金丸への警戒を怠っていた黒猫は大いに慌てふためいて、板戸の脇の柱に大慌てで攀じ登って逃れようとした。黄金丸は逃げようとする黒猫の尾を咥え床に引きずり降ろすや、抵抗する黒猫を組み伏せ、その喉笛を咬み裂いて、一瞬にしてその息の根を止めた。



 黒猫を成敗して興奮冷めやらぬ黄金丸の前に、かの雌鼠が恐る恐る這い寄って来た。そして黄金丸の前に正座をすると、丁寧に前足を仕え、何度も何度も頭を垂れてこう言った。



 「危ないところを匿って助けていただきました上、ましてや、この猫までをも成敗していただきましたこと、何と申し上げてよいやら言葉もございません。ただただ重ね重ね御礼申し上げるばかりでございます」



 と黄金丸によって生き長らえた喜びとその恩を謝するのであった。黄金丸は雌鼠の真摯な態度と言葉を聞いて、にっこりと笑みを湛えると、



 「あなたはどこにお棲まいか?この黒猫は何故あなたを襲おうとしたのですか?」



 と、尋ねた。雌鼠は正座していた膝を少しばかり黄金丸の方へ躙り寄せてこう言った。



 「はい、お訊ねとあらば、殿様、どうぞお聞きくださいまし。私は名を阿駒(おこま)と申します。この天井裏を棲まいとする鼠でございます。殿様に討たれたこの黒猫は烏円(うばたま)と申しまして、この近辺を縄張りにした破落戸(ごろつき)の野良猫でございます。以前から私に目を付け、想いを寄せ、道にはずれた関係を持とうと強要したのでございます。私には定まった夫がありますので、いくら想いを寄せられてもそれを承知するわけもなく、ただ知らぬふりをし、言い寄られ、付き纏われする度に諦めさせんとつれなくしつつ、ことあるごとにならぬことととてたしなめておりました次第でございます。私からはこのように好意のないことを表したにもかかわらず、この猫は私のことをどうしても諦めることができなかったのでございましょう。先ほど、私ども夫婦の巣に忍び入り、私の夫を無残にもかみ殺したのでございます。そして私を連れ去り、手籠めにしようとしたのです。私はこのままでは我が身も終わり、と余りの恐ろしさに逃げ惑っていたのでございます。とはいえ、兎にも角にも私事にて殿様のお休みになられている枕部をお騒がせいたしましたご無礼の罪、何とぞお許しくださいませ」



 と、目に涙を一杯に溜めながら話をして聞かせた。黄金丸も



 「それはかわいそうにな・・・」



 と言って雌鼠を慰めて、息絶えた烏円の屍を蔑んだ目で見下しながら、



 「こやつ、心底けしからぬ猫であった。こいつはな、阿駒。過日、私が手に入れた鳥をかすめ取ったことがあってな。私もまた、そなたと同じく忘れ得ぬ遺恨を持っておったのだ。年来積もった悪事に天罰が降り、今、その報いを受けてこういう有様になった。私にとっては溜飲の下がる、実に小気味の良いことだ」
と黄金丸が阿駒に物語っていたところへ、狩りで捕らえた小鳥を二三羽咥えて鷲郎が帰った来た。息絶えた黒猫の傍らに佇む黄金丸と、その前に正座する雌鼠がいる有様を見て、鷲郎は、



 「何事があったのだ、黄金丸」



 と尋ねた。黄金丸は事の顛末を洗いざらい鷲郎に語った。それを聞いて鷲郎は事の経緯と成り行きに黄金丸に大いに義も理もありと、黄金丸の成敗を褒め称え、こう言った。



 「ははは、そうか、黄金丸。このような手柄を立てるとはな。うん、お主の身体の傷が完治するのもそう遠いことではなかろう」



 などと言って共に喜びを分かち合った。ほどなくして二匹は、鷲郎が持ち帰った獲物の小鳥と烏円の身体を引き裂いて、その肉を欲しいままに腹に収めた。



 これ以来雌鼠の阿駒は、黄金丸に助けられ生き延びられたことを恩義に感じて、明け暮れ黄金丸の側に傅いて、何くれとなくまめまめしく働いた。黄金丸は恩義を忘れず誠実に努める阿駒の厚意を嬉しく思い、情け深く暖かい心で接していた。さて、もともとこの阿駒という鼠は、とある香具師に飼われていたもので、さまざまな芸を仕込まれ、縁日の見世物に出されていた身であったが、故あって、香具師の小屋を抜け出、この古寺に流れ着き棲み付いたのであった。そういう芸のある阿駒であったから、折につけ黄金丸の枕部に来ては、うろ覚えの舞の手振りをやって見せたり、綱渡りや籠抜けの芸などをして見せた。また昔取った杵柄で、腕は確かではないが音曲を奏でもした。黄金丸は阿駒の見せる種々の芸を楽しみにするようになり、そのお陰で重い傷の痛みも忘れることができたのだった。

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「こがね丸」6


6

<朗読>



 
 こうして黄金丸と鷲郎は我利を捨て、共有した条理に順い、共に手を携え目的を達成するために兄弟の契りを結んだ。そしてこの廃寺を棲み処に定めたのであった。もちろん浪々の身となった今は、二匹に食を与えてくれる主もなく、食べるものも思うに任せないこととなった。鷲郎は猟犬という立場を捨てたのだが、背に腹は代えられず、不本意ではあったものの



 「吾等の身とその志のためとあらば、慣れ親しんだ生業だから」



 と言うや、野山に出て猟をし、小鳥を狩って戻って来るのだった。二匹は鷲郎の働きでどうにかその日の糧を得、日を過ごしていた。



 ある日、黄金丸は用事があり一匹で人里へ出た。その帰り、畑中の道を辿り戻って来たときのことである。ふと見やると、遠くの山の端に野菊の乱れ咲く処があり、その中に黄色の獣が横になって眠っているのが目に入った。大きさからすると犬のようであるが、どことなく自分たち犬属とは異なるものらしい。その獣に近づきよく見ると、犬とは異なり耳が立ち口が尖っている。それはまさしく狐であった。その尾は先の毛が抜け落ちてみすぼらしくなっている。これを見て、黄金丸ははっと義父文角の話を思い出した。



 「文角義父さんがお話しくださった聴水という狐。きゃつはかつてわが実父月丸により、尾の尖端を咬み取られたという話だった。この狐の奴、尾の尖が千切れているぞ。こやつ、恐らくあの小悪の狐聴水に違いない。ああ、有り難いことだ。かたじけないことだ。今日このときこの場で巡り遭ったは、まさしく天の恵み。さあ、親の仇、ひと咬みにしてくれよう……」



 しかし黄金丸はさすが道を外すことを好まぬ義を知った犬であったので、たとい仇と言えども眠り込んでいるところを襲うのを快く思わなかった。また、もし聴水ではなく別の無関係な狐であったら無益な殺生をすることになるとも思った。黄金丸は眠っている狐の近くまでそっと忍び寄ると、寝ている狐に向かって一声高く叫んだ。



 「聴水か!」



 眠っていた狐は黄金丸の声に驚いたのなんの。驚きの余り、眠っていたその目も開けぬまま一間ほど跳ね飛んで、南無三とばかり一目散に逃げ出した。



 「おのれ、聴水。決して逃がしはせぬ」



 と黄金丸は大声で叫び、狐の後を追った。追われる狐も逃れるのに一生懸命だった。畑の作物を蹴散らし、人家のある里の方角へ全速力で逃れる。追う黄金丸。



 狐はとある人家の外回りに結い繞らした生け垣をひらりと飛び越えると、家の中へと逃げ込んだ。逃すまじ、と黄金丸もやはりひらりと垣根を越え、狐を追って家の中を走り抜けようとしたその時、家の中では年の頃六歳ほどの子供が夢中になって遊んでいた。黄金丸は誤ってその子供を蹴倒してしまった。するとその子は驚いて「わっ」と言って泣き叫んだ。何事があったかと子供の泣き叫ぶ声を聞きつけ、その親と思しき三十歳ほどの大男が家の裏口から子供のいる部屋へ飛び込んで来た。大男は、今まさに狐を追いその子のいる部屋を走り出ようとした黄金丸を見つけた。



 「あ、こいつ。我が子を襲ったのはお前だな。お前、俺の子を咬もうとしたな」



 と思い見定めると、かんかんになって怒り、そこにあり合わせた手頃の長さの棒を手に取るや、黄金丸に真っ向から「えいやっ」と手心を加えることなく、力任せに打ち下ろしてきた。多くの犬と咬み合い仕合を重ねて来たさすがの黄金丸であったが、大男の振り下ろした棒に肩を打たれた。



 「くっ」



 黄金丸はそう一声上げると、すぐに床にはたと倒れ落ちた。大男は倒れた黄金丸を見るや続けざまに何度か棒を振り下ろした。黄金丸は打ち叩かれ、もはや瀕死の有様であった。大男はおとなしくなった黄金丸を太い麻縄でぎりぎりと縛り上げた。黄金丸が大男に叩かれ縛り上げられている間に、親の仇聴水は命を危うく拾い、何処へともなく逃げ去ってしまった。黄金丸はあまりの無念に絶えかねて歯ぎしりをして吠え立てるばかりであった。黄金丸の心中も事の経緯も知るよしもない大男は、吠え立てる黄金丸を見て、



 「こん畜生、人の子を傷つけておきながら、まだ飽きたらず猛り狂って吠え立てるのか。この憎き山犬め。見ておれ、後で目に物を見せてくれるからな」



 そう言うと、麻縄で縛り上げられた黄金丸を引っ立てて、家の裏手の槐の木にその縄の端をつなぎ止めた。



 不倶戴天の親の仇を思いがけず見いだして仇を討とうとしたのに、その当の仇を取り逃がしたばかりか、その上さらに自分の身は、子供を誤って倒したという些細な罪で縛られ、さらに邪慳にも棒で打ち据えられるとは、と、黄金丸はその無念を痛く悲しんだ。しかし、さすがの猛犬の黄金丸も人間に刃向かうわけにはゆかず、じっとその痛恨に堪えていたものの、あまりの悔しさに流す涙の雫は地を穿ち、口惜しさの余り地団駄を踏めばその繋がれた槐の木を揺れ動かすほどであった。



 さてその頃、義を分かち合った兄弟鷲郎は、里に用事がある、と朝早く出かけた黄金丸が日がとっぷり暮れても戻ってこないので、心配してやきもきしていた。何度か寺の門まで出ては、あちらこちらを眺め廻してみるけれど黄金丸とおぼしき姿は見えない。もしや万一のことだが黄金丸の身に何かが降りかかり、怪我でもしておるのではなかろうか、と気が気ではなくなった。



 「彼はもちろん並々ならぬ犬であるから、むざむざ野犬狩りなどに遭い打ち殺されたりなどせなんだろうが。そうは言うものの心配だなあ」



 と、頻りに黄金丸の身を思い煩っていた。そして遂にその心配が募った鷲郎は棲み処を出、黄金丸の姿をあちらこちら探しつつ里の方角へ向かった。とある人家の傍らを通りすがったそのとき、垣根の中から聞こえてくる苦しげなうめき声が耳に入った。あれ、何か知らん、と耳を欹てて聞いてみれば、何を隠そう、かの黄金丸の声にそっくりではないか。



 「これは、黄金丸の声!」



 と確信した鷲郎は結い繞らされた枸橘の生け垣の破れ目の穴から中に入ろうとした。穴をくぐる鷲郎の腹に枸橘の葉の棘が容赦なく刺さったが、痛みをこらえながらどうにかこうにかくぐり抜けることができた。鷲郎は黄金丸らしき呻き声の出所に向かってこっそり忍び寄った。すると太い槐の木に麻縄でくくりつけられ、弱って蠢いている犬がいるではないか。それは、まさしく黄金丸であった。鷲郎は黄金丸の傍らにさっと走り寄り、抱き起こし、黄金丸の耳に口を当て、



 「おい、黄金丸。気を確かに持てや。俺だ、俺だ、鷲郎だ」



 と、大男に気づかれぬよう小声でそっと呼びかけた。その声は黄金丸に届いたようで、苦しげにようやく頭をもたげ、



 「おお、わ、鷲郎か。来てくれたのか。ああ、嬉しい」



 と、苦しい息で途切れ途切れに返答をした。鷲郎は黄金丸の体をきつく括り付けてあった荒縄を急いで咬み切ると、黄金丸の体の傷を舐めてやった。そして、



 「どんな具合だ、黄金丸。苦しいか。一体全体どうしてこんな有様になったんだ」



 と傷ををいたわりながら尋ねた。黄金丸は鷲郎の暖かいとりなしに感謝しながら身を震わせ、こうなった事の経緯を言葉短かに語り聞かせ、最後に小声で言った。



 「鷲郎、ともかくここをすぐに離れよう。こうしている処を見つかりでもしたら、吾等ともども、命が危ない」



 これを聞くと鷲郎もすぐ合点し、



 「よし。よいか、黄金丸、俺の背中に乗れ。乗れるか」



 「うむ、どうにか。鷲郎、かたじけない」



 「何を言う、そんな話はここを落ち延びてからでも遅くはない。さあ、行くぞ。よいか、しっかりつかまっておれよ、黄金丸」



 鷲郎は深傷を負い動くことさえままならぬ黄金丸を素早く背負うや、先ほど通り抜けた生け垣の穴を抜け、棲み処の寺へと急ぎ戻るのであった。





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「こがね丸」5




5


<朗読>



 
 <「鷸蚌(いっぽう)の争い」という諺がある。互いに無駄な争いをすると、他者に利益を横取りにされるばかりか、最初に争った者が終には共倒れとなるというが、この諺と我等のしていた争いはそもそも意味は異なれども、もし我等が相争わなければ、猫なぞにその隙を突かれ、あの雉子をおめおめ横取りされることなどはなかったになあ>



 黄金丸と白色の猟犬は、獲物の雉子の所有権を巡って対立し、今まで左右に分かれ相争っていたが、その紛争の元になった原因を失ってしまった今、互いにしきりに溜息を吐きながら、黒猫が姿を消した築地をじっと眺めていた。そして二匹ともども、今更それを後悔してみたところで仕方のないことだと思い定めるのであった。暫くしてから、白犬は黄金丸に目を移してこう言った。



 「ところで、そもそもお主は何処よりおいでになられた。何故にこのような寂しい辺鄙な処を彷徨っておられる。先ほどより一戦を交え咬み合ってはみたものの、お主、なかなかの使い手。世にあってこれ程の鋭い牙を持つ腕達者には、某(それがし)、これまで出会うたことがない。咬み合いながらも、これは某では太刀打ち敵わぬ相手、と感服仕っておった。もしやあの雉子をあの黒猫に奪われず、そのままお主と牙を合わせておったならば、某、恐らくはお主に咬み殺され、しかもあの雉子はお主のものとなっていたことであろう。……こう思えば、あの猫は謂わばこの私にとっては命の恩人。おお、桑原桑原、ありがたや。某、危なく一命を落とすところであった」



 と、何度も黄金丸の腕前を褒め称えるのであった。争い相手の白犬が謙虚で真摯な言葉を掛けてきたのを聞き、黄金丸も猛っていた心が鎮まり、襟を正してこう答えた。



 「それは我が身に余る過分なる褒め言葉。そう言われる貴方こそ素晴らしきお手並み。私では到底四つに組み合うには及ばぬお力をご披露賜った。咬み合いながらも、心密やかに貴方の腕前に感服していた次第です。このように覚えのある心正しきお方とあっては、今更、何を隠し立てする必要がござりましょうか。私、名は黄金丸と申す。以前はさる主に仕え、門衛の役回りを仰せつかっておりましたが、心に定めし宿願あり、主に暇乞いをし、今はご覧の通りこのような薄汚き浪々の身となっておる次第。や、しかし、決して怪しい犬ではござらぬ。さて、出来得ればお主のご尊名を承りたい。よろしければお名乗り下されぬか」



 と、黄金丸が尋ねると、猟犬の白犬はうむと言って頷くや、こう答えた。



 「左様でござりましたか。某もすぐに何かしら訳のある御身分と拝察仕っておったところでござった。そのようなこととあらば、お主の勧めに順い、某も名乗らせていただく。お主の目に留まった通り、某はこの地の狩人に仕える猟犬でござる。名は鷲郎と申す。この名が付き申したは、私がかつて鷲を捕り抑えたところ、主が鷲を捕った白犬、ということを淵源とする由。もちろん恥ずかしながら、そこら辺りのものの数には入らぬ一匹ではござるが、狩りの一点ばかりは、少しばかり腕に覚えがござります故、近所の犬どもは皆我が技量を怖れて尾を垂れるので、某自ら天下に我よりも強い犬はそう多くあらじと誇っておった次第です。こう高を括っておりましたところに、お主との出会い、そして一戦。お主と牙を合わせる中、これ程の腕を持つものがおるという事を身を以て知り、つい先ほどまでの我が慢心を痛く恥じ入っておる次第でござる。ま、それはともあれ、さて、今、お主が仰られたところの宿願とは何ぞや、よろしくば某に仔細申されぬか」



 と問いかけた。黄金丸は辺りを見回し、他に聞く者のないことを見定めるとこう言った。



 「それでは貴方にだけは、一部始終、つまびらかに申し述べることとしよう……」



 と言うと、父が非業の死を遂げたこと、自分は牛の義父母に養われたこと、そして出生の秘密を知って、父母の仇の虎と狐に復讐を遂げようと狙いを定めていること、主の邸を出て諸国を遍歴していることなどなど、つぶさに語り聞かせたのであった。鷲郎はときどき感嘆の声を発しながら黄金丸の打ち明け話に耳を傾けていたが、話を最後まで聞くと暫くしてからこう言った。



 「うん。左様であったのか。そういう事と次第とあらば、この鷲郎、及ばずながら貴方に、この腕、お貸ししようではないか。私個人はその金眸に怨みはないが、以前からきゃつはその猛威を嵩に掛け、世の獣という獣をみな虐げているという噂を聞いておった。また奴はそればかりでは足りず、おのれが飢え苦しむ時は山中を出て市中に跳梁し、人間をも襲い騒がすなど我利に基づく悪事の限りを尽くしているとも聞く。機会あらば、私は奴のそのちゃんちゃらおかしく愚にも付かぬ留まるところを知らぬ驕り高ぶり、そのねじ曲がった性根を挫き懲らしめてやろうと、常々心に描いておったのです。しかし、世に名を轟かすほどの力持ち、齢を重ねたその金眸とやら、狩りにおいては如何に天下に並ぶ者なしと自負してきた我が腕前を以てしても、恐らくおのれ一匹では互角の勝負は成しがたいと、かの金眸の無法の振る舞いを聞くにつけ、おさまらぬ腹の虫を無理矢理殺し、歯ぎしりをしながら見過ごしていたのです。今、貴方のお話を聞いて、どうやら貴方とは心の割り符がぴたりと合う仲と察した。どうです。これから先、吾等心を通じ力を合わせ、きゃつに正義の鉄槌を食らわす機を狙いませんか。二匹共に力を合わすれば、いつの日か金眸を討ち斃すという大願を成就できましょう」



 と言った。鷲郎のその申し出を聞くと、黄金丸は勇み立ってこう答えた。



 「おお、これ程頼もしいことがありましょうか。貴方がそのようなお心づもりでおられるのであらば、かの天下に悪名轟く金眸とは言え、何を怖れるところがありましょうか。怖れるに足りません。今から我等二匹、義によって堅い契りを結びましょう。互いに親は異なれど、これから後は深く繋がり合った兄弟となり、互いに協力し合って事に当たりましょう。私は主家を出て以来、金眸を討つためには私より強い者と仕合をし打ち勝ち、力を付けねばこの我が宿望果たすことならじ、と常日頃より心に留め、諸国を巡りながら多くの犬と至る処で咬み合ってきましたが、まだ私と互角に渡り合えた者はなく、歯がゆい思いをしておりました。ところが本日は思いも掛けず、貴方のように実力があり、義に通じたお方に出会えたばかりか、このように兄弟の契りを交わし、心を通じ合える伴侶を持ち得たのです。これ、実に、亡父の引き合わせに相違ありません。先ほど不意に目の前に現れ、道を照らし、私をあなたのいるここへ導いてくれたあの鬼火は、我が亡き父に他ならぬ、と今確信いたしました」



 と言うと黄金丸は感激の余り涙にむせぶのだった。そんな黄金丸の様子をじっと見ていた鷲郎であったが、暫くすると、



 「私は、今、貴方と兄弟の契りを結び、あの大悪、金眸を討とうと志しました。けれど、私には今飼い主がおります。飼い主の元におっては、心に任せての行動は出来ません。私は付けているこの首輪を今捨てます。貴方同様、浪々の身になろうと思います。共に力を合わせ志を遂げしましょう」



 と、言うや、己が首輪を外そうとした。黄金丸はそれを押しとどめてこう言った。



 「ここまで来ればそうお急ぎあるな、ゆっくり参りましょう、鷲郎殿。貴方は私のために主を捨て、首輪を外すという。そのお志は大変ありがたく感謝いたします。しかし、それは義のように見えますが、真の義ではありません。それでは却って恩知らずな、不忠義な犬と言って、訳を知らぬご主人やお知り合いの方々に罵られることやも知れません。今は、何とぞ自ら首輪を外そうというその儀、お止め下さりませ」



 「いやいや、黄金丸殿。その心遣いは無用だ。私は狩人の家に仕え、これまでしっかりと猟の技を磨き、また朝な夕な山野を駆け巡っては幾多の禽獣を捕らえて来ました。しかし、よくよく考えてみれば、これは本当に大きな不義、大きな罪を重ねたものだと思うのです。たとえ主の命とあっても、何の罪もない禽獣を徒らに傷つけるのは罪なこと、このようにいつの日から次第に自ら疑うようになり、近頃では不承不承仰せつかっていたのです。私の積悪は、実はあの金眸に比べても五十歩百歩、そう、変わりはないのです。あなたと共にあの金眸を打ち負かそうという契りを結んだ今、私は主の命とあらば無垢の者の命さえも奪い、罪を重ねねばならぬ猟犬という生業を捨てようと思ったのです。その思いが決心に変わったのです。今日、今、この機を得たのは、あなたにばかりではない、私にも幸いしたのです。私はどうあっても猟師の主より暇を取るのです」



 と言うや否や、今まで首に付けていた主への忠義の輪を振り捨てた。鷲郎はこうして黄金丸にその決心の程を示した。黄金丸は最早それを止めるすべもなく、



 「そのように貴方がお心を定められました以上、私もまた何を申しましょう、更に強く心を定めました。さて、幸いなことに、この寺は荒れ果てていて住む人もなく、私たちにとってこの上なく良い棲まいではありませんか。どうです。この寺を根城としませんか」



 と言うと、二匹は連れ立って寺の中に入って行った。かつては住寺の方丈であったと思しき処に畳が少しばかり腐らず残っていた。二匹はそこを選び、居所と定めたのだった。




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「こがね丸」4

(夢人注:念のために言えば、この「黄金丸」は最初の少年文学として明治の少年たちが読んで血を沸かせていたもので、つまり、このレベルの文章表現を理解できる子供がかなりいたということだ。現代の大人でこれが理解できる人がどれだけいるだろうか。私は小学校の図書館でこれを見つけて読んで、半分も理解できなかったが、「面白い」とは思った記憶がある。だから今、載せているのである。)

4

<朗読>



 
 つい昨日まで真鍮の輪を首に掛け、裕福な庄屋の門番をして、何不自由なく過ごしていた黄金丸であった。しかし喪家の犬、すなわち野良犬となった今は、疲れ果てて寝るに、心安らかにして体を横たえる小屋もなく、腹が減っても食う肉もなかった。夜になれば道ばたの小さなお堂の床下に入って雨露を凌ぎ、漸く眠りについても土から這い出て腹の下でうごめく土竜に驚ろかされる身分であった。



 また、やっと空が明るんで昼になれば、魚屋の店先で親爺が捨て寄越す魚の骨を腹の頼みにし、心ない人からは棒で追い払われる始末であった。



 あるときは村の子供が連れた犬と諍いを起こし、またあるときは皮目当ての野犬狩りに襲われ、命からがら藪中に逃げ込む有様であった。



 このようにして、黄金丸は主の家を出てからの数日、山野を渡り、人里で餌を求めるなどしながら旅を続けていた。そんなある日のこと、黄金丸は広い原野にさしかかった。その原は行けども行けども尽きず、日も暮れかかってきた。宿ろうにも木陰さえないので、さすがに心細くなった黄金丸は、どうにかここを横切ろうとひたすら道を急ぐのだった。その日は朝から一滴の水も飲まず、食べ物は一口もとっていなかったので、言わずもがな腹が空いて仕方がなかった。あまりの渇きと空腹に堪えかねて、黄金丸はしばらくの間路傍に蹲っていたが、日もとっぷりと暮れ、冷たい夜風が肌を刺し、また伏せている地面はしんしんと冷え始め、寒さが骨身に染み、最早これまでかと思うほどの厳しさであった。



 「ああ、我が主の家を出てから、至るところで腕に覚えのありそうな犬と争ってきたが、どれもこれも物の数に入らぬ、取るに足りない相手だった。しかし、飢えと渇きには抗えないものだ。こうなっては、この原野の露と消え、烏どもの餌になるやもしれぬ。……里まで出れば、何かしら食い物もあろうが、出ようにもあまりに疲れ果ててしまって、もう一歩も歩けるものではない。ああ、口に出してみても甲斐のないことだがなあ」



 ますます心細くなってきた黄金丸は、こう弱音を漏らして途方に暮れていた。そのときのことである。どこからやって来たのか、突如、一群れの火の玉が黄金丸の目の前に現れた。火の玉は高く舞い上がると、黄金丸の周囲を明るく照らし、ふわふわと空中を浮遊した。それはあたかも私に付いて来なさい、と黄金丸を促しているかのように見えた。



 「やや、きっとこれは私の亡き父様母様の霊魂であろう。さては火の玉となっていまここに現れ、危急に遭っている私をお救いになろうとされているのに違いない。ああ、ありがたいことだ」



 そう悟ると、黄金丸は宙にある火の玉を伏して拝んだ。そしてその燐火の赴くに従って歩み出した。誘われるまま四五町ほど行くと、ふいに鉄砲を放つ音がした。それが合図であるかのように、火の玉はいずこともなくふっと消え失せて、見えなくなった。我に帰った黄金丸は、ここはどこであろうと辺りを見回して見た。そこは寺の門前であった。これは如何に、と訝しく思ったが、朽ち開け放たれた門から中に入ってみると、そこは大きな廃寺であった。今では主も住む人もない様子で、床は落ち、柱はひしゃげ、壁は破れ、蔦が絡まり、朽ち果てた軒には蜘蛛の巣がびっしりと張り付いていた。それはそれは凄まじい荒れようであった。頃はまさに秋闌。屋根に実生した楓が時世時節とばかり深紅に色付いており、その紅葉の間から傾いた寺の鬼瓦が垣間見えた。あたかもその様は信州戸隠山の鬼女伝説『紅葉(くれは)狩』を思わせた。



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 戸隠の荒倉山に都から紅葉という女が流されてきた。暫くは村でおとなしくしていた紅葉であったが、次第に都への思いが募り、生まれながらの邪悪な心と妖術を用い、悪事を働くようになり、村人からひどく疎まれ、鬼女と呼ばれるようになった。紅葉の悪事の噂は瞬く間に千里を走り、国中の無法者たちがその噂を聞き付け、彼女の下に集まって来た。紅葉はそうした無法者たちを束ね、手下とし、荒倉山の鬼の岩屋を根城にし、更なる無法を重ねるようになった。これを許しまじとて、朝廷は平維茂を大将に、征討軍を派遣した。紅葉の根城を探しあぐねた維茂だったが、八幡大菩薩の導きにより、ついに鬼の岩屋の在処を知り、麓に合戦の陣を敷いた。暫くの間、互いは相手の手の内とその力量を探り合って小競り合いを繰り返した。紅葉の妖術に苦戦を強いられた維茂であったが、北向観音より降魔の剣を授かるや、紅葉の籠もった岩屋を急襲した。すると紅葉は妖怪の本性を現し、宙に舞い上がり応戦した。一進一退の激戦の中、突如、戸隠奥院から黄金の光が放射され、紅葉の両目を射貫いたのだった。両目を焼かれた紅葉は地に落ちた。維茂はすかさず、苦しむ紅葉に近寄るや、降魔の剣でとどめを刺した。こうして紅葉と紅葉の残党は一人残らず成敗された。維茂は紅葉の遺体を丁寧に弔い供養し、降魔の剣は戸隠権現に奉納した、というのが『紅葉狩』である。



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 さて、芒が茫茫と生い茂る中に斜めになって倒れかかった石仏があった。その姿を見て黄金丸は、経典にある雪山童子の話を思い出した。



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 雪山童子とは、大昔のとある修行者の名である。印度の山奥で修行を重ねていた童子は、難行苦行に堪え忍びながら悟りを求めていた。天上からその行ないを眺めていた帝釈天は、それが真なる心か否かを試すため、人食鬼の羅刹の姿になって地上に舞い降り、身を隠して童子のそばに近づき、次の二句を声高に唱えた。



  諸行無常(しよぎやうむじやう)
  是生滅法 (ぜしやうめつぽう)
 
| 諸行無常、
| 是れ生滅の法なり

| この世にある何ものも、
| またその運動も、関係性も、何もかもが常に
| 生成・変化・消滅を繰り返しているばかりで、
| そこには永遠で不変なものなどは一切ない。

| これがすなわち「生滅の法」
| (生滅は常に「無常」に帰するという根本原理・原則)
| というものである。

| (Oct.28, 2016 拙訳加筆)
 
 これを聞いた童子は、この言葉に真理ありと悟り、声の主に下の二句を求めた。すると羅刹が姿を現した。童子はその恐ろしい姿を見て驚いたばかりか、羅刹が真理を悟っていることに二度驚いた。人食いが真理を悟っているのに、仏道に入り長年修行を積んでいる己れが悟りを開けぬとは……。童子は、これまでなした修行は、修行のための修行に明け暮れたのみであったことに気づいた。結局は悟りを拱手傍観していただけであり、真理に至るばかりか、近づくことさえもできないことに無駄な時と労力を費やし、終には徒労のみ得られる人生を送らんとしていた自分にただ恥じ入るのであった。童子は先覚者の羅刹に、どうしても下の二句を教えて欲しいと願った。すると羅刹は童子の身を自分の御供に捧げるのであらば、下の二句を教えても良いと言った。童子はたちまち真理を得られるのであらば、只今この場で命を捨ててもよいという覚悟を常日頃から持っていたので、一瞬の躊躇いもなく羅刹の条件を呑んだ。すると羅刹は約束通り、即座に下の二句を詠んだ。



  生滅滅己(しやうめつめつい)
  寂滅為楽(じやくめついらく)



| 生滅を滅し、しかして已 (や)む
| 寂滅をもって楽となす

| だから、此の世で、我と我が身が永遠たらん、不変たらんと欲し、
| それを求めるあらゆる思考も企ても活動も、すべて、
| ただ無常に帰するのみなのです。だからそういったいわゆる、
| 自らの中に生まれ出る煩悩の炎を滅し、
| 己も含め、あらゆるすべてが無常にあるということを照見しなさい。
| 己はもとより生きとし生けるものの生や死は
| みな例外なく無常そのものであり、
| 空であることを看破する境地に至りなさい。
| それが解脱するということであり、然すれば、あなたは
| 此の世であろうと彼の世であろうと穏やかでいられるでしょう。
| ここに至れば、この此の世と彼の世という考えや願いでさえ空であり、
| 常にあなたが求める世界が、これまでも、
| いまも、これからも、変わることなく
| あなたとともに、あったし、あるし、
| これからもずっとあることがわかるでしょう。

| もしあなたが煩悩に迷っているのであれば、
| いわゆる解脱によって覚りを開きなさい。
| 解脱を遂げれば、あなたを苦しめるすべてのことが終わりを告げ、
| その無限の繰り返しから、あなた自らのその肉体からはもとより、
| その心やその考えや、あらゆる執着から、解き放たれることでしょう。
| この解脱により顕れる、死も生もない世界が「涅槃」です。
| そこ(実はここ)は、
| あなたをこれまで、いま、そしてこれからも苦しめるであろう、
| すなわち<生成・変化・消滅>が永遠に繰り返され、
| あなたを日々悩ませ、苦しめつづける煩悩世界とは、
| あらゆる一切、すべからく、なにもかもが異なった、
| 絶対的に安静で、真の楽しみに満ちた境地なのです。

| さあ、今、解脱なさい。求めず覚りなさい。
| そして時を移さず涅槃に至り、寂滅に楽を得なさい。

| (Oct.28, 2016 「雪山偈 (せっせんげ)」拙訳加筆)



 羅刹はこう唱え終わると、今すぐ約束を果たせと童子に詰め寄った。童子は、只今これより己れは死せるので、その後、この身をあなたに進ぜようと羅刹に告げた。童子はそう言うと、後世の人々が自分と同じく悟りに至らぬ無益な修行をし、その一生を徒労に終わらせずに済むようにと、今羅刹に教わったばかりの四行詩を周囲の岩や大木の幹に書き留めると、近くにあった高木によじ登り頂まで至ると、そこから忽ち身を投じたのであった。それを見た羅刹は帝釈天の姿に戻り、一躍身を翻すや、童子が地に落ちる寸前にその体を空中で優しく受け止めると、穏やかに地上に降ろした。そして帝釈天は童子の前にひれ伏し、ひたすら童子を拝するのであった。実はこの雪山童子こそ、釈尊の前世の姿であったという。



———-



 黄金丸は朽ち果てた寺や傾いた石仏を見やって、そんな伝説や経文に書かれていたことを思い出していたが、ふと足下の苔むした石畳に目を遣った。すると何と、そこには鉄砲の弾に身を打ち貫かれたらしく、一羽の雉子が飛ぶことも儘ならぬ様子で、苦しみもがいているではないか。飢えと渇きに苦しんでいた黄金丸は、



 「これは良い獲物があるではないか」



 と、急いで走り寄り、両前足で押さえ付け、早速食らおう、さあ食おう、と牙を立てようとした丁度そのときだった。突然、黄金丸の背後から声がした。



 「おのれ、そのまま動くでないぞ!この野良犬めが!」



 大きな声でそう言い、吠え掛けて来るものがあった。雉子にばかり目が行っていた黄金丸はびっくりした。後ろを振り返って見ると、白毛の猟犬が、今にも黄金丸に飛び掛かって咬み付いてやろうと身構えているではないか。この様子には流石の黄金丸も少々慌てた。そしてこう言い返した。



 「私のことを野良犬だと!何を抜かす、無礼者め。失敬千万な奴だ。おのれこそ、何者だ」



 「何?無礼者だと?無礼者とはおのれ自身のことであろうが。お前が今正に食おうとしていたその雉子は、我が主が撃ち捕ったものである。おのれは我が主の雉子を盗まんとする。言語道断も甚だしい。世の義を解さぬ盗人の山犬が」



 「否。何故、おのれは私が義を解さぬなどとほざくか。この雉子は貴様の主のものではない。この雉子は誰のものでもなかった。今ここで私が拾ったのであるから、他ならぬ私のものだ」



 「何を抜かす。盗人猛々しいとは言うが、このこそ泥め。見たところ、お前、真鍮の首輪をしていないようだな。おのれらの如き性悪で不徳な泥棒犬が多くなったお蔭で、世に野良犬狩りが増え、我ら義に忠実な猟犬仲間まであらぬ疑いを掛けられる始末。お前らには大いなる迷惑を蒙っておるのだ」



 「言うに任せておれば。何と無礼な罵詈雑言の数々。その減らず口、まだ叩くとあらばただでは済まさぬぞ」



 「それはこちらの言う台詞。おのれのような宿無しの野良犬と問答するのも無益なことだ。俺の牙にかかって怪我をせぬうちに、お前が食おうとしているその主の雉子、俺にさっさと帰して寄越し、尻尾を巻いて今すぐここを立ち去れい」



 「返す返すもよくも良くそう舌の回ることだ。折角私が拾い得たこの私の雉子を、貴様のそのくるくる廻る口車に乗り騙されて、おめおめとおのれの手に渡すものか。ましてや尻尾を巻くなどと、この私をあまりに愚弄する言、そこに土下座して、謝しを乞うのであらば命ばかりは取らずに置いてやろう。」



 「う~ぬ。我が主が来られぬ前に、お前のその悪行を見て見ぬ振りをし、なかったことにしてやらんとしたにもかかわらず、おのれはそうした情けも解せぬばかりか、授けてやった忠告も我利に任せて聞き入れず、俺が掛けた温情を悉く無にするつもりだな。くっ、面倒な。お前の如き愚か者にはこれ以上の情けも、問答も無用。早速、こうしてくれるわ」」



 と言うと、その白犬は黄金丸に飛び掛かって来た。黄金丸はその最初の一撃をしゃらくさいとばかり振り払ったが、相手が再び咬み付いて来たので、えい、とばかりに蹴り返し、白犬の喉笛に食い付かんとした。相手もなかなかの腕利きで、身を沈めるや黄金丸の急所への攻撃をすんでのところで頭を反らしてかわし、かわした動きを生かして、黄金丸の前足の腿に食い付いて来た。黄金丸はあまりに腹が空いていたので、日頃ほど勇気が出なかったが、常の犬ならぬ優れた力を身に付けた使い手である。しかし、どうやら白犬も黄金丸に負けず劣らぬ力量を備えた豪傑のようであった。
両雄互いに挑み合い、雌雄を決せんと壮絶な闘いを繰り広げ始めた。その様はあたかも花和尚・魯智深が、九紋竜・史進と赤松林で相争った、あの「水滸伝」の一節を思い起こさせるものであった。



 さて、先ほどより、やや離れた風下の木陰に油断なく身を隠し、黄金丸と白犬の二匹の問答に耳を欹てている一匹の黒猫があった。二匹の犬は互いにいがみ合い、やがて問答を止めると、死闘を始めたのをじっと見ていた。ほぼ互角の力の由、どちらにも他に気を割く余裕が無く、その決着には時が掛かると見透かすや、二匹の闘いの場にこっそりと一歩づつ近づいた。そして互いの犬が相手の出方を窺って、力を尽くして咬み合ったまま、その動きを膠着させる頃合いを見はからっていた。今がその時と見るや、二匹の間隙を縫って、黄金丸が先ほど前足の間から離した雉子をさっと咥えると、脱兎の如き勢いで走り出した。二匹の犬は、互いにそれに気づいたが、お互い力を抜けぬ状態だったので、すぐにそれに応ずることができなかった。二匹共々、



 「ああ、何ということだ!あの泥棒猫に雉子を横取りされた。しまった!してやられた」



 と、咬み合っていた口を互いに緩めたが、逃げ足の速いその猫をたとえ今更二匹で追ったとて、もうそれはすでに甲斐なきことと悟った。雌雄を決せんと今の今まで争い合っていた二匹の犬にこの時出来たことといえば、諍いの元になった当の雉子を咥えた猫が、悠々と築地を越えて視界から消え去るのを、ただ口を開けて茫然と眺めていることのみであった。





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「こがね丸」3

(夢人注:文中の「皆死児」は「孤児(みなしご)」の誤字だろうが、他の部分では豊富な語彙があり、誤字もほとんど無いので、これは少し奇妙であるが、そのまま転載する。なお、たとえば仇敵の悪徳を並べたてるその豊富な語彙を読むこと自体が講談を聞くようなリズムと娯楽性があると私は思っている。)

3

<朗読>



 
 かわいそうな花瀬は、牝牛の牡丹に息子・黄金丸を頼んだその日の夕暮れ、冥土へと先立った夫・月丸の後を追って死出の山三途の川へ急ぐかのように息を引き取った。主人の庄屋は花瀬の最期を見届けて大変気の毒に思い、その亡骸を棺に納めて、家の裏にある小山の陰に埋葬した。そして夫・月丸と花瀬の名を並べ彫り付けた石をその墓の上に置き、仲のよかった二匹にふさわしく比翼塚の形に整え、懇ろに弔いをした。



 こうして黄金丸は皆死児になってしまった。生まれたばかりの何の分別もつかぬ黄金丸は、花瀬が産み守っていた犬小屋の藁の上から、屋敷の裏の牛小屋へと内の者に移された。花瀬の願い叶い、牝牛の牡丹が養母とされたのであった。それからというもの黄金丸は牡丹の乳を飲み、牛小屋で育てられることになった。成長するにつれ黄金丸は普通の犬よりも優れた骨格や体躯、雄々しい性質を表し始めた。そして立派な体格をした頼みになる犬に育っていった。



 さて、養母となった牡丹には文角という名の夫があった。文角は生まれつき義侠心が深かったので、黄金丸の母・花瀬の遺言を堅く守り、黄金丸の養育に日夜心血を傾け、たくさんいる自分たちの仔牛の中で一緒に育てた。文角は黄金丸に仔牛たちと相撲を取らせたり、競走をさせたりした。こうして黄金丸と仔牛たちとを競わせることで、自然に黄金丸の肉体が鍛錬されるように仕向けたのだった。その成果が上がり、黄金丸の力量は日々目を見張るほど高まっていった。また黄金丸は闘犬の場にも引き出された。黄金丸は相手の犬と咬み合う真剣勝負の中、どうすれば相手を打ち負かせるかを体験し、学び取っていった。養父の文角も黄金丸の成長をはなはだしく喜んで見守っていた。闘犬では大方の相手を制する技量・力量を備えるようになった黄金丸は、今やどこに出しても恥ずかしくない立派な成犬になろうとしていた。時すでに熟したと見た文角は、あるとき黄金丸をそばに招き寄せた。そして、こう伝えた。



 「さて、黄金丸、ここにお坐りなさい。よいか、心落ち着けて、これからする私の話にしかと耳を傾けなさい。実はな・・・、お前は私と牡丹の間にできた子ではないのだ・・・。お前はな、・・・」



 文角はこうして黄金丸の出生、身分、そしてなぜ文角と牡丹の養子となり今日まで育てられてきたのかなどなど、その一部始終を誠実に切々と黄金丸に語り聞かせたのだった。黄金丸は初めて知る自分の素性や皆死児となった経緯に驚き、悲しみしながら、今の今までてっきり実の父親と信じていた文角の打ち明け話に黙って聞き入っていた。父犬の非業の死、その下手人・金眸の非道の下りになるとを歯ぎしをりしながら聞いていたが、母犬の精神の錯乱とその死に到る話、自分への遺言を聞くや怒り心頭に達し、遂に声を上げ、この大虎の悪事を罵った。



 「お養父様からこのようなお話をお聞きいたしましたからには、一刻も早くその大虎の棲む奥山へと急行し、親の仇・その金眸とやらを咬み殺してくれましょう」



 と息巻き、今にも出立せんと勇み立った。文角は、



 「これ。そう事を急くな、黄金丸。暫く」



 と血気に逸る黄金丸を押しとどめ、こう続けた。



 「お前がそのように血に逸るのは理の当然だ。しかし、今はまず逸る心を抑えてここに坐りなさい。よいか、心鎮め、私の話をよく聞きなさい。お前の父母の仇は、大虎の金眸ただ一匹ではないのだ。」



 「えっ!憎き大虎の金眸の他にも仇があると言うのですか、お養父様。それは何奴なのです」



 興奮のあまり血相を変えて立ち上がっていた黄金丸は、そう言うと文角の言いつけどおり再びお側に控えた。



 「よしよし、黄金丸。よいか、よく聞きなさい。金眸にはな、聴水という悪狐の配下がおるのだ。この狐は腹黒く、小利口な悪知恵のよく働く、知能の高い奴でな。すなわち頭の回転が速い。相手の動きを観察しては、あらゆる策略、計略、商略、政略、知略、謀略、機略、軍略、方略、奇策、偽計。陰謀、策謀、知謀、遠謀、通謀、密謀、群謀、共謀、詐謀、宿謀、逆謀、深謀、悪謀。仕掛け、当て馬、からくり、画策、自作自演。こうしたありとあらゆる権謀術数の限りを尽くしてくる。事に当たってはずる賢いばかりか計算高く、形勢不利と見れば、誰あろう情理を尽くして空言をまことしやかに騙り、情状を願い酌量を請い欺き、相手が情に流され、心を許すようなそぶりを一つでも見せ、己が偽言に中りありと見るや、その話の上にさらにまことしやかな話を重ね、出法螺、たぶらかしを以てして、今まで敵であったようなものをもまんまと口車に乗せてただ働きさせるなどは朝飯前のこんこんちきだ。こうしてな、己の利のためなら、まやかし、惑わし、はぐらかし、かご抜け、ごまかし、でっちあげ、ペテン、引っかけ、寝首掻き、くらまし、持ち逃げ、二枚舌、ネコばば、こそ泥、担ぎ上げ、時には利敵、売国さえをも厭わぬ鉄面皮。この世のあらゆる罠という罠、嘘八百、誘惑・魅惑、言い寄り、声掛け、おびき寄せ、そそのかし、流し目、色目、秋波を駆使して相手に一杯食らわし、一儲けしようという、口達者で浅ましく、狡猾なずうずうしい姦物じや。また口だけではないぞ。こやつは転んでもただ起きぬ。芝居を打つ。裏の裏まで読む。狂言を使う。算盤さえ合えば、わざわざ遠くまで足を運び、体を動かすことさえ厭わぬ邪な心を持つ手合いじや。おまえにとって大悪の仇があの金眸とあらば、この聴水こそは小悪の仇と言えるのだ。こ奴はな、黄金丸、今申したように世故に長けた悪狐、ある日、主のニワトリを盗みに入ってな、はからずもお前の父・月丸殿に見つけられ、月丸殿は奴の大切にしていた尻尾を咬み取ったのだ。奴はそれを深く怨みに思ったらしい。その意趣返しをせんと企んだが、自分の力足らぬを知り、かの金眸に頼み入り、いわば虎の威を借りた上に謀をし、あの無残な事件を引き起こしたのだ。ここまで聞けば、黄金丸、誰がお前の真の仇であるのか、もう会得したことであろう。あの虎も仇なれど、まずはあの古狐の聴水。こ奴もお前の仇敵なのだ。だから、いまお前がこれを深く理することなく、ただ感情にまかせて無意味に猛り狂い、あの大虎の金眸の棲処の洞穴へ向かい、駈け入って、奴と雌雄を決して争い、万一誤ってお前が敗るれば、もう片方の仇の聴水へ返報を果たせぬばかりか、おまえのその体はあの金眸のフスマ、餌食になってしまわぬとも限らぬ。これこそ自ら死を求める無謀な振る舞い。聴水の奴めにすれば、飛んで火に入る夏の虫、夏の夜の灯に集まり自ら火に飛び込んで身を焼かれ死ぬ虫と何の変わりがあろうか。また、とりわけ金眸という大虎、こ奴は戦を重ね、場数も踏んで年を重ねた老練な、いつも腹を空かした飢虎。お前は犬、奴は虎。たとえ如何にお前に力があろうと、奴はこれまでおまえが咬み合ってきた犬とは段違いの力を持っておるのだ。決して高を括ったり、侮ったりできる相手ではないぞ。金眸との闘いに勝ち、親の仇を討ち遂げるのは大変な難題、なかなか成しがたいことなのだ。だから、今、仇討ちに向かうのは控えなさい。こうしておまえが出自を知った今のこの今より、しばらくの間、おまえは己の牙を磨き、爪を鍛え、まずはあの小悪の仇、聴水の奴を咬み殺し、その上でさらに力を蓄え、時節が熟し到るのを待ってから、かの大悪・金眸を討ち取るがよい。平凡な雄犬のやるように、血気に逸ってただ蛮勇ばかりを頼みにした軽挙妄動、これこそ意味を持たぬ愚かな振る舞い故、厳に慎めよ。さもなくば力もなしに感情にまかせた分限知らずがやることの末路とはまさにこれ、とて世間のもの笑いとなるばかり。そんな笑いの種をわざわざ撒き散らすこともなかろう。まずはお前の父の無念を晴らし、その仇を討つというその心持ちをこらえ、腹の底に収めた上で英気を養い育て、臥薪嘗胆、必ず来るその日その時をじっと待つのだ」



 頭に血が上り、今にも飛び出さんと膝立てにて、養父の話を聞いていた黄金丸は、ものごとの分別を知った文角の言葉に、はっと我に帰り思いとどまったのだ。黄金丸はやや落ち着きを取り戻して、何やら思いを巡らしていたようであったが、しばらしくしてから文角にこう言った。



 「お養父様お養母様には、このような因縁でお育て頂いていたとは今日の今まで露も存じませんでした。文角養父さん、牡丹養母さん。お二人のことを、実のお父様、実のお母様とばかり信じ、斯様な育ての大恩ある御方々とは露知らず、ただただ今日まで我が儘勝手に振る舞い過ごさせていただいて参りました。このようにふつつかにしておりました私は、まったくもって慮外の無礼者でございました。どうぞこの罪、お許し下さりますよう幾重にもなりてお頼み申し上げます」



 と、黄金丸は養父養母に心からの感謝を籠めて、何度も何度もお礼するのであった。そして、居住まいを正すと、改まってこう言った。



 「存じませんでした過去の出来事につきましては是非を論ずるに及びませぬ。しかし今、お養父様からお伺いいたしました実の父の遭難、わが父の無念はいかばかりでございましょう。私に斯様な仇のあることを承り、それを知りました以上、私は我が道を行く上で必ず実行しなければならないことがございます。これを知らぬふりをし黙って過ごすことは最早できるものではありません。これを知りました以上、お養父様にはひとつお願いがございます。お聞き入れ願えませんでしょうか」



 「願いとは何か、黄金丸。話によってはお前の願いを許すこともあろう。言ってごらんなさい」



 「それは他でもございません。私にお暇を賜れませなんだでしょうか。私、まさに今、これより武者修行へ向かい、諸国を巡り、世に強いと呼ばれる名のあるあらゆる犬と咬み合い、我が牙を鍛えたいと思います。そして一方、私の仇敵の動向に耳目をそばだて、折りあらば、我が仇に名乗りををかけ、父の復讐を遂げたいのです。長年育てて頂きましたご恩へのお返しもしないばかりか、さらにまた、お暇を賜りたいと所望するなど口に出すのもおこがましい以ての外の不義理でございますが、お養父様、我が実の父の仇討ちのためでございます、何とぞお許し頂けませんでしょうか。もし私が、幸いにも、見事、実の父の仇を討ち、復讐をあい遂げ、さらに尚この命を繋ぐことができましたそのあかつきには、お養父様お養母様のご恩に報いさせて頂けるかもしれません。まずはその時まで、お養父様、どうぞ、お暇をお与え下さいまし。」



 と、黄金丸は涙を流しながら、文角を説きつけたのだった。文角は黄金丸のその真摯な態度と言葉を聞いて微笑んだ。



 「そうでなくてはならぬ、よくぞ申したぞ、黄金丸。お前がもし自らそう言わねば、わしの方から武者修行を強く勧めようと心に決めなしておったのだ。思いのままに諸国を巡り、修行を積み重ね、見事、お前の父の仇を討ちなさい」



 文角はこのように黄金丸を激励し、その暇乞いを許した。黄金丸は養父・文角の了承を得、大いに奮起したのだった。こうと決まれば善は急げといわんばかりに、黄金丸は急いで出立の支度をし、用意が済むと再び文角と牡丹の前にやって来てこう言った。



 「見事に父の仇の大虎の金眸と悪狐の聴水の印を上げませぬ限り、私、黄金丸、再びお義父お義母様の御前に立つことはござりませなんだ。」



 と、黄金丸は文角と牡丹にいじらしくも立派な言葉を奏し誓い、養父養母に別れを告げるや、野良犬の身となり、野犬の群れにその身を投じるや、行方定めぬ諸国流浪の武者修行の旅へと歩を進めたのであった。




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「こがね丸」2



2

<朗読>



 
 庄屋はこの里の役人で、月丸と花瀬という夫婦の犬を飼っていた。この家に貰われてきて以来、二匹とも庄屋本人はもちろん内の人々にたいそう可愛がわれたので、二匹はそれをとても恩義に感じ、主に忠実に仕えるとともに、家人と財産を守っていた。この月丸と花瀬の働きで、長らく庄屋の家には泥棒も入ることがなく、財産家として栄えていた。



 この数日続く大雪に、まるで久しぶりにお越しになった伯母様にお会いできたような嬉しい心持ちになっていた月丸は、大きな屋敷の広い中庭で妻の花瀬と一緒に遊び戯れていた。そのときのことである。裏庭の鶏小屋の辺りから、いつになく騒がしいニワトリの鳴き声に混じって、コンコンとキツネの声が聞こえた。



 「やや、あの声は狐。さてはあの狐の奴、今日もまた我が主の屋敷に忍び込んで来たな。先日あれほど懲らしめてやったのに、もうその痛みを忘れ、再びわが主のニワトリに牙を掛けようというのだな。性懲りもない憎き奴め、最早容赦はせん、今度こそは討ち取ってくれる」



 と言うと、月丸は折から深く降り積もった雪を蹴立て、広い中庭を真一文字に横切って裏庭の鶏小屋へと急行した。狐は月丸が一目散に自分に向かって来るのを見ると、以前と同じように慌てふためいて、今度は表門の方向へ逃げて行く。月丸はその狐を逃すまいと後を追い、表門を駆け抜けようとしたその時であった。ガオオオ!この世のものとも思えぬ猛り声が聞こえ、表門の横合いから急に月丸に飛びかかろうとするものがあった。月丸は、これは一体何者かと、相手を見た。すると、何と月丸の身体より二回りも大きな虎が、目を怒らせ、その牙を鳴らし、刃のように反り返った爪を振り立て襲いかかって来ようとするではないか。その恐ろしさといったらこの上もないものであった。普通の犬であればおそらくその場で恐怖のあまり腰を抜かしたことであろう。しかし月丸は生まれつき勇猛な犬であった。襲いかかって来た大虎に雄叫びを上げながら喰い掛かり、反撃した。月丸は大虎としばらくの間死力を尽くし闘ったが、もとより勝負の行方は明らかで、残念ながら大虎と相打つほどの力は持ち合わせていなかった。無残なことに、月丸は大虎の牙と爪にかけられ、肉裂け、皮破れ、悲鳴を上げ息絶えてしまった。大虎は月丸のその亡骸をその鋭い牙の生えた大きな口に咥えるや庄屋の門を後にし、雪を蹴立てて、己が山奥の棲処の洞へと戻って行った。月丸が果てたその場所には血だまりだけが残され、その血飛沫は辺りの雪の上にあたかも紅梅の花びらを散らしたかのようであった。そして大虎が山奥に向かって残した雪の上の足跡に沿って、月丸の亡骸から滴り落ちた鮮血がはるか山の彼方まで点々と続いていた。



 物陰に隠れていた月丸の妻の花瀬は、夫・月丸と大虎との死闘、夫の果敢な勇ぶり、そしてその最期の様子までの一部始終を目を皿にして見つめていた。花瀬はか弱い雌犬であった。しかも折しも月丸の子を身ごもり、乳房も垂れ、夫に加勢して大虎と闘うなどというわけにはゆかぬ体であった。花瀬は、夫・月丸が非業の最期を遂げるのを目の当たりにし、自ら救いの手を差し伸べることさえできない無念さに、胸が塞がるほど悶え苦しんだ。花瀬が精一杯できることと言えば、甚だしく悲しみに充ちた声を振り絞って頻りに吼え立てることのみであった。悲鳴にも聞こえる花瀬の狂ったような吠え声を聞きつけ、主の庄屋と家人たちは「これは只事ではない、何事かあったに相違ない」と次々と屋敷から出て来た。皆がやって来て屋敷の門の前を見れば、ここ数日降り積もった雪が四方八方に蹴散らされているばかりか夥しい血に染まっている。庄屋をはじめ集まった者たちは「これは如何に」と、大きな獣の足跡に沿い滴り落ちた血の行方を見ると、遙か遠くの山陰を一匹の大虎が行く姿が見えた。大虎は口に獲物を咥えていた。それはどうやら月丸の亡骸であった。



 「あっ、あれは月丸だ!月丸!おまえ、喰われてしまったのか!くそ、もう少し早く気づきさえすれば、おめおめとあの大虎におまえを喰わせなぞさせなかったのに。ああ、かわいそうなことをした。月丸を見殺しにしてしまった」



 主の庄屋は可愛がっていた月丸の思いもよらぬ最期を見て、地団駄を踏んで悔しがったが、なすすべもなく、それは後の祭りであった。夫の非業の死を受け入れられぬ月丸の妻・花瀬は大変に取り乱していた。庄屋の内の者たちは代わる代わる花瀬の悲しみを和らげようとなだめすかしたが、花瀬の心は激しく動揺し、その日から心を乱すようになってしまった。花瀬は朝から晩まで犬小屋に籠もったきり、餌を与えてもなかなか食べようとはしなかった。錯乱した声で吠え散らかし、門を守る役割も忘れてしまった。あれほど忠実であったにもかかわらず、もはや番犬の用さえ果たせなくなった。主の庄屋は花瀬がこうして取り乱してしまった原因を知っているので、その狂おしい姿を見ていっそう気の毒さが募り心を込めて介抱してあげた。だが花瀬の症状は変わらず、次第にやつれていくのみで、体の肉は次第に落ち、骨が見えるほどに痩せこけ、潤っていた鼻先も渇き、この世の犬とは思えぬ心細い変わり果てた姿になってしまった。こうした中、お腹の子の月が満ちた花瀬は産気づき、錯乱した精神と激しい陣痛に見舞われながら一匹の子犬を産み落とした。生まれた子犬はそれはそれはとても端正で立派な茶色の毛の生えた雄犬だった。その子犬の背中には金色の毛が混じり、まったくもって霊妙な光を放っていた。それ故、庄屋はその子犬に「黄金丸」という名を付けたのであった。



 花瀬は手の施しようのない重い精神の病にとりつかれていた上に、さらにそこで出産を迎えるという事態であったから、黄金丸を産み落とすや、張り詰めていた心が一気に緩んでいよいよ重篤となり、明日をも知れぬ命となってしまった。臨終の際、花瀬は庄屋の裏で飼われていた兼ねてから懇意の牡丹という名の牝牛を枕元に呼び寄せた。花瀬は苦しい息をほっとつきながら、喘ぎ喘ぎ、そして途切れ途切れに牝牛の牡丹にささやいた。



 「牡丹さん。ご覧になられるとおり私の容体は甚だ重いのです。とてものこと、最早、命長らえるわけには行かないでしょう。ですから、牡丹さん、私は、ここで、一つだけなのですが、牡丹姐さんにぜひ頼んでおきたいことがあるのです。ぜひ頼まれてください。私の夫の月丸は、先日、あの猛虎の金眸の牙にかかり非業の最期を遂げました。それは牡丹姐さんもご存じのことと思います。あの時、私は夫・月丸があの金眸に殺害されるのを目の当たりにしながら、それに救いの手を差し伸べることなく、見殺しにしてしまいました。犬の身ではありますが、我ながら自分を節操も信念もない見下げ果てた犬だ、と思うのです。私は月丸の妻です。夫が危難に合っていたら、たとえこの身が滅びようと、夫をそこから救い出さずしてどうして妻と言えましょう。救わなければならなかったのは言うまでもないことです。道を行く上で当然行うべきことを知っていたら、必ずこれを実行しなければならないのが世の道理です。それが義を知る獣の守るべき本来の姿なのですから。こういったことは私風情でも普段から心がけて来たつもりでした。けれども、あの時私が命を惜しんだのは、私が普段の私の体ではなかったからなのです。もしあの夫の火急の危難の場に私が助太刀に出、夫とともにあの猛虎と争ったら、われら夫婦ともども殺され、あの虎の餌食にされていたに相違ありません。こうなったとき、誰が私たちの仇を討ってくれるのでしょう。夫と私と私のお腹の子の三匹があの大虎の牙に掛かって命を捨ててしまっては、それこそ元も子もありません。みなさんは夫の危難を救うことは妻が節操を守ることだと言われるでしょう。でも私はあのとき、そうすることは実は逆に妻としての節操を捨てることだと思ったのです。犬死にというのはまさにこのことを言うのだと思ったのです。そう私は固く心に決め、夫が非業の最期を遂げるのを目の前に見ながら、とても我慢できないことでしたがどうにか我慢して、こらえられないことでしたがそれもようやくこらえて、手も足も出さず、夫をみすみす見殺しにしたのです。それはただひたすら私の決めた節操を守ろうとしたからです。その節操とはすなわち夫の仇を討つのは、今私のお腹の中にいるこの子なのだ、この子に仇討ちを委ねるのだ、だから今目の前で最期を遂げている夫のために、私は身籠もっているこの子を産まねばならないのだ、そう思ったのです。そうして今日までどうにか命長らえたものの、不幸にも仇を云々言う甲斐もなく、病気になり床に伏してしまいました。あの時に絶えてしまったはずの私の命ですが、どうにかこうにか細々とつなぎ、やっとのことでこの子を産むことが出来ました。しかし、残念ながらこの子を育てる願いは叶わぬこととなりました。この子を産み育て遂げようとした仇討ち、それさえもできないこの口惜しさ。お姐さん、どうか推し量っていただけないでしょうか。お姐さん、この子をどうかお姐さんの養子として貰っていただき、お姐さんの乳で育て上げていただけませなんでしょうか。この子がひとかどの雄犬に育った時、お姐さん、その時に、私がお姐さんに申し上げる、今これから申し上げることを伝えて頂けませんでしょうか。お前が母のために何かをしたいというのであれば、それは私の夫の仇を討つことであること。お前が自分のために何かをしたいというのであれば、それはお前の父の仇のあの大虎の金眸を討ち取ることであるということを肝に銘じて、お前のその力量を養うこと。この二つこそ、母がお前に願うことである、と。お姐さん、お姐さんへの頼みというのはこの事です。お姐さん、どうぞお頼みします。お・たのみしま・す。たのみ・・・ます。たの・み・・・」



 と、花瀬の声は次第にか細くなっていった。冬の虫の声や草葉の露のように、命というものが脆くはかないのは、犬も人間も同じであった。


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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