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「物神化」と「ミネルヴァの梟」

前回引用した丸山真男の文章を私なりに解読するつもりだが、かなり面倒くさい文章なので、その一部で、有名な「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」というヘーゲルの言葉が書かれた部分だけ考察する。私はこの言葉の意味を、この丸山の文章を読むまで正確には知らなかった。
それと「物神化」という言葉も重要だと思うが、先にこれに関する私の考えを書く。

これは要するに「神格化」とほぼ同じだが、それとの違いは、「神格化」は実際に神の資格があるものを神とする場合もあるが、「物神化」は、「物」つまり創造主の単なる被造物にすぎないものを神格化する(愚行)という違いであるかと思う。つまり、その前提に「創造主と被造物」というユダヤ・キリスト教の「西洋人には説明する必要も無い哲学思想的常識」があるということで、その「物神化」という言葉を非西洋人が軽い気持ちで使うのは、理解が浅い、軽薄だ、となるのではないだろうか。ここで丸山は「理論」の物神化を論じている。

さて、「ミネルヴァの梟」のことだが、これは「世界の正確な認識は世界が終わった段階でしか不可能である」という、実は当たり前だが誰も気づかない真理を示しているかと思う。あなたは工場でベルトコンベアの上に載った部品を見て、その最後の製品の全体を把握できるか?
これは、歴史の完全認識(あるいは過去の歴史から未来を正確に予測すること)の永遠の不可能性と、歴史認識哲学や理論の限界を示すわけだ。
そして、マルクスの試みは、その不可能性への挑戦であり、当然「未熟な思想」「半端な思想」にしかなりえないのだが、それを受容した日本の思想家たちや学生たちはその事実をまったく認識しなかったということだろう。そしてマルクス理論を「物神化」したわけだ。
この指摘が、マルキスト造反学生たちが丸山を嫌悪した理由だろう。東大を占拠した彼らは丸山真男の蔵書(学者の生命に等しい)を焼き捨てるという蛮行をしたのである。


(以下引用)

しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。

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丸山真男「日本の思想」の一部転載

かなり長い記事なので、途中までしか読んでいないが、非常に重要な思想なのは明白なので転載する。「本に溺れたい」という、あまり魅力のない名前のブログから転載。溺れたければ勝手に溺れろ、と多くの人は(私を含めて)思うのではないか。しかし、ブログ管理者が抜き出した部分は日本の現在と過去と未来を考察する、実に有益な「補助線」だと思う。

(以下引用)

丸山真男『日本の思想』1961年、東京、岩波書店
目次
第1章 日本の思想(pp.1-66)
まえがき 日本における思想的座標軸の欠如、ほか
1.イデオロギー暴露の早熟的登場、ほか
2.「国体」における臣民の無限責任、ほか
3.天皇制における無責任の体系、ほか
4.〔本記事の以下にテキスト化:ブログ主・註
おわりに
第2章 近代日本の思想と文学―一つのケース・スタディとして(pp.67-122)
まえがき 政治‐科学‐文学、ほか
1.明治末年における文学と政治という問題の立てかた、ほか
2.プロレタリア文学理論における政治的および科学的なトータリズム、ほか
3.各文化領域における「自律性」の模索、ほか
おわりに
第3章 思想のあり方について(pp.123-152)
人間はイメージを頼りにして物事を判断する
イメージが作り出す新しい現実
組織における隠語の発生と偏見の沈殿
被害者意識の氾濫、ほか
第4章「である」ことと「する」こと(pp.153-180)
「権利の上にねむる者」
「である」社会と「である」道徳
「する」組織の社会的台頭
「する」価値と「である」価値との倒錯、ほか
あとがき




丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書、Ⅰ章「日本の思想」、四節(pp.52-62)


「二つの思考様式の対立」、同書、p.52


 右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的パターンをかたちづくっている。しかもこの両者は全く機能する次元を異にし、思想的な相互媒介ができないためにかえって同一人間のなかに共存して、場によって使い分けられることもあるし、異なった方向から意図的にあるいは無意図的に、同じ目的に奉仕するという結果にもなる。それは近代化の矛盾がはげしくなるにつれて乖離を露わにしたが、もともと日本の「近代」そのものに内在し微妙なバランスを保っていた契機の両極化であり、すなわち、日本における「制度」と「精神」との構造連関が認識論的側面において、両極として表現された形態にほかならない。そうして日本における社会科学の「伝統的」思考形態と、文学におけるそれ以上伝統的な「実感」信仰の相交わらぬ平行線もまたつきつめれば同じ根源に帰着するように思われる。



「実感信仰の問題」、同書、p.53


 日本の近代文学は「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを掴もうとする懸命な模索から出発した。しかもここでは、(ⅰ)感覚的なニュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格、(ⅱ)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(ⅲ)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(ⅳ)文学者が(鴎外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者まはた直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入ったものが少なくなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民ルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと―などの事情によって、制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。
 そこでは制度にたいする反発(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分かちがたく結ばれ、また、前述した「成上り社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に胚胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反発を「伝統化」した。しかもヨーロッパのロマン主義者のように自然科学的知性そのものを真向から否定するには、近代日本全体があまりに自然科学と技術の成果に依存しており、またその確実性を疑うほどの精神の強烈さ(あるいは頑固さ)もわが国の文学者は持ち合わせない。こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直観で掴むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する!(小林秀雄『Xへの手紙』)



「日本におけるマルクス主義の思想史的意義」p.55


 あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な抽象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもるこうした思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは、ほとんど自然的現実にたいすると同じ「すなお」な心情でこれを絶対化するプロセスについては、ここで立入った叙述を略する。その代り、最後にわが国では社会科学的思考を代表し文学的「実感」の抵抗を伝統的に触発して来たマルクス主義の問題を、以上のテーマとの関連でとり上げ、近代日本の知的構造における問題性を総括することとしよう。
 マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は後で述べるような悲劇の因をなしたけれども、そこにはそれなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的動因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッパでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。
 第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めていくものである事を明らかにした。これまで哲学に於いてのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではなくて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまた凡そデカルト、ベーコン以来の近代的知性に当然内在しているはずの論理は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模に呼び醒まされたといって過言ではない。さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが国では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということをやはり社会的規模に於て教えたのはマルクス主義であった。たとえコンミュニストの大量転向が、前述したように思考様式からすれば、多くは伝統的な形でおこなわれたにしても、思想的転向がともかく良心のいたみとして、いろいろな形で(たとえマイナスの形ででも)残ったということは、少なくもこれまでの「思想」には見られなかったことである。マルクス主義が日本の知識人の内面にきざみつけた深い刻印を単にその他もろもろのハイカラな思想に対すると同じに、日本人の新しがりや知的好奇心に帰するのが、どんなに皮相な見解であるかはこれだけでも明らかだろう。



「理論信仰の発生」、同書、p.57


 しかしながら、マルクス主義が日本でこのような巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と―現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性からうける抵抗と反発とをマルクス主義は一手に引き受ける結果となった。第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想家にも多かれ少かれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体系的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有な観を呈するに至った。ちょうどマルクス主義が「思想問題」を独占したように公式主義もまたマルクス主義の専売であるかのように今日でも考えられている。その際、「公式」というものがもつ意味や機能は殆んど反省されず、またマルクス主義以外の主義・世界観・教義などが果して日本の土壌で理解され信奉されるときはマルクス主義に劣らず公式主義的にならないかという問題はともすると看過されるのである。
 理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神 ― 自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神 ― からでなく、既製品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。日本の大学生や知識人はいろいろな範疇の「抽象的」な組合せによる概念操作はかえって西洋人よりうまいと外国人教師に、皮肉を交えた驚嘆を放たせる所以である。
 しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊饒な現実と比べて、みすぼらしく映ずることは当然である〔ブログ主註:本記事末文の著者註とブログ主註を参照〕。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆んど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反発も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果しない悪循環をおこすのである。
 しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。


 ブログ主註:ヘーゲル/マルクスの終末論(ヘブライズム=キリスト教神学)的構造。だから、デモーニッシュにもならざるを得ません。「神学」であれば、仮説やフィクションという要素はゼロです。



「理論における無限責任と無責任」、同書、p.60


 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。
 ところが、実践(実感!)に対するコンプレックスの形であれ、あるいは理論の物神化の形であれ、理論が現実と同じ次元に立って競争するような知的風土では、さきのヘーゲル→マルクス的考え方はややもすると次のような結果を生む。すなわち一方、自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建て前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。もっとも、マルクス主義においてはトータルな理論化によって蓄積された現実に対する負債は、現実のトータルな革命的変革で返却される仕組みになっているのだが、この仕組みはトータルな変革が現実の日程に上っているか、そうでなくても組織論が自然成長性と目的意識性との結合を、日常生活面からトップ・レヴェルの問題まで、各々の次元に有効に推し進めているかぎりにおいてのみ実現される。いずれの条件も欠けていて理論の物神化だけが進行すると、社会科学や歴史学の中で革命が自慰を行うという一種の革命アカデミズムの傾向になるか、それとも経典(『資本論』)の訓詁注釈学としてあらわれるか、どちらかに転化することがほとんど避けられなくなるのである。
 繰り返しいうように、以上の問題は必ずしも厳密な意味のマルクス主義者の間にだけ見られるのではなく、多少とも日本の社会科学にこれまで伴って来た傾向である。社会科学は文学とちがって本来、論理と抽象の世界であり、また(それがよいかどうかは別として)必ずしも自己の精神の内面をくぐらずに ― 個性の媒介を経ないで ― 、科学の「約束」にしたがって対象的に操作しうるので、少くも理論化された内容に関する限り、日本の思考様式に直接緊縛されるモメントが希薄である。それだけに対象化された理論とその背後のなまの人間の思考様式との分裂が現れやすいわけである。社会科学の発想と文学的発想とのくいちがいが日本における「ヨーロッパ」対「伝統」の問題のような形であらわれるのはここに由来している。本当の問題は両者に裏はらの形で共通して刻印されている日本の「近代」の認識論的特質なのではなかろうか。それが社会科学者と文学者によってともに自覚されるとき、そのときはじめて、両者に共通の場がひらける。前述した官僚的思考とローファー的思考との悪循環の根をたちきるためのさし当りの一歩がこの辺にあるように思われる。


同書、p.62
※ さきに引用した制度化と現実の関係についてのトレルチの言葉を想起されたい。「理論は灰色で現実は緑だ」というゲーテの有名な言葉は、またマルクス主義最高の理論家でもあるレーニンのもっとも愛好した言葉でもあった。しかしこの言葉もまたさまざまの歪曲のヴァリエーションをもっている。第一には、理論の追求などは所詮人生における本質的なものにかかわりなく、二葉亭ではないが、男子一生の業とするに足りないという慷慨派または実感密着派の正当づけとなる形態、第二に、手足をバタバタ動かす「実践」の優位、第三に、一方で理論のスコラ主義を「堅持」しながら、他方で「実感」に機会主義的に追随するという使い分け等々。(私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから、「庶民の実感」に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある。)したがって「理論信仰」と「実感信仰」は必ずしも同一人のなかに併存するのをさまたげないわけである。


〔註〕ゲーテの「理論は灰色で現実は緑だ」、については、下記参照。原文を引いてあります。
Grau, teurer Freund, ist alle Theorie,Und grun des Lebens goldner Baum.(Mephistopheles): 本に溺れたい


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これもお料理「哲学」か?

まあ、政治や哲学の話より、こういう身近な「お役立ち記事」のほうが気楽に読めて実益があるのではないか。もっとも、私は自分の娯楽として記事を書いているのだから、これは自分自身のためのメモである。
「野菜を焼く」というのと「炒める」との違いがあるのか無いのか分からないが、「茹でると栄養分が湯に溶けて無くなる」というのは、いかにもありそうな話ではある。

私は子供のころ、カボチャの煮物が大嫌いだったが、大人になって「カボチャのソテー」つまり、「カボチャを油で炒める」と、カボチャがイモ類とまったく同じ美味さで、しかも煮物の「臭み」が無いことを知って、よく料理するようになった。ちなみに、安い豚肉をステーキにした後の肉から出た油でカボチャなどを炒めると、フライパンの油分の処理にもなり、一石二鳥である。
なお、カボチャを切るのは難事業なので、子供にはさせないほうがいい。コツは、包丁で「押し切り」せず、ちゃんと刃を前後に動かして切ることである。押し切りすると、刃がカボチャに食い込んで動かせなくなる。言うまでもないが、小さな包丁を使うのは不可である。包丁は作業によって使い分けるものだ。ペティナイフはトマトの蔕などを「刳り抜く」という作業もできる。
これもついでに言うと、私はフライパンは基本的に洗わない。油分を流しに捨てるのはタブーである。残りかすは紙で拭いてゴミ箱に捨て、フライパンは油分が膜状に残ったままにする。


(以下引用)

「アスパラガスは茹でないでください!」八百屋からのお知らせ!そのワケとは

青髪のテツ八百屋歴14年|野菜のプロ







こんにちは、八百屋歴10年の青髪のテツです。


だんだん暖かくなってきて、春らしい季節になってきましたね。


春といえば、春キャベツ、新玉ねぎ、新じゃがいも、アスパラガス、たけのこなどの山菜が旬を迎えます。皆さんはどの春野菜をよく食べますか?


今回はその中でも、年中品揃えされているけど、この時期特に美味しくなってくるアスパラガスをピックアップします。


春のアスパラガスは、甘みが強く、柔らかく、風味や香りが強いという特徴があり、とても美味しいんですよね。


そんなアスパラガスですが、個人的に茹でるよりも美味しい食べ方があるので、皆さんに共有していきます。

アスパラガスは焼きがうまい


アスパラガスは茹でて食べるのが一般的なのかなと思いますが、焼いて食べる方法がおすすめです。


フライパンに油をしいて、両面に軽く焦げ目がつくまで焼いて、塩を振って食べるだけで本当に美味しいので試してほしい。


ポイントはアスパラガスを切らないことです。下の硬い部分の皮だけ剥いて、あとはそのまま焼きます。こうすることで、アスパラガスの水分や旨み、甘みが流れ出ないので、ジューシーに仕上がります。


また、アスパラガスはビタミンCやビタミンB6などの水溶性の栄養を多く含んでいるため、茹でると茹で汁に栄養が流れ出てしまうんです。


なので、アスパラガスは茹でるよりも焼いて食べることをおすすめします。

アスパラガスはホイル焼きも最高


アスパラガスは、きざみニンニクとバターでホイル焼きにしてもめちゃくちゃ美味しいのでおすすめです。


材料(1~2人分)


アスパラガス…3本


にんにく…1かけ


バター…適量


しょうゆ…小さじ1


作り方


1. アスパラガスの根本の皮を剥く


2. にんにくをみじん切りにする。


3. カットしたアスパラガスとにんにく、バターをホイルに乗せる。


4. ホイルで包んで、180度のトースターで10~20分加熱する。


5. 焼き上がったらしょうゆをたらして完成。


とっても美味しいので、ぜひ試してみてくださいね。

アスパラガスは焼いてもうまいまとめ


今回は美味しいアスパラガスの食べ方を紹介しました。


ぜひ今回の記事を参考にして、これからの季節美味しくなってくるアスパラガスをたくさん食べてくださいね。


他にも「新鮮で美味しい新玉ねぎの見分け方」や「ブロッコリーに潜む虫や汚れをごっそり洗い流す裏技」という記事を書いているので、気になる方は読んでみてください。


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哲学と経済学

「蚊居肢」記事の一節だが、ひとつの考え方として面白いので転載する。まあ、あまりに「思想的にお洒落」すぎる印象だが、それは内容より書き方の問題かもしれない。あまりに純粋な思想は数学の理論みたいなもので、一般人には意味不明である。
我々一般人は、たとえば愛国心がなぜ全体主義や暴力や戦争と直結するのか、という具体的な問題なら考察できるが、哲学が社会を動かしたという話は聞かない。民衆を動かすのは常にデマでありデマゴーグ(扇動者)なのである。フランス革命も、哲学ではなく「スローガン」が民衆を動かしたのであり、それは大きく言えばデマが動かしたのである。
下の引用記事も理解困難だが、読み物として面白いということだ。

この部分の前に書かれた「日銀が利上げできない理由=利上げは日銀の破産を意味する」も面白いので、後で別記事として転載するかもしれないが、まあ、ご自分で読むのが一番だろう。
ただ、私は、そもそも、日銀の利上げがインフレ抑制になるという理屈がよく分からない。インフレは企業の通常の活動の結果であり、日銀金利とさほど関係があるとは思えないからだ。経済学の常識というのは、案外落とし穴なのではないか、という気もする。(大企業は膨大な内部留保があり、銀行からの借入金にさほど頼っているとも思えないから、借入金の利払いのために値上げをするとも思えない。単に、他者が値上げするから自分たちも値上げしても大丈夫という便乗値上げだろう。これも「民衆心理」のひとつだ。日銀が利上げしたらいっそう企業も値上げして大インフレ、そしてスタグフレーションになる、という可能性もあるのではないか。)*スタグフレーション=インフレ+不況
今さら言うまでもないが、私のブログはそういう「素人の寝言・戯言(ざれごと)」であることをお断りしておく。

(以下引用)




ここで、私が好んで引用してきたヴィクトル・フーゴーの言葉と柄谷注釈を掲げておこう。



故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。


The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place.


(サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章)




こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》


これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 



これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。


その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。〔・・・〕



次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。〔・・・〕



第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年)



私は愛国ときくとほとんど常に悪い臭いを嗅ぐ。


 


人は共同体のネガを目指すべきである。




ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)




デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。〔・・・〕



誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


もっとも愛国心にはナショナリズム以外に郷土愛(パトリオティズム)がある(パトリオティズムは、生まれ育った共同体や郷土を意味する「パトリア」に由来する言葉だ)。人はこの郷土愛からは容易には免れ難い。

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電気通信企業の「犯罪誘発教唆無責任営業」

楽天モバイルのこの「犯罪教唆営業」が不問に付されたら、今後は他の企業も同じ「犯罪行為」をし始めるのではないか。
まあ、スマホなどの電気通信業が犯罪の温床になる可能性があることは、最初から予見された話だと私は思っている。

(追記)これも楽天企業である。楽天Gは楽天主義から悲観主義へ方向転換か。まあ、楽天に限らず、電子取引は危険が一杯だろう。

 


楽天証券で相次ぐ不正アクセス被害
金融資産の売却と謎の中国株購入の手口
楽天証券を利用する複数のユーザーが、不正アクセスの被害を受けたとXで報告しています。


被害の共通点として、楽天銀行の口座から証券口座に資金が移され、その後、保有していた金融商品がすべて売却されるという流れがあります。


その資金で「アンバー・ヒル・フィナンシャル」などの中国株が勝手に購入されており、被害者は資産を失う事態に陥っています。


また、楽天証券側に問い合わせた被害者によると、証券会社側は補償に応じておらず、対応も冷淡だったとの声が上がっています。


こうした被害報告が相次ぐことで、楽天証券のセキュリティ対策に疑問を抱く声も広がっています。
https://sn-jp.com/archives/234924


(以下引用)記事隠し(政府の「黒塗り」と同じ)部分はカットした。
楽天モバイルは「不正請求」の温床か 被害者は「不誠実な対応」に怒り、「泣き寝入り」も

 2月下旬、警視庁は楽天モバイルの通信回線を不正に契約したとして中高生3人の逮捕を公表した。専門家は、楽天モバイル社の「セキュリティーの低さ」を突いた犯行と指摘する。業界では、同社の不正契約対策は以前から問題視されてきたという。


*   *   *

■楽天モバイル狙いに「やっぱり」

 最近、回線不正契約による被害に遭った楽天モバイルのユーザーのトモコさん(東京在住)は、中高生による事件を知ったとき、「やっぱり」と思った。


「こういう犯罪の標的になるということ自体、楽天モバイル社のシステムが脆弱なのだと思います」(トモコさん)


 読売新聞などによると、逮捕された中高生3人は昨年5月から8月にかけて、秘匿性の高い通信アプリ上で購入した11人分の楽天モバイルのID、パスワードを用いて、不正にログインし、105件の回線契約をした疑いがある。指示役の中学生は「各社の契約条件などを調べ、本人確認の甘い楽天モバイルを狙った」と、捜査員に話しているという。

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■問い合わせに4時間、「お客様の落ち度です」

 トモコさんが通信回線の不正契約に気づいたのは今年1月中旬だった。携帯電話代の請求金額を知らせるメールを開くと、画面に目がくぎづけになった。普段の20倍ちかい金額が表示された。


「『何か変な操作をしたのかな』と思った」(トモコさん)


 インターネット上の会員サポートサービス「my 楽天モバイル」を確認すると、2カ月にわたって高額請求をされていた。内訳と契約回線を見て、さらに驚いた。


「身に覚えのない電話番号がずらりと表示された。『不正請求だな』と、直感しました」(同)


 楽天モバイルの問い合わせ窓口に相談しようとしたが、チャットも電話もなかなかつながらない。相談までにそれぞれ1~2時間、計4時間近くを費やした。


 ようやくオペレーターにつながると、「my 楽天モバイル」のIDやパスワードを変更し、楽天モバイルの決済で使用しているクレジットカード会社にも調査を依頼するよう告げられた。また、楽モ社側は不正請求か否かを判断することができないという。「同社も被害者である」と告げられ、遠回しに、「楽天IDとパスワードの管理が甘いのが原因。お客様の落ち度です」という趣旨のことを言われ、ショックを受けた。

楽天モバイルは「不正請求」の温床か 被害者は「不誠実な対応」に怒り、「泣き寝入り」も

■不正請求の訴えいくつも

 相談窓口の指摘を受けて、楽天モバイル以外の楽天サービスやほかの請求書をすべて調べたが、IDやパスワードの漏洩らしきアクセスや、不審な請求は見あたらなかった。


 SNSを検索すると、トモコさんと同様な目に遭い、「複数回線を契約され、不正請求された」という内容の投稿をいくつも見つけた。返金されなかったという書き込みも見た。


<楽天モバイルで身に覚えのない契約が勝手にされていました。8回線。店舗に行ってもダメ。AIチャット、専用回線、いつもつながりません>


<不正契約されて自腹で負担になった。さすがに納得できない>


「楽天モバイルの相談窓口に『同様の被害はほかにもあるのでは』と尋ねたところ、『あります』と、言っていました」(同)

 クレジットカード会社に調査を依頼した際も、楽天モバイルに関して同様の相談があるか尋ねると、「ある」と言われたという。

■いまだ返金されず

 なぜ、楽天モバイルの回線で不正契約が繰り返されるのか。同社のシステムに欠陥があるのではないか。楽天モバイルの相談窓口に尋ねたが、「わかりかねます」と言う。


 トモコさんはクレジットカード会社の規定に沿って、カード番号を変更した。いくつもの支払い先に連絡して、番号の変更手続きを行った。


 楽天モバイルによると、カード会社が不正利用を確認し、悪用が確定した場合、支払い済みの請求はカード会社から返金されるという。しかし、トモコさんはまだ金を受け取っていない(3月中旬時点)。カード会社に問い合わせると、「楽天モバイルからの返事待ち」だという。


 トモコさんが腑に落ちないのは、楽モ社から「次回以降、同様のお問い合わせをいただいた場合には対応ができかねます」と告げられたことだ。


「楽天モバイル社のシステムが脆弱なゆえのトラブルだと思っています。同様のことが起こる恐れがあるのに、1回の対応に限る理由がわからない。不誠実の極みじゃないでしょうか」(同)

楽天モバイルは「不正請求」の温床か 被害者は「不誠実な対応」に怒り、「泣き寝入り」も

■「問題があるのでは」とライバル社

 同一名義での大量不正契約をされた携帯電話は特殊詐欺などの犯罪で使用されてきた。そのため、警察庁や電気通信事業者協会は、「原則として」、個人による契約回線数を5回線までに制限してきた。


 NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの契約数は5回線までで、追加契約には本人確認が必要だ。一方、楽天モバイルは1つの楽天IDで最大15回線まで契約可能で、追加契約には本人確認書類の提出は不要となっている。逮捕された中高生はこの脆弱性に目をつけ、回線を不正に契約したとみられる。なぜ、楽天モバイルでは他社に比べて回線数の上限が2倍以上多く、本人確認も甘いのか。スマホジャーナリストの石川温さんは、こう語る。


「楽天モバイルは新規参入の会社なので、他社スマホからの乗り換えに特に力を入れ、とにかく契約者数を増やそうとしています。そのため、回線数の上限も本人確認も緩和したいのでしょう」


 楽天グループの三木谷浩史・会長兼社長は「乗り換えの手間が煩雑」だとして、本人確認の簡略化に力を入れてきた。


 楽天モバイルは2023年7月、楽天カードの所有者に対して、本人確認書類の提出が不要な「Rakuten最強プラン(データタイプ)」の提供を開始した。


 これに対して、ソフトバンクの宮川潤一社長は、次のように述べている。


「ちょっと問題があるのではないか。本人確認については犯罪防止の観点から非常に重要だと理解している」(24年8月4日の決算発表で)


 楽天モバイルの音声通話の契約についても、楽天銀行、楽天証券、楽天生命に提出しているいずれかの本人確認情報を「Rakuten最強プラン」申し込み時の本人確認に使用することが可能となっている。

■不正契約発覚は氷山の一角か

 2年前、三木谷氏が「本人確認をしないで他社から乗り換えられる仕組みを導入する」と発言したとき、「そんなことをして大丈夫なのか。業界内では懸念された」と石川さんは言う。


「結局、楽天モバイルが本人確認書類の提出が不要なプランを導入すると、回線が不正契約される事案が発生し、同社は注意をうながすようになった。やっぱり、そうなるよな、と思いました」(石川さん)


 楽天モバイルは不正を検知するモニタリングを24時間365日実施しており、不正に契約された回線を検知した場合、パスワードのリセット、契約者への通知、回線の利用停止、契約解除などの対応を随時行っているという。


「今回の不正契約について、通知は一切なく、こちらから問い合わせて発覚した。不正契約に気づいていないユーザーは相当数いるのではないか」と、先のトモコさんは怪しむ。

楽天モバイルは「不正請求」の温床か 被害者は「不誠実な対応」に怒り、「泣き寝入り」も

■楽天モバイルの回答は

 記者は楽天モバイル社に次の質問を送付した。①スマホの不正契約の相談はどのくらい寄せられているのか。②警察庁の「上限5回線」の要請にもかかわらず、なぜ契約回線の上限を15回線に設定しているのか。③追加契約には本人確認書類の提出が不要なことや、本人確認書類の提出が不要なプランの提供は、犯罪防止の観点から問題ではないか。④不正契約があっても、契約者にそれが通知されない事案が最近あった。不正を検知するモニタリングは機能しているのか。⑤不正契約への問い合わせは1回だけしか対応しないのはなぜか――。


 これに対して楽モ社は以下のように、回答した。


 ①回線不正契約の相談については、「個別に対応しておりますので、詳細の回答は控えさせていただきます」。②契約回線の上限を15回線にした理由は、「お客様の様々なニーズに対応するため」。③④については、「今後も不正検知のためのモニタリングや不正防止のための仕組みの強化など、継続的かつ多岐にわたる対策に徹底して取り組んでまいります」などとし、実のある回答は得られなかった。


 ⑤については、「被害に遭われたお客様には、基本的に1回まで救済措置についてご説明させていただいておりますが、再度被害に遭われた場合などは個別に状況を確認させていただいたうえで、柔軟に対応させていただいております」。


 スマホの回線はいまや社会インフラだ。それが第三者に契約され、長期にわたり不正請求の温床になっているとしたら、由々しき事態だ。楽天モバイル社の倫理観が問われている。


(AERA dot.編集部・米倉昭仁)


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沖縄・日本・世界

冷笑系コメントの多い「はてな匿名ダイアリー」記事だが、ここに載せたのはかなり真面目な考察で、沖縄県民(あるいは沖縄人)の私もほぼ同感である。ただし、私のように方言も話せない人間には、沖縄文化ごり押しの地方色にはむしろ違和感のほうが大きい。
私が受けた学校教育の内容も、本で得た知識も、すべて「日本文化」なのであって、「沖縄文化」ではない。そして、文化こそがその人間の国籍を決めるというのが私の思想なので、私は「沖縄人」であるよりは「日本人」であるようだ。さらに言えば、それらを超越して「世界市民」である。なぜなら、私の頭は世界文学や世界的思想でも形成されているからだ。ただ、そこには「絶滅した人種・民族・国家」の「文化的痕跡」のフラグメント(断片)はほとんど無い。そこは、暴力は文化を歴史から抹殺するのである。

ちなみに、私は尊皇主義者だが、それは「天皇は国家機関として有益性のほうが大きい」という「天皇機関説」によるものであり、さらに言えば、聖徳太子の「十七条憲法」や明治天皇の「五箇条の御誓文」は、時代的制限部分を除けば、今の「日本国憲法」と大きく乖離することはない、「人民への慈愛と国家首長としての責任」と「協和思想(注:共和ではない)」に基づく、優れて先進的な思想だと思っている。これは現在の「民主主義の腐敗と崩壊」の世界的状況を直視すれば、考えるべきことを含んでいるだろう。
私は、政治体制としては今の「象徴天皇制」こそが天皇制の伝統に近いと思っているが、さらにそれを進化・活用できないか、と考えている。具体的には「重大な政府決定への差し戻し権」を(一種の国民代表として)天皇に与えてはどうか、ということだ。ただし、その後で国民投票によって最終決定をする、というものだ。それには、学識経験者による「天皇参与」という役職を作るべきだろう。
まあ、単に、今思いついただけの妄想だが、政府独裁というよくある事例を防ぐ、わりと優れたアイデアではないだろうか。これは天皇という存在の伝統を持つ日本以外では不可能なアイデアだろう。

(以下引用)

台湾中国じゃないなら沖縄日本じゃないんじゃないかと思ったり

去年の夏、初めて沖縄に行った(厳密には2回目だけど1回目は物心ついてないくらいの歳頃だからノーカン)。


そして思った。


ここは近代国家日本併合した属州では?


誤解のないよう断っておくが、別に沖縄を見下してるとか差別してるわけではないからね。


感覚としてここは同じ日本ではないなと思ったという話。


  


人が異国を感じる時って、大きく分けて3つあると思う。


言葉が通じない時、見た目が違うとき、同じ歴史を共有してない時。


沖縄って日本語通じるし、見た目も変わらないしで、一見すると同じ日本に住む日本人って感じがする。


だけど、これまで歩んできた歴史全然違うんだよね。


  


明治に入ってしばらくするまで沖縄琉球王国だった。


から沖縄には平安時代もなければ戦国時代もない。なんなら江戸時代すらない。


それってつまり遣唐使もなければ関ケ原合戦もないし、戊辰戦争はもちろん、歌舞伎浮世絵落語もないってこと。


これってすごいことだよ。


日本本土だったら大体北から南までどこいっても神社があったり城があったりして、「この寺社西暦云百云十年の頃○○の守の何たらがこの地を訪れ開闢した。うんぬんかんぬん・・・」みたいな説明が書かれている。


どんな山奥のへき地であってもせいぜい西暦1000年くらいまでにはそういう開闢の碑みたいのがあって、しかも大抵天皇の親戚か偉い坊さんか、地元豪族武士の名が刻まれてて「あーここは日本なんだな」って実感するわけ。


  


それが、沖縄には、ない。


代わりにあるのがグスク(城)やウタキ(御嶽神社みたいなもん)、ウドゥン?(王家の墓)


行ってみたが、あまり日本のそれ(城・神社古墳)と違う。


説明書きを読んでも全然よくわからない。きっと日本本土歴史殆ど差してないから予備知識が足らな過ぎて理解しづらかったのだと思う。


  


これってよく考えたら当たり前の話で、沖縄って1872年から1945年までの73年間、そして1972年から現在までの53年間、あわせてたった120年くらいしか日本」だった歴史がないんだよな。


字面で思う以上に肌感覚としてここは日本じゃないんだなって衝撃だった。


   


よく「日本神の国天皇の国だ」と愛国心の強い人はいうけども、沖縄の人は絶対ピンとこないと思うんだよ。


しか日本本土まれ日本本土育ちの日本本土人が多数を占める日本本土で培われた風習建造物、しきたりは歴代天皇が君臨してきた日本歴史と切り離せないから、思想上の賛否は置いといても一定そういう感覚を覚えるものだと思うのだけど、


こと沖縄に関しては第二尚氏が君臨してきた時代が圧倒的に長くて日本編入されてから時代も短いしであんまり天皇の影響力を感じられないんじゃないか


からもし今後沖縄人が台湾人中国人批判するのと同じロジック独立を主張してきてもおかしくないのかもなとちょっと思った。


まあ経済的にも軍事的にもあり得ないだろうけど。


    


(ちなみに北海道には何度も行ったことあるが、あっちもアイヌ文化的意味で似たようなもんではあるんだけど、あそこは植民の影響で現地アイヌの人たちがほとんど残ってないかあんまり異国感ないんだよね。


住民ほとんどが日本本土から移民末裔で、アイヌ文化とは完全に断絶してるからだと思う。


沖縄は元々日本人じゃない人たちが今でも多数住み続けて文化継承しているからより異国感が強いんだと思うわ。)

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酔生夢人の沖縄案内

私は、上位の3都府県とも住んだことがあるが、東京はカネが無いと住めないし、住む意味も無いところだろう。海外の人間が観光に行くには最高かもしれないが、日本人が観光するところではない、と思う。京都は住むにも観光にもいいところである。それは沖縄も同じだが、沖縄で暮らすには「仕事がほとんど無い」から、まあ、観光と、そして小金のある隠居老人が老後を過ごすのにベスト、といった評価か。その気になれば、つまり、少し我慢すれば冷暖房無しでも生きていける「気候的天国」だ。田舎では放置家屋が多いから、それ(が買えるかどうか知らないので、要は中古住宅)を安価で買ってDIYで改修して住むのが一番安価で、老後の趣味としてもいいかと思う。とにかく、窓から庭木や空や自然が見える家がお勧めだ。観光のついでに沖縄の田舎を見て回ったらいい。

観光に関しては、近年、沖縄県内の多くの「無名」の場所が整備されていてお勧めできる。
特に、穴場は「中城公園(中城城址)」と勝連城跡である。後者は単なる地元びいきで、「海中道路」をドライブするついでに立ち寄るといい。GWなら、高台を吹き抜ける風が最高に気持ちいいだろう。時間制限は無いから、城跡の木陰で瞑想するのもいい。中城城址は、これはたとえばイギリスの城跡(ほとんどは遠くから見ただけだが)と比べてもはるかに見るに値するものだ。沖縄がほとんど一望できる。なお、城跡と城址(じょうし)の違いは私は知らない。たぶん、同じである。
古跡に興味の無い人には、やはり「海洋博公園(美ら海水族館含む)」がお勧めか。公園内にはとてもきれいな泳げる小さなビーチもあるが、GWでは泳ぐにはまだ早いだろう。海水温は気温より上がるのが遅いのである。そのほか、東南植物楽園が私にはお気に入りだったが、まだ存続しているかどうかは不明である。私には未知だが、子供連れの観光旅行なら新しくできたジャングリラなども行ってみてもいいかもしれない。その他、万座毛や、読谷の公園(臨海公園と言ったか)も眺めがいい。もっとも、「眺め」だけなら、沖縄はほとんどすべての土地、特に海岸近くの崖や高台は眺めがいいのである。ただ、子供や若者が「眺め」だけで満足しないのは大人は心得ておいたほうがいい。

小さな子供連れで一日を遊ぶなら、中城とうるま市の中間にある「運動公園」で自転車を借りたりして遊ぶのもいい。海岸近くの広大な公園で、海岸に近い所は周遊道路もある。確か入場無料で、その気になれば手弁当持参でタダで一日遊べると思う。午前は中城城址を見て、どこかで昼飯を食い、午後は半日ゆったりと運動公園で過ごすか、海中道路まで足を延ばしてドライブするのもいい。その途中に勝連城跡もある。
だが、老人や子供連れなら詰め込みスケジュールはあまりお勧めしない。距離的には沖縄の南端(那覇)から北端(北部山地。海洋博公園など含む)まで1時間半くらいで行けるとは思うが、車に乗っている時間そのものが無駄と言えば無駄ではある。いい風景を見ながら心が解放され、のんびりできるのが沖縄の最大の特長だ。自然の風の気持ちよさを味わえない人間には、沖縄の味は分からないかもしれない。


旅行したい「都道府県」ランキング。北海道や京都、大阪を抑えた1位は。観光に人気のあの土地だった© ハフポスト日本版

 


ゴールデンウィークが近づいてきました。次の旅行先は決まっていますか?


R&Gは全国の500人に「次に行ってみたい国内の旅行先」についてアンケート。ランキング形式でまとめた結果を3月19日に発表しました。


早速、結果を見ていきましょう。

次に行ってみたい国内の旅行先ランキング TOP7

7位 大阪府(3.8%)


5位 福岡県(同率・4.0%)


5位 広島県(同率・4.0%)


4位 長崎県(4.4%)


3位 京都府(4.6%)


歴史的建造物や名所の多い京都府が3位です。「修学旅行で行きましたが、学生では行けるところが限られていたので、自由に観光したい」「清水寺や金閣寺、銀閣寺など歴史的建造物を見てみたい」などのコメントが集まりました。


2位 北海道(16.0%)


豊かな自然やグルメが魅力の北海道が2位にランクイン。投票した人からは「函館山からの夜景を見たい。美味しい海鮮を食べまくりたい」「知床。夏と冬にそれぞれ訪れたことがあり、その時の自然の美しさに圧倒されたので、また見に行きたい」などの声が寄せられました。


1位 沖縄県(16.8%)


沖縄県が1位に輝きました。「一度でいいので、綺麗な海を見てみたいし、美ら海水族館も行きたいです。現実から離れて楽しみたい」「暖かいところが好き。沖縄独特の雰囲気を味わってみたい」など、沖縄県ならではの温暖な気候や、美しい海を評価するコメントが集まりました。





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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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